第十九話「村の医療事情を知りました」

 十二月に入ると、流石に底冷えするような寒さが村全体を包んだ。守矢の加護にも限界があるらしい。

 陽が射している場所はまだ温かいが、日陰に入った途端、体中の熱を奪われるような寒さが襲い掛かってきた。


「寒い……。確かに、冬着を買い足しておいて正解だったわ」


 大きなビニール袋を手にぶら下げて村道を歩きながら、独り言ちる藍里。その体を包んでいるのは、都心で暮らしていた頃から愛用している安物の黒いダウンコートだ。薄く動きやすい代わりに、本格的な寒さには耐えられない。都心で雪が降る程度の気温ともなると、寒さに強い藍里でも流石に堪えたものだった。

 けれども今は、先日タケ様と出かけた際に買い足した発熱素材のインナーを中に来ているので、かなり寒さが和らいでいた。隙間風の多い葛葉の屋敷の中でも、体が冷えることは殆どなくなった。


 村の風景も、すっかり冬のそれになっていた。田んぼはとうの昔に空になり、畑の緑は冬物の野菜で塗り替えられている。通年で栽培されるニラに混じって、大根らしき葉が見える。まだ成長途中のようだが、年が明ける頃には美味しい大根が食べられるそうだ。


(そう言えば、お野菜の旬とかあまり考えたことがなかったな)


 母の愛華が旬の食べ物への拘りがなかった為か、藍里も料理好きな割に食材の季節感には疎かった。精々が、「秋はサンマ」だとか「ナスの旬は夏秋」くらいしか知らなかった。

 耕作地のただ中で暮らすことで、これからは覚えていけるかもしれない。そう思った。


 時刻は午後三時ちょっと前。普段なら、居間で神様と智里と三人でちゃぶ台を囲み、お茶で一服している頃だ。けれども、今日は急なおつかいで藍里一人が外出することになった。

 おつかいの理由は、ぶら下げたビニール袋の中身にあった。カブだ。近所の農家からおすそ分けしてもらったカブが、袋にみっちりと詰まっていた。

 これでも、貰った分の半分なのだから、相当な量だった。藍里達は「三人ではとても食べきれない」と、大友家におすそ分けすることにしたのだ。


 そのまま、えっちらおっちらと歩いて十数分。ようやく大友の屋敷が見えてきた、その時。


「あら?」


 大友の家の前に、見慣れぬ車が停まっていた。いつも美沙奈の送迎をしている黒塗りの高級車ではない。白い軽自動車だ。車体の横には「葛葉診療所」と書かれている。


(そういえば、村には診療所もあったんだっけ。でも、美沙奈さんの家に何の御用かしら?)


 もしや、美沙奈が体調を崩しているのでは――そんな不安に駆られながら藍里が玄関先に近付いた、丁度その時。玄関ドアが重々しく開き、三十絡みのやけにひょろっとした白い男が姿を現した。


「それでは、次の検診は一か月後に――おや?」

「あら、藍里さん。ごきげんよう」


 男が藍里の姿に気付くと、次いで美沙奈が玄関から顔を出した。どうやら、この男を玄関先まで見送っていたらしい。

 ――藍里は改めて男の姿を観察した。

 やや童顔だが、やはり三十路には足を踏み入れてそうに見える。天然パーマなのか、モジャモジャの髪はろくに散髪もしていないようで、アフロヘア―じみたボリュームだ。

 顔には漫画の中に出てきそうな瓶底丸眼鏡が鎮座していて、藍里の脳裏に「博士」という単語が浮かんできた。その身を包むのは眩しい程の白衣。この男が、診療所の自動車の主ということだろうか。


「こんにちは美沙奈さん。……そちらの方は?」

「あら、ご存じなかったですか。こちらは診療所の渡会先生です。若先生、こちらは葛葉の藍里さんですわ」

「藍里……? あっ! く、葛葉のお嬢様ですか!? こ、これはとんだご無礼を!」


 渡会と呼ばれた医師は、藍里の素性に気付くと大げさなリアクションと共に仰天の声を上げ、深々と頭を下げてきた。その様子はやはり漫画から飛び出したかのようで、藍里は口元が緩みそうになるのをなんとかこらえた。


「どうもご丁寧に。はじめまして、葛葉藍里と申します。診療所の先生だったんですね」

「は、はい! 父と二人で、なんとかやっています! お嬢様も、体調がすぐれない時などは、是非!」

「まあ、若先生。それでは、藍里さんの体調が崩れることを待っているみたいじゃありませんか」

「あっ……。いやいやいや! 滅相もない! け、健康第一です!」


 渡会医師が再び深々と頭を下げてくるので、藍里としては反応に困ってしまった。

 どうにもそそっかしいというか、落ち着きのない人物に思える。


「そういえば、うちの大叔母も診療所に通っていたかと思いますが、渡会先生が診てくださってるんですか?」

「あ、いえいえいえ! 智里様は父が担当しております!」

「大先生は、数年前に足を悪くされて、それ以来若先生が往診を、大先生が診療所での診察をと、分担なさってるんですよ」

「ああ、なるほど。だからお父様とお二人で、と」


 藍里もようやく納得がいった。葛葉村では、守矢のお陰か重い病人も怪我人も殆ど出ないという。それでも、不測の事態は起こるものなのだろう。無医村という訳にはいかない。

 けれども、その「最後の頼み」となるべき医師が、ここまで頼りないと不安しかない。よく任されたものだと思ってしまったが、父親の方が現役で、どうやらそちらが葛葉村の医療の柱らしい。


