第二十二話「自分の小ささを知りました」
「ああ……私って、なんて薄情なんだろう……」
美沙奈とのお茶会の帰り道、藍里は独りとぼとぼと歩きながら自己嫌悪に襲われていた。
「村の若者が一度は村を出て行く理由」について、首尾よく美沙奈から聞き出すことが出来た。それはいい。
問題は、それをよりにもよって美沙奈に尋ねてしまった藍里の浅はかさにあった。
――未だ理由は不明だが、美沙奈は葛葉村を出られないらしい。
けれども、大友の家は「村の外での権益を確保し、村へ財をもたらし、村を動けぬ葛葉に便宜を図る」のが宿命なのだ。
跡取り娘である美沙奈が村の外へ出られないのでは、一族の務めを果たせないことになる。だから、美沙奈の言った「半人前にもなれない人間」とは、恐らく彼女自身のことなのだ。
美沙奈は人を恨むような人間ではない。それは、まだ付き合いの短い藍里にも分かる。
けれども、藍里の不躾とも言える質問が、彼女の心に何かしこりのようなものを残したであろうことは、想像に難くない。あの心優しい美沙奈を、藍里の浅はかさが傷付けたのは間違いなかった。
「どうしよう……」
美沙奈に謝るべきだと思いながらも、今の藍里には彼女に告げるべき謝罪の言葉が何も浮かばなかった。それほどに、藍里はこの村のことも、美沙奈のことも、何も知らないのだ。
***
「藍里ちゃん。考え事をしながら包丁を使うのは、危ないわよ」
「あっ……ご、ごめんなさい」
その日の夕食の支度の最中、うわの空で玉ねぎを刻んでいたところ、藍里は智里にピシャリと叱られてしまった。智里が今のように強い口調で叱りつけるのは、とても珍しい。
みれば、みじん切りにするはずの玉ねぎは、不揃いなざく切りになってしまっていた。
「もしかして、具合でも悪いの?」
「いえ、そういう訳では……大丈夫です」
智里に心配をかけまいと、藍里は気を取り直すと玉ねぎと向かい合い、みじん切りをやり直し始めた。
――本日のメニューはハンバーグだ。藍里のハンバーグは牛肉ではなく、豚と鶏のひき肉を使うのが特徴だ。
まず、玉ねぎをみじん切りにし、よく炒める。それを少し冷ましてから、ひき肉、牛乳に浸したパン粉、卵、すりおろしたニンジンなどと一緒に丁寧に手ごねする。あとは、牛肉のハンバーグと手順はあまり変わらない。好みの大きさに成形し、フライパンでじっくりと焼き上げる。
ハンバーグを焼いた後の肉汁も無駄にしない。焦げなどを取り除いた後、トマトケチャップと中農ソースを適量加え、混ぜながら一煮立ちさせる。これで簡易ソースの出来上がりだ。
洋風の味付けがあまり好きではない智里向けには、別のフライパンに酒と醤油を適量加えて加熱し、その中に焼き上げたハンバーグを投入し照り焼きにしたものを作る。簡単和風ハンバーグという訳だ。
付け合わせはニンジンのグラッセやキャベツの千切り、和風の方には大根おろしを沿える場合もある。
これも藍里が愛華から受け継いだレシピの一つだった。――ちなみに、愛華は中農ソースではなくウスターソースを使ったものを好んで食べていた。酒に合わせる為か、辛い方が好きだったらしい。
『いただきます』
出来上がったハンバーグと、智里が作っていたカブの味噌汁を居間へ運び、三人一緒の「いただきます」をする。この二ヶ月ほどで、すっかりお馴染みになった光景だ。
「ふむ。やはり牛肉のものと違ってさっぱりしていて、食べやすいな」
「神様は、こちらの方がお好みですか?」
「いや、牛肉の方も嫌いではないぞ」
「じゃあ、今度はビーフハンバーグも作ってみますね。ドミグラスソースはお好きですか?」
「問題ない。是非頼む」
初めて出した料理の時は、こうやって守矢が感想を言い、それを参考にして藍里が次のメニューを考える、という流れがいつの間にか出来ていた。お互いの好みと料理のレパートリーを擦り合わせているのだ。
「智里おばあちゃんも、お味の方は大丈夫ですか」
「ええ、とても美味しいわ。それに、なんだか懐かしい。姉さん――藍里ちゃんのおばあちゃんの味に近いわね」
「良かった。お母さんが勝手なアレンジを加えてないか、ちょっと心配だったの」
愛華の料理のレパートリーは、その母――藍里の祖母から教えられたものだ。だが、愛華は酒飲みだったので、自然と料理の味付けも濃い物を好んでいた。
今のところは大丈夫だが、高齢の智里にはあまり食べさせたくない濃い目の味付けも多い。その辺りは、藍里が自分で考えて調節しなければならないだろう。
