第九話「違う神様が来てしまいました」
「な、なんだよアンタ! 突然出てきて! こっちはお楽しみの最中だったんだぞ、この田舎者が!」
「……アアン?」
西尾が張った精一杯の虚勢は、大男の一睨みの前に脆くも崩れ去った。
大男の語気には、それほどの迫力が込められていたのだ。
それに加えて、大男の体から吹きすさぶ謎の強風が、有無を言わせぬ圧を西尾に与えていた。明らかに自然の風ではない。
「明らかに怯えて嫌がってる婦女子を力ずくで手籠めにすることの、どこがお楽しみだ? そいつぁな、鬼畜の所業って言うんだぜ? ――大丈夫か、お嬢ちゃん?」
「……あ、はい」
背中越しにかけられた大男の問いかけに、藍里はどうにか返事をしていた。
体はまだ金縛りにあったように上手く動かないが、どうやら口は利けるようになったらしい。
「で? この小デブは、悪い奴ってことでいいんだな? お嬢ちゃん」
「ち、違う! 俺は――」
「おめえには訊いてねぇんだよ! ちったぁ黙ってろ!」
口を挟もうとした西尾を、大男が一喝する。
その声はまるで雷鳴のような迫力があり、西尾は小便でも漏らしそうな何とも言えない顔で口を閉ざすしかなかった。
「どうなんだい? お嬢ちゃん」
「は、はい! 一方的に付きまとわれて、折角東京から逃げて来たのに、この村まで追って来て」
「ストーカーってやつか。なるほど、そいつは許せねぇなぁ?」
大男が、すっかり腰を抜かした西尾へと一歩踏み出す。
黒革製のごついワーキングブーツの厚底が、西尾の股間を踏み潰さんばかりの位置に踏み下ろされた。
「ひ、ひぃ!?」
「……ま、今はまだ未遂だ。踏み潰す、なんてことはしねぇ。でもな?」
大男の丸型サングラスがクイッと下げられ、その瞳が顕わになる。
その瞳は人間のそれではなく、蛇のように縦長で黄金に輝いていた。
「今すぐ消えなければ、踏み潰すどころかすり潰すぞ?」
「――ひっ、ひぃぃぃぃぃぃ!!」
そこからの西尾の動きは見物だった。
西尾はバネ細工の玩具のように飛びあがると、藍里を追いかけていた時以上のスピードで、一目散に山道を逃げ去っていったのだ。
火事場の馬鹿力というやつかもしれない。
――後に残されたのは、地面に座り込んだままの藍里と、仁王立ちする大男だけだった。
「あ、あの……危ない所を助けていただいて、ありがとうございます!」
「ん~? いやまあ、俺様のシマで不埒を働こうとしたゴミを片付けただけだから、礼はいらねー……いや?」
そこで大男は、何かに気付いたかのように藍里の顔をじろじろと眺め始めた。
あまりに無遠慮だったが、助けられた手前、藍里も何も言えない。
そのまま、しばらくの時が流れ――。
「お嬢ちゃん、よく見れば別嬪さんだな」
「えっ、ええっ!? あ、ありがとうございます……?」
藍里は生まれてこの方、男から容姿を褒められた覚えがない。――より正確に言えば、明らかなナンパや酔っぱらい、はたまた西尾のようなセクハラ男に褒められたことはあるが、何の脈絡もなく言われたことはない。
なので、大男の言葉にきょとんとしながらも、律義にお礼を言ってしまっていた。
その様子に気をよくしたのか、大男はニカッと歯を見せて笑うと、とんでもないことを言い出した。
「よし、気が変わった! 助けたお礼にチューさせてくれ!」
「チュー……えええええ!?」
「じゃ、そういうことで。いただきま~――」
「そこまでだ、このクソたわけ!!」
スパーン! と、実に気持ちの良い音が神社の境内に響き渡った。
見れば、何者かが大男の頭を背後から扇子で引っ叩いたようだった。
藍里は、その何者かの姿を認めて、思わず声を上げた。
「あ、か、神様!」
「おう、藍里。無事であったか。駆けつけるのが遅くなって、済まなかった」
「なんでぇ、良い所だったのに。邪魔すんなよ」
「たわけ、まだ言うか!」
神様が再び大男の頭を扇子で叩く。今度は手加減したのか、ペチリと可愛い音がした。
「冗談でも言って良いことと悪いことがあるぞ、タケ様。当世はセクハラに厳しいのだぞ」
「あっはっはっ、わりぃわりぃ。あまりにもお嬢ちゃんが可愛くて、つい、な」
「え、冗談……?」
「ああ。藍里よ、この男は『タケ様』と言ってな、こんなナリだが、一応は善き神の類だ。悪ふざけはするが、悪神ではないから安心せい」
「えっ、この人も……神様なんですか?」
神様の言葉に、藍里が目をぱちくりさせる。
確かにただ者ではないが、神様というよりは鬼と言った感じだ。
「そっ。俺様も神様って訳よ。ま、神と言っても、守矢みてぇに守り神って訳じゃねぇけどな」
「……もりや?」
聞き慣れぬ言葉に、藍里が首を傾げる。
