第八話「ストーカーが追って来ました」

 藍里が葛葉村で暮らし始めて一番驚いたのは、村人達の仲の良さだった。

 田舎とは言え、四百人弱の人間が暮らす村だ。反りの合わない者や、利権関係で対立している者同士もいるのが普通なのだが、それが見受けられない。

 もちろん、新参者であり「神様」と同居する葛葉の娘である藍里に気を遣っていて、そういう部分を見せていないだけという可能性もあるのだが――。


(それにしたって、どこの集落に行っても皆さんニコニコしているのよね)


 日課の散歩に勤しみながら、藍里はぼんやりとそんなことを考えていた。


 葛葉村では、村道から幾つかの支道が伸び、それに沿って各住宅や畑が広がっている。住宅の多くはポツンと建っている訳ではなく、親類同士の家々が固まっていて、ある種の集落を形成しているものが多い。

 それぞれの集落は、そこに住まう一家の名字で呼ばれることが多いようだ。田中家が多い集落なら「田中の集落」と言った塩梅だ。


 ちなみに、葛葉家の周囲からバスターミナルにかけては、「葛葉の集落」などと呼ばれているらしい。文字通り村の中心部ということなのだろう。そもそも、「集落」という言葉が村落自体を表すので、村全体のことを言っているのか、中心部のことだけを言っているのか、どちらなのか甚だ紛らわしくはあるのだが。


(それに、村の人達の殆どは顔見知りなのよね。私もしっかり覚えないと)


 小さな村なので、村民同士はほぼ知り合いだ。しかも、殆どの村民が藍里のことを既に知っているらしい。

散歩をしていても、村民から気さくに挨拶される程だ。

 対する藍里は、顔と名前が一致する村民はまだ数えるほどしかいない。そのことに、何となく申し訳なさのようなものを感じていた。

 ただでさえ新参者の無職なのだから、せめて村民からの信頼くらいは得ておきたかった。


(大友さんの件もあるし)


 ――大友美沙奈とは、ここ数日顔を合わせていない。「花嫁」だとか「村から出られない」だとかの言葉の意味も、まだ聞けずじまいだ。

 唯一の同年代の同性だから仲良くしたいというのもあるが、何よりそれらの言葉の意味が気になっていた。


 この村はまるで楽園だ。けれども、まだ何か藍里の知らない秘密を抱えているようにも思える。

 まさか、現代伝奇ホラー小説に出てくるような怪しげな因習が潜んでいる……等ということはないだろうが、何せ本物の神様がいる村である。藍里には思いもつかないような秘密を抱えていても、おかしくはないのだ。


(なんだか、比企古森ひき ふるもり先生の作品に出てきそうな雰囲気だしね)


 「比企古森」というのは、藍里が愛読している作家の一人だ。

 得意ジャンルは現代伝奇ホラーであり、特に寒村を舞台に古い因習や神々によって怪異が巻き起こるタイプの作品を得意としている。

 数年に一作しか書かない寡作な作家だが、一部ファンにカルトな人気があった。


(そう言えば、先生の新刊、もう出てるんだよね。葛葉ストアに頼めば、入荷してくれるかな?)


 ふと、母の死や引っ越しのドタバタで新刊を買いそびれていたことを思い出し、藍里は葛葉ストアへ向かった――。


   ***


「比企古森の新刊……? あるよ」

「え、あるんですか!?」


 葛葉ストアで買い物を始めると、店長の女性がちょうど書籍の整理をしているところだった。

 ちょうどいいと、軽い気持ちで比企古森の新刊について尋ねてみたところ、なんと棚に平積みしてあったのだ。これには藍里もびっくりだった。


「そんなにビックリするようなことかい?」

「ええと、比企先生の本って、大きな書店でも数冊しか仕入れないことが多いので」

「まさか、こんな書店でもないちっさい店においてあるとは思わなかった?」

「あ、いえ! 決して、そんな……」

「いいのいいの、ちっさいことは本当だから。あはははっ!」


 ビア樽のような身体を震わせて朗らかに笑う店長。

 五十絡みの女性だが、見た目通りに大らかな人らしい。


「比企古森は、この村じゃ人気作家なのさ。何故かは知らんけどね」

「へぇ……」


 まさか、こんな小さな村に同好の士が複数いるとは、嬉しい誤算だった。

 もしかすると、一部の村民と仲良くなるきっかけにも出来るかもしれない。


「じゃあ、この新刊もください……っと、持ち合わせが足りないかも」

「ツケにしといても、いいけど?」

「いえいえ、きちんとお支払いします。確か、ATMがありましたよね?」


 藍里が尋ねると、店長は親指で店の隅っこを指し示した。そこには、コンビニに置いてあるようなタイプの、複合型ATMが設置されていた。

 今は小太りの男性が使っているが、程なく空くだろう。店長に買い物かごを預かってもらい、藍里はATMへ向かった。

 ――と、丁度その時。取引が終わったのか、男性がATMに背を向け藍里と目が合った。


『あっ』


 どちらからともなく声が漏れる。藍里も男性も、どちらもお互いの顔を知っていたのだ。

 けれども、村民ではない。男性は、この村にいるはずのない人物だった。


「あ、藍里ちゃん!」

「え? え? え? て、店長……?」


 そう。そこにいたのは藍里の元上司である書店店長の西尾だった。

 藍里が葛葉村へ逃げて来た元凶たる、あの男だ。


「会いたかったよ~藍里ちゃん!」

「な、なんでこんなところにいるんですか!?」

「なんでって、藍里ちゃんを追いかけてに決まってるじゃないか~」

「――っ」


 全身に怖気が走る。

 藍里はこの男から逃げてきたのだ。弁護士を通じて送り