第十二話「ふと我に返りました」

「――何か仕事がしたい、だと?」


 翌日の夕飯の時のことだ。

 藍里が意を決して「自活したいので、村で何か仕事はないか」と切り出したところ、守矢にとてつもなく怪訝な顔をされてしまった。夕飯のカレーを食べる手を完全に止めて、問い質すように藍里の目をじっと見つめている。


「はい。その、この村に来てからお屋敷の家事くらいしかやっていないので。そろそろ働こうかと思いまして」

「仕事ならしているではないか。この屋敷の手入れに、毎日の炊事洗濯。どれも大変なお勤めだろう」

「ああ、いえ。そういうことではなく……その、収入を得るお仕事をですね」

「何か入用なのか? 金子きんすなら智里に言えば、十分に用意出来るぞ。なあ?」

「そうですよ、藍里ちゃん。こう見えても葛葉家の懐は暖かいんです。遠慮なんてしないでね」

「あ、あはは……」


 守矢も智里も、どうにも話が通じない。

 助けを求めるようにタケ様に視線を送るが、彼は山盛りのカレーを片付けるのに忙しいらしく、チラリとも藍里のことを見てくれなかった。

 ――そもそも、タケ様は一晩だけ泊まる予定だったはずだが、何故にまだ葛葉家に滞在して、カレーを貪り食っているのやら。


「ええと、そういうことではなくてですね。社会人として、きちんと対価を得るお仕事をしたいな、と思いまして」

「おかしなことを言う。先程も言ったが、この屋敷での家事は対価を得るに十分な仕事ではないか。例えば、このカレーライス」


 守矢がスプーンでカレーライスを掬い、口に運ぶ。

 そのまま、もぐもぐと咀嚼し満足そうに呑み込む。


「うん、実に美味だ。僕の記憶が確かなら、このカレーは愛華のレシピだな? 彼奴はカレーには拘りを持っていたはず。今宵のカレーも、かなりの手間がかかっているのではないか」

「あ……はい」


 今夜のカレーは、守矢の指摘した通り、藍里が愛華から伝えられたレシピによるものだ。ルウこそ市販のものだが、下ごしらえにはかなりの手間をかけ、具材も多岐にわたる。

 まず、ピーマン、キャベツ、ナス、セロリ、トマト等の野菜を細かく刻み、多めの水と共に鍋でじっくりと煮込む。その傍らで、みじん切りにした玉ねぎを飴色になるまで炒め、鍋に投入する。

 その後、アクを取りながら一時間以上ぐつぐつと煮込み、野菜が蕩けてきたらマッシャーで完全にすり潰す。


 次に、定番の人参とジャガイモを一口大に切り、フライパンで丁寧に炒める。ある程度まで火が通ったら、その半分を鍋に投入。同じフライパンで好みの肉を炒め、こちらも半分を鍋に投入。

 そのまま更に三十分以上煮込み、具材を蕩けさせる。


 ここでいよいよカレールウを投入。更に各種スパイスを適宜加える。

 主に使うのは、カエンペッパー、クミン、オールスパイス、ターメリック、ナツメグ、シナモン、クローブ等など。肉がチキンなら辛めに、ビーフならば柔らかめにと、味を調えていく。

 味付けが落ち着いたら、炒めた肉と野菜の残りを鍋に投入し、それらにきちんと火が通ったら、ようやく完成だ。


 愛華はこのカレーに強い愛着――いや執着を持っていたらしく、家計が厳しい時でもスパイスや具材をケチることはなかった。


「記憶の中の通り……いや、それ以上に手間がかかった絶品のカレーだ。それこそ、店に出せば十分に金をとれる。立派なものだ」

「そ、それは流石に褒め過ぎ、では」


 守矢の絶賛に、思わず藍里の顔が真っ赤になる。

 ――後で聞いた話だが、どうやら守矢は、愛華の作るカレーが大好物だったらしい。彼にしてみれば、数十年ぶりに好物にありつけたことになる。その喜びは、如何ばかりのものか――。


「その、家事も立派な仕事だとは思うんですが、私としては居候の身ですし、お家賃や食費くらいは入れさせてほしいんです」

「居候? あらあらあら、藍里ちゃんは自分のことを、そんな風に思っていたのね」


 藍里の言葉に、智里が悲しそうに眉を顰める。

 一瞬、智里を傷付けてしまったかとドキリとした藍里だったが――それは全くの見当違いだった。


「藍里ちゃん。きちんとお話し出来てなかったから仕方ないとは思うけど、貴女は居候なんかじゃないのよ。言ってみれば、貴女こそが葛葉家の当主みたいなものなんだから」

「えっ……? と、当主?」

「葛葉家が所有する土地屋敷はね、私と愛華の共有名義だったの。でも、愛華が亡くなったから、あの子の持ち分は娘である貴女に相続されるわ。まだ、税理士さん達に手続きをまとめてもらっている最中ですけどね」