すると何故か、タケ様までもが不思議そうに首を傾げた。
「なんでぇ。お前、自分の名前を教えてねぇのかよ」
「……別に。僕には個人としての名前なんて、意味はないからな」
タケ様と神様の会話に、藍里がハッとする。
とすると、「守矢」というのは藍里の神様の名前ということになる。
「神様、お名前があったんですか?」
「一応な。だが、覚える必要はないぞ。その名で呼ぶのは、タケ様くらいのものだ。意味のない名だよ」
不機嫌そうに言い放つ神様の顔は、何故かいつもより少し幼く藍里の目に映った。
「さて、一応は藍里の恩人になる訳だから、そうそう邪険にも出来まい。タケ様よ、今夜は久しぶりに一献どうかね?」
「お、いいねぇ! ゴチになるとするか!」
「……ということだから、藍里よ。済まぬがタケ様の分の食材も見繕ってくれぬか?」
言いながら、裾から一万円札を何枚か取り出し、藍里に差し出す神様。
「あ、はい。それは構いませんけど、でも……」
戸惑い気味にお札を受け取りながら、藍里は西尾が逃げ去った方を見やった。
タケ様が追い払ってくれたとはいえ、西尾はまだこの村の中にいるはずなのだ。あまりにも不安だった。
「あの男のことなら安心せい。もう、お主にちょっかいを出させはせんよ――未来永劫、な」
「えっ……? 神様、それはどういう」
「タケ様よ、済まんが藍里をエスコートしてやってくれんか? 僕は野暮用が出来た」
「おうよ。じゃ、行こうぜお嬢ちゃん!」
「えっ、えっ? ちょっと、神様?」
戸惑う藍里をよそに、タケ様は彼女の手を引いて、ズンズンと山道を下り始めてしまった。
――そしていつの間にか、境内には何者の姿もなくなっていた。
後に残るは、行く当てもない秋風のみだった。
***
――一方その頃。
「くそ! なんて糞田舎だ! 次のバスまで二時間もあるぞ!?」
バスターミナルには、半べそになった西尾の姿があった。
タケ様に凄まれて逃げ出したその足で、まっすぐバスターミナルまで逃げ戻っていたのだ。
「こんな糞田舎、もう来るか! 藍里の奴も、あんなに目をかけてやったのに! 俺の気持ちを踏みにじりやがって!」
都合よく捏造された真実を燃料に、西尾が憤る。この男は今までもこうやって、自分に都合の悪い出来事は歪めて、手前勝手な世界観の中で生きてきたのだ。
それによって泣かされた人間の数は、片手の指でも足りない。
だが――。
「なるほど、聞きしに勝る下衆よな」
「――はっ?」
不意に湧いた声に西尾が振り返る。
すると、先程まで誰もいなかったはずのバス停のベンチに、いつの間にやら着物姿の男が座っていた――誰あろう神様だ。
「あ、あんた、いつの間に」
「それ以上喋るな下衆。村の空気が汚れるわ」
「なっ――」
「なんだとこの野郎」という西尾の声が発せられることはなかった。突如として、謎の脱力が西尾を襲ったのだ。
小太りの体が膝から崩れ落ち、そのまま地面へと倒れ込む。
「あっ……」
「最早声も出まい。今、お主の『運命力』を根こそぎ奪わせてもらった。その反動で、あと半日は満足に動くことも喋ることも出来まいて」
ゴミを見るような目で西尾を見下ろしながら、神様が着物の裾から何やら取り出した。
それは、最新型のスマートフォンだった。神様はそのまま、慣れた手つきでどこかに電話をかけ始めた。
「もしもし、駐在か? ああ、僕だ。済まないな、忙しいところに。電話は大丈夫か? ――今、バス停にいるのだが、村に困った客が来ておってな。ああ、もう悪さは出来んから、適当に転がしてある。手間をかけてすまんが、街の警察に引き渡しておいてくれるか? うむ、ではよろしくな」
通話を終えると、神様は深く長い溜息を吐いた。最早、足もとに転がる男には興味はなく、その視線は遠く青い空を見つめていた。
「よもや、村の中に災いを呼び込むほどとはな。愛華よ、何故もっと早く村へ戻ってこなかったのだ? お前の娘は……いや、今更言っても宣無きことか」
もし今、神様の姿を見る者があれば息を呑んだことだろう。その端正な顔に張り付いた、深い深い哀しみとも憂いともとれぬ表情に。
だが、それも一瞬のこと。神様はすぐに普段の仏頂面に戻ると、西尾を置いて葛葉屋敷へと歩き出した。
***
――その後、西尾が葛葉村の土を踏むことはなかった。
彼は都内へ戻ると、人が変わったようにおどおどした、遠慮がちな人間になったという。彼のその後の人生は慎ましいものになったとも。
その逆に、彼によって迷惑を蒙った人々の人生は、その日を境に好転することになったのだが――それは物語の本筋とは全く関係のない話である。
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