第二十話「祖父母の最期を知りました」

「おじいちゃんとおばあちゃんを看取った? 渡会先生が?」


 オウム返しに問い返す藍里には答えず、智里は再びショッピングカートをガラガラと押すと、今度は鮮魚コーナーに立ち寄った。

 葛葉ストアの鮮魚コーナーは、品数こそ少ないが必要最低限の季節の魚が陳列されている。山奥のこの村でも鮮魚が店に並ぶのは、技術の進歩の賜物だろう。


「ねぇ、智里おばあちゃん。どういうことなの? 二人を最後に診てくれたのが、渡会先生ってこと?」

「まさか。あの頃、若先生はまだ学生さんよ。大学の一年だったかしらねぇ」


 タラのパックを手に取りながら、智里が答える。

 買い物かごの中には、先程手に取った大根の他に、水菜や白菜も入っている。一体、どんな鍋にするつもりなのだろうか。


「藍里ちゃんは、おじいちゃんとおばあちゃんがどういう亡くなり方をしたか、覚えているかしら」

「……事故だった、ということだけ朧げに」


 祖父母が亡くなったのは、藍里の父が亡くなった翌年くらいのことだ。その頃、藍里はまだ小学校に上がる前だったので、殆ど記憶には残っていなかった。


「そう、事故だったわ。玉藻市に仲良くお買い物に出かけた時のことよ。駅前の商店街でお買い物を済ませて、郊外へ少し足を伸ばそうとして、横断歩道を渡っていたら、信号無視の車が突っ込んできてね」

「交通事故、だったんだ」

「ええ。今の私とそう変わらない歳の人が運転していた軽自動車にね、跳ね飛ばされてしまったの。辺りは騒然――その時に、偶然居合わせたのがまだ学生だった若先生なのよ」


 今度は豆腐コーナーに移動しながら、智里が呟く。前を歩いているので表情はよく見えないが、藍里には智里がどんな顔をしているのか、なんとなく分かってしまった。


「救急隊員の方が教えてくださったんだけど、若先生の対応は完璧だったらしいわ。すぐに適切な救命処置をして、救急車を呼んで、意識のない二人に必死に呼びかけてくれて……それでも、二人は帰って来れなかった」

「そんな……ことが」

「手の施しようがなかったのね。それなのに、若先生は二人の死に責任を感じてしまってね。本当は村外の病院に勤めるつもりだったのに、研修期間を終えるなり、すぐに村へ帰ってきたのよ」


 藍里は自分を恥じた。子ども達の心無い噂話に感化され、渡会医師のことを色眼鏡で見ていた自分のことを。

 まさか、自分の祖父母の最期を看取ってくれた上に、そのことに責任まで感じてしまうような人間だったなんて、と。


「真面目な人、なんだね」

「ええ。真面目すぎるくらいに真面目な人なのよ、若先生は」


 ガラガラとショッピングカートを押してレジへと向かう智里。どうやら、鍋の具材は全て揃ったようだ。

 ――それにしても、と藍里はふと思う。


(いくら村の中が安全でも、村の外に出たらあっさり死んでしまうこともあるのね)


 先日、藍里が玉藻市へ出かけた際の、守矢と智里のあまりにも過保護すぎる態度に少しだけ合点がいった。玉藻市での事故で、身内を二人一遍に亡くしているのだ。それは過保護にもなるだろう。

 ――というか、二人どころではない。藍里の父も村外で暮らしていて病死したし、母の愛華だって都内で事故に遭って亡くなっているのだ。


(もしかして、うちの家族だけ、狙いすましたみたいに村の外で死んでいる?)


 一瞬そんなことを考えてしまい、すぐに打ち消す。それではまるで、村を離れたことで四人が死んだようではないか、と。

 村の中は安全だから、その反動で村の外では運が悪くなるとでもいうのか。藍里は自分の妄想の逞しさに、一人呆れた。


(そもそも、村の外が危ないなんて話だったら、神様はお母さんとお父さんが村を出ることを許さなかっただろうし)


 実際には、守矢は愛華が村を出ることをむしろ後押ししている。大事な跡取り娘をむざむざ危険に晒す理由はないだろう。


 葛葉ストアを出ると、子ども達のはしゃぐ声や、農作業を終えて帰路に着く人々の営みの音が聞こえてきた。平和で長閑な、いつもの葛葉村の姿だ。

 村人達は守矢の庇護の下、穏やかで安全な生活を送っている。もし、この地上に楽園というものがあるのなら、この村がまさにそれだろう。


(それでも、村の外に出れば人はあっさり死ぬ……)