「……若先生。お時間の方は大丈夫ですの?」

「あっ! そうでした! 次の患者さんを待たせていました! で、ではお二人とも、失礼します!」


 最後にまた深々と頭を下げてから、渡会医師は慌ただしく軽自動車に乗り込み、走り去っていった。

 その運転は、やはりどこか頼りなさげに見えた。


「なんだか、忙しない方ですね」

「うふふ、そうですね。でも、腕は確かなんですよ? 私も六年ほど前からお世話になっていますけど、不自由はありませんわ」

「六年前から? ……美沙奈さん、どこか具合が?」

「いいえ、ただの定期健診ですよ。そんなことより、本日はどんな御用で?」

「あ、そうだ。実は、カブを沢山いただいたから、おすそ分けに来たんです」

「まあ。立派なカブが、こんなに」


 大量のカブを前に、目を輝かせる美沙奈。どうやらカブは好物だったらしい。

 その後、姿を現した洗馬にカブを預け、藍里は帰路に就いた。洗馬はお菓子作りだけでなく、洋食の腕も凄いらしい。きっと美味しいカブ料理にしてくれることだろう。

 その料理の数々を想像しながら歩く藍里の脳裏からは、忙しない渡会医師のことも、美沙奈の定期健診のことも、いつしかすっぽり抜けてしまっていた。


   ***


 大友家での出来事から数日後のこと。藍里は智里と共に、日課である午後の買い物の為に葛葉ストアを訪れていた。いよいよ寒くなってきたので、今晩辺りは鍋料理にしようと二人で具材を吟味していると――。


「智里様、藍里様! こんにちは!」


 やけに元気の良い挨拶の声に何事かと顔を向けると、渡会医師だった。白衣姿のまま買い物かごをぶら下げている所を見るに、往診の帰りにストアに立ち寄ったようだった。


「ああ、渡会先生。こんにちは」

「あらあら、若先生。こんにちは。ご無沙汰ですね。今日は、お母様の代わりにお買い物かしら?」

「はい! 母がキムチ鍋を食べたいというので、具材を!」

「まあまあ、キムチ鍋。そういうものもあるのねぇ」


 そのまま、智里と渡会医師が雑談を始めてしまったので、藍里は何となく手持無沙汰になってしまった。どうにも、この男は苦手だった。「藍里様」等という大仰な呼ばれ方も気が引けた。

 悪い人間ではなさそうなのだが、藍里との相性は悪そうだ。仕方なく、智里に一声かけてから一人でストアの中を巡ることにした。

 ――と。


「あ、葛葉のお姉さんだ! こんにちはー!」

「ちはー!」


 お菓子売り場の近くを通りかかった時、四年生くらいの村の小学生二人が藍里に挨拶してきた。

 丸刈りの男の子とおさげの女の子で、どちらも名前こそ知らないが見覚えがある。


「はい、こんにちは」


 一応は面識のある子どもだったので、藍里も自然に挨拶を返す。こういう時、自分の顔が知れていると便利だ。こちらが相手のことを知らなくても、向こうが勝手に話しかけてきてくれる。

 おまけに、子ども達の間にも葛葉家は村の名家だという認識があるので、一応の敬意を払ってくれるのだ。元接客業のくせに人見知りな部分がある藍里には、助かることこの上ない。


「あ、若先生と智里さまだー! こんにちはー」

「ちはー」


 子ども達は智里と渡会医師の姿に気付くと、そちらにもきちんと挨拶した。

 少々頼りない印象のある渡会医師だが、どうやら子ども達から挨拶される程度には信用があるらしい。

 にこやかな笑顔を浮かべながら、二言三言、子ども達と雑談してさえいる。子ども好きなのかもしれない。


 子ども達が「バイバイ」と言いながら去っていってから、智里のもとへと戻る。すると、藍里が戻ってきたことに気付いたのか、渡会医師は「すみません。お互い買い物の途中でしたね」等と言いながら、二人から離れていった。

 やはり、最低限の気遣いは出来る人物らしい。


「智里おばあちゃんは、渡会先生とは親しいの?」

「若先生? それはまあ、ちっちゃい頃から知ってますからねぇ。――それにね、若先生は葛葉家とも縁がある人なのよ」

「縁? それは大友さんのおうちみたいに、遠い親戚とか?」

「いいえ?」


 答えながら、智里がショッピングカートをガラガラと押して歩き出したので、藍里もそれに続く。

 智里はそのまま、野菜コーナーで立ち止まると、村の内外から仕入れた旬の野菜を吟味し始めた。

 ――そして、大根を手にしたところで、何でもないことのように、こう言った。


「若先生はね、貴女のおじいちゃんとおばあちゃんを、看取って下さった人なのよ」

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