「本当に、藍里ちゃんがこの屋敷に来てくれて助かったわぁ。人に作ってもらったご飯って、どうしてこう美味しいのかしら」
「智里よ、それはもしかして僕への当てつけか?」
「あらあら、いくら私でも、神様にお料理してもらおうだなんて大それたことは考えませんよ。むしろ台所に入られて、何か割ったり火を出したりされたら困ります」
「僕は子どもか」
そんなやり取りをしながら、守矢と智里が笑い合う。言葉こそ辛辣だが、二人とも本気ではない。ただの軽口だった。
この二人はこうやって、時にじゃれ合いのような憎まれ口をお互いに叩き合いながら、共に過ごしてきたのだろう。そんな二人の絶妙な距離感に、藍里は軽い嫉妬を覚えてしまった。
「そういえば、おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってからは、この屋敷に二人だけだったんだよね? お料理もそうだけど、掃除とか洗濯とか色々、一人じゃ大変じゃなかったの?」
「そうねぇ。今思い返すと大変だったのでしょうけど、そう思う暇もなかったわね」
「お手伝いさんとか、雇わなかったの?」
「来て下さる方がいませんからね。村の人達には『畏れ多い』って断られるでしょうし、村外の方を雇うのも、ねぇ?」
「へぇ……」
確かに、この村の特殊性を考えれば、外部の人間を雇うのは難しそうだ。その一方で、村人が葛葉家――守矢と一定の距離を置きたがっているというのは、少し意外だった。
「ちょっと意外。みんな、外で神様と会うと笑顔で話しかけてきて、とっても親しそうなのに」
「親しいからこその適切な距離というものも、あるのよ」
「……そういうものなんだ」
何となく納得出来ぬ藍里だったが、智里がそう言うのなら、そうなのだろう。ここは呑み込むしかない。
藍里は、箸でハンバーグの最後の一欠片を摘まむと、口の中でよく咀嚼してから飲み込んだ。口の中に広がった肉のうまみとソースの甘辛の味が、喉を通って胃へと落ちていく。
多少モヤモヤすることがあっても、こうして呑み込んだ方がいい時もあるのだ。人間は全てを理解出来る訳ではないのだから。
――自分が至らない人間だという事実は、今更覆しようがないのだから。
「何か悩み事でもありそうな顔だな、藍里」
「へっ!? い、いえ! とんでもない」
「愛華と同じで、嘘が下手だな。屋敷に帰って来てから、ずっと浮かない顔をしているではないか」
「あぅ……」
「藍里ちゃん、私達は……その、今や貴女の親代わりみたいなものなんですから、少しは頼ってもいいのよ?」
守矢と智里の眼差しは真剣そのものだ。どうやら、藍里の悩みは思っていたよりもはっきりと顔に出てしまっていたらしい。
考えていることやその時の気分がすぐ顔に出てしまうのは、母の愛華とそっくりなところだった。
「その……ですね。あまり詳しくは言えないんですが、美沙奈さんにちょっと失礼を働いてしまいまして」
「大友の娘にか? なんだ、喧嘩でもしたのか」
「いえ、そういう訳ではなく……」
「皆まで言わずともよい。女同士のことだ、僕達に言えぬこともあるだろう」
守矢の声はとても優しかった。「こんな声も出せるのだ」と、場もわきまえず、藍里の鼓動が少しだけ早くなる。
「その、ですね。村の若者が何故、一度は村の外へ出るのかとか、そういうお話をしたんです」
「――なるほどな」
その言葉で色々と察したのか、守矢の顔が少しだけ険しくなる。一方の智里は、「あらあら、まあまあ」等と呟きながら、食後のほうじ茶を淹れ始めていた。
「藍里は知っているのだな? 大友の娘が『村から出られない』という話を」
「はい……。その理由までは聞いたことがありませんが。何度か」
「ふむ。村から出られないあの娘に、若い衆が村外に住まう理由を尋ねた、か。それで、あの娘は不機嫌にでもなったのか?」
「……いいえ」
「なら、良いではないか」
言いながら、守矢の手が卓上を手繰る。すると、そこへ狙い済ましたかのように、智里が熱いお茶の入った湯呑を差し出した。
守矢はそのまま湯呑を掴むと、ズズズと音を立てて茶を啜り、浅く息を吐いた。
「でも、美沙奈さんちょっと様子がおかしくなっちゃって。自分のことを『半人前』みたいに言い始めたんです。だから、私の不躾な質問が彼女を傷付けてしまったんじゃないかって」
「人を恨むような娘ではあるまい」
「それも分かっています。でも……」
深く項垂れる藍里の前にも、智里がお茶を差し出す。湯呑は、引っ越し前から愛用していた愛華手作りの前衛的な形と色をした湯呑だ。
前後に大きく「愛」と「藍」の文字が描かれている。言わずもがな、愛華と藍里の名前から一文字ずつとったものだった。
「藍里よ。お前が思うよりも、大友の娘は強い。ああ見えて大変な苦労をした娘だ。自らの境遇を嘆きはしても、それに負けたりはせぬよ」
「……神様は、美沙奈さんが村から出られない理由をご存じなんですか?」
「僕はこの村の神だぞ。知らぬことなどない――だからこそ言おう。藍里よ、お前が悩んでいるのは、大友の娘を傷付けたかもしれないことではなく、そういった失言をしてしまった自らの迂闊さなのではないか?」
「っ――」
藍里の顔が羞恥に染まる。図星だった。
美沙奈のことを心配していたのは本当だが、どちらかと言えば自らの愚行への後悔の念の方が遥かに強かったのだ。
「責めているのではないぞ。むしろ、自らの行いを悔み、恥じることが出来るのは、真っ当な人間の証とも言える。世の中には、自らの行いを省みることなどない者の方が多いものだ――分かりやすい例を挙げるならば、お前の母親だ。あれは善人ではあったが、反省というものを知らなかった」
「うっ……それ、なんか分かります」
「ちっちゃな頃は、私も姉さんも散々手を焼かされましたよ。まあ、それが愛嬌でもあったんですけどね」
手ずから入れたお茶を啜りながら、智里が昔を懐かしむ。
この大自然のただ中の村でのことだ。恐らく愛華は、野生児然とした暴れん坊だったのではないだろうか。
「それに比べれば、藍里は反省することも悔いることも出来る。だが、ただ悔いるだけでは、そのままだ。一生変わらぬ――僕とはまた別の意味でな。では、藍里よ。お前が変わる為に、その胸のモヤモヤを解消する為には、一体何をすればいい?」
「ええと……美沙奈さんに、きちんと謝る?」
「それも必要だな。だが、もっと必要なことがある――あの娘と、そして自分自身ともっと向き合うことだ。藍里の奥ゆかしい所は美点だが、それは裏を返せば消極的ということだ。相手と直に触れ合うことを恐れるな」
それだけ言うと、守矢は残りの茶を飲んでから「ごちそうさま」と一礼して、居間を出て行ってしまった。呼び止める暇もない。
一体どうしたのかと、藍里が不思議そうな顔をしていると――。
「うふふ、神様も照れてらっしゃるのよ。柄にもなく、説教臭いことを仰ったから」
「神様でも、照れるんですか」
「そりゃあね。あの方も長く生きてらっしゃるけれど、元々は私達と同じ人間ですから。神様になっても、心の有り様はそう変わるものではないのよ」
「えっ……元は人間? 神様が? ど、どういうこと!?」
「ふふっ。それこそ、神様ご自身に訊いてごらんなさいな。きっと教えて下さるから――さて、私もごちそうさま、っと」
言いながら、智里は自分と守矢の分の食器を手早く重ねると、洗い場の方へと姿を消してしまった。
残された藍里は、無言のまま空になった食器を眺め、俯いた。
(直に触れ合うことを恐れるな、か)
思えば、藍里は葛葉村にやって来てからというもの、受け身の姿勢でばかりいた気がする。自分から積極的に動こうとしたのは、仕事を探したいと行った時くらいのものではないだろうか。
それ以外は、こそこそと探るように動いているだけだ。村の習わしだとか、それぞれが抱える事情だとかに、深く首を突っ込もうとはしてこなかった。
だが、それも仕方のないことだった。藍里は、トラブルが服を着て歩いているような、あの愛華の娘として育ったのだ。無難に、他人との距離を適切にとって生きていくことこそが、藍里にとっての処世術だった。
――仮令そのせいで、友達と呼べる人間が殆どいなくとも。
それ自体は、今も悪いことだとは思っていない。けれども、生まれ育った環境と全く違うこの村で暮らしていく以上、きっとそれだけでは駄目なのだ。
(私、心のどこかでまだ、お客様のつもりだったんだわ)
残りのお茶をぐいっと飲み干す。ほうじ茶の香ばしさと、その中にある僅かな甘味が心地よく喉を通っていった。
最後までごくりと飲み込み、前を向く。
美沙奈ともう一度話してみよう。もっと彼女のことを教えてもらおう。そして、藍里のことも――仮令情けない自分自身であったとしても、もっと知ってもらおう。
そして、神様や智里にも、もっと村のことや彼ら自身のことを教えてもらおう。
心の中で、藍里はそう決意した。
――だが、運命とは皮肉なもの。藍里のその決意は、少しだけ遅すぎた。
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