 結局、葛葉の屋敷へ帰り着くまでの間、藍里の心には抜けない棘のような違和感が残ったままだった。


  ***


「はい、これで完成よ」

「わあ、美味しそう」

「どれ、各自よそったな? では――」

『いただきます』


 その日の晩。葛葉家の食卓に上がったのは、「みぞれ鍋」だった。

 昆布だしに酒を少量加え、タラ、水菜、豆腐を煮込み、具材に火が通ったら仕上げに大根おろしを加える鍋だ。

 具材とつゆを大根おろしごとよそい、ポン酢で食べるのが智里流らしい。ポン酢は智里のお手製らしく、市販品とは比べ物にならないくらい風味があった。


「うふふ、お鍋なんて久しぶりに作ったわ」

「そうなの?」

「藍里ちゃんが来てくれるまでは、神様と二人だけでしたからね。二人だけのお鍋はちょっと寂しくて、ね?」

「っ――」


 心底嬉しそうな智里の笑顔に、藍里は思わず言葉を失ってしまった。智里と守矢は、この広い屋敷に十数年もの間二人きりだったのだ。

 しかも、片や悠久の時を生きる神様で、片や老境を迎えた人間である。仮令どれだけ穏やかな日々であっても、別れへと着々と時を重ねる暮らしだ。

 常に見送る側である守矢と、いつかは置いて逝かねばならぬ智里。二人の心の内にあったであろう想いの数々は、藍里にはまだ想像すら出来ない境地だろう。


「どうした藍里。もう食わんのか?」

「あっ……いえ、あまりにもお鍋が美味しくて、噛みしめてました」


 怪訝そうな顔の守矢に、慌てて笑顔を返す。折角の美味しいお鍋なのだから楽しく食べたいと、心底思った。

 けれども――。


(お母さん、どうしてろくに葛葉村へ帰らなかったのかな? 私を連れて、顔くらい見せたらよかったのに)


 藍里の中には、いつしかそんな疑問が浮かんでいた。

 思えばおかしいのだ。愛華がいくら村での閉鎖的な生活が嫌で東京へ飛び出したといっても、別に勘当された訳ではない。帰ろうと思えば、いつでも帰れたのだ。

 それが、盆も正月も帰らず、夫と両親の葬式の時の二度だけしか帰郷していない。普通なら、藍里の顔を見せてあげようと、もっとまめに里帰りするものではないのだろうか。


(まるで、村を避けていたみたい)


 そう思ってしまってから、そんな馬鹿なと慌てて打ち消す。愛華のことだから、意地を張ったり、はたまた面倒くさがって里帰りしなかっただけなのだろう。なにせ、年賀状すら出さないものぐさ振りだ。

 ――そう、それこそいい機会だ。守矢と智里にも尋ねてみればいいのだ。


「ねえ、神様、智里おばあちゃん」

「ん?」

「どうかしましたか」

「お母さんって、どうしてあまり里帰りしなかったんでしょうね?」

「っ――」


 そんな、なんでもない藍里の質問に――しかし、守矢も智里も沈黙してしまっていた。智里はいつもの笑顔のままだが、守矢などは細い眼差しがすっかり丸くなってしまっている。

 気のせいか、室温がやけに低くなったようにさえ感じられる。


「何故、今そんなことを尋ねる」

「えっ!? い、いえ……私、葛葉村がこんな素敵な所だってことを、もっと早く知りたかったなって。だから、どうしてお母さんは私をこの村に、その、お葬式の時にしか連れてこなかったのかなと思って」

「本当に、それだけか?」

「それだけ……とは?」

「いや、なんでもないのなら、いいのだ」


 それだけ言って、守矢は無言で鍋のおかわりをよそい始めた。すかさず智里が、追加の具材と大根おろしを鍋の中に投入し、カセットコンロの火加減を調整する。

 やがて鍋がぐつぐつと煮え始め、部屋の中に温かい空気が戻ってきた。


「藍里ちゃん、何か追加してほしい具はあるかしら?」

「えっ? じゃ、じゃあお豆腐を……」

「はいはい」


 楽しそうに豆腐を鍋に追加する智里の姿に、おかしなところはない。守矢も「美味い美味い」と言いながら、鍋に舌鼓を打っている。

 その姿に智里がからかい気味に触れ、守矢がボヤく。いつもの賑やかな葛葉家の食卓がそこにあった。


(今の、一体何だっただろう?)


 藍里も食事を再開しながら談笑に加わる。

 だが、その心中には、何か抜けない棘のような疑念が渦巻き始めていた。

 二人は愛華が村を出たこと、そして里帰りさえ碌にしなかったことについて、藍里に何か隠しているのではないか、と。

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