 相続。その二文字を、藍里は今の今まですっかり忘れていた。――というよりも、意識的に頭の中から追い出していたのだ。

 平静を装っているが、母を失った悲しみと衝撃は、未だに藍里の中で処理しきれず燻り続けている。葬式を終えて骨を拾っても、まだどこか実感がないくらいだ。

 逆に、相続という事務的な手続きの方が母の死を突きつけられる感じがして、向き合えていなかった。


「土地だけじゃないわ。現金、証券、各種権利。それらが貴女のものになる。いずれ税理士さん達に内訳を説明してもらうけれど、当面は生活の心配はしなくていいわ」

「そ、そんなに……? で、でもお母さんは、そんなこと、全然……」


 母娘の生活は、それは慎ましいものだった。とても、大きな財産を持っているようには見えなかった。


「愛華は、葛葉家の財産に頼ろうとしなかったのね。本当なら、少しくらい頼って欲しかったのだけれど」

「彼奴は、頑固ものだったからな。家を捨てて故郷を飛び出した以上、その財産に手を付けたくはなかったのだろうよ」


 守矢が呆れ半分感心半分といった複雑な表情で頷く。

 なるほど、と藍里は思う。確かに愛華には、そういった律義と言うか頑固と言うか、意固地な面があった。そのせいで、藍里がいらぬ苦労をしょい込むことも少なくなかった。


 例えば仕事。愛華は頭の回転が速く体も強かったので、頭脳労働も肉体労働も得意だったのだが、職を転々としていた。

 その主な原因は人間関係だ。何せ短気で喧嘩っ早かったので、意見や価値観が合わない人間とはすぐに揉めて、それが嫌で仕事を辞めてしまうのだ。

 藍里が知るだけでも、愛華は六回は転職している。スーパーの店員、電機メーカーのサポートセンター要員、警備員、エステティシャン、IT企業の営業等など。

 そして、最後に勤めていたのが運送会社だった。女だてらに大型トラックを操り――その最中に、事故で帰らぬ人となったのだ。


(お母さん、お友達も少なかったよね)


 その激しい性格故か、愛華には同性の友達らしき人物はいなかったようだ。男友達は何人かいたが、葬式には誰も来なかった。

 反面、住んでいたアパートのご老人達からは可愛がられてもいた。危なっかしくて見ていられなかったからかもしれないが。


 チラリ、と守矢と智里の様子を盗み見る。

 二人とも、愛華に対して悪い感情を持っていたようには思えない。だが、村の人々はどうだったろうか?

 そういえば、愛華が村を出ていった理由を、藍里は聞いていない。もしや、村の誰かと揉めて、出ていかざるを得なくなったのでは――?


「藍里も、愛華との二人暮らしは苦労したのではないか? あれは、根は善良だが『火の性』の持ち主だったからな」

「ひのしょー?」

「良く言えば情熱的、悪く言えば短気な性分、ということだ」

「ああ……」

「ふふっ。あのおてんば娘の性根は、生涯変わらなかった、か」


 守矢が微笑する。それはまるで菩薩のような、もしくは子を慈しむ母親のような、優しげな微笑みだった。

 その微笑みがあまりにも優しすぎて、藍里は愛華が村を出て言った理由について、尋ねる機会を逸してしまった。


   ***


「考えたら私、お母さんのこと何にも知らないのかも」


 その日の家事を終え、ゆっくりと湯船に浸かりながら、藍里は独り言ちた。

 葛葉屋敷の風呂は大きい。旅館のように立派なタイル張りの浴室が広がり、その奥に檜風呂が鎮座している。きちんと足を伸ばせる大きなものだ。

 お湯は幸いにしてガス給湯器が設置されているので、薪を焚く必要はない。見たところ、近年になって設置したもののようなので、愛華がこの屋敷に住んでいた頃には無かったものだろう。


「どうしてお母さんは、こんないい実家を出ちゃったんだろう?」


 都会から遠く離れてはいるが、生活インフラは整っているので不自由はない。おまけに葛葉家は資産家であり、生活の心配もないのだという。

 対して、藍里達母娘の生活は、毎月の生活費を切り詰める、爪に火を点すようなものだった。愛華の趣味は酒と食事くらいのもので、それだって――カレーのスパイスを除けば――贅沢なものではなかった。

 

『それは、その。愛華ちゃんですから』


 この村に来たばかりの頃に聞いた、智里の言葉を思い出す。

 葛葉の家の血が絶える寸前だというのに、どうして愛華は村を出て行ったのだろうか? という藍里の問いに答えたものだったはずだ。

 藍里はあの時、行動的で新しいもの好きな愛華には、この田舎が退屈だったのだろうと単純に考えた。けれども、どうやらそれだけではないように思える。

 愛華には、あったのだ。安定した裕福な生活を捨ててまで、この村を離れたかった理由が。


「もっとお母さんと、色んな話をしておくんだった」


 少しのぼせてきた頭を持て余しながら、そんな言葉を吐く。大きなお風呂にゆっくりと入るような生活をしてこなかったからか、どうやら藍里は、少しのぼせやすいらしい。

 手を伸ばし、浴槽の近くにある曇りガラスの小窓をそっと開く。すぐ傍に板塀があるので、外の景色はほとんど見えない。何とも味気ないと思っていたのだが――。


「あっ――」


 藍里の口からなんとも言えない声が漏れた。

 ふと、細く開けた窓から空を見上げて、そこに広がる光景に言葉を失ったのだ。

 そこにあったのは、文字通りの満天の星。天の川までもくっきり見えそうな、星の大海だった。


「こんなに……星が見えたんだ」


 都内で育った藍里にとって、星空とは暗いものだった。見えるのは精々が明るい星くらいで、暗闇ばかりの味気ないものだったのだ。

 けれども、この星空はどうだろうか。天を覆い尽くさんばかりに星々が溢れ、輝き、瞬いている。星空がこんなにも眩いものだということを、藍里は初めて知った。


「この村に来て、もう二週間は経ってるのにね。今更、こんなことに気付くなんて――」


 気付けば、藍里の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。

 星空に感動した訳ではない。空を見上げれば気付くことにさえ気付けなくなっていた、自分自身を思い知ったのだ。

 「新しい生活に慣れる」という言い訳を得て、母の死から――もうあの人に会えないしおしゃべりも出来ないし、文句の一つも言えないという事実から、目を背けていた自分自身の儚さを。


 その夜、藍里は独り、声を殺して泣いた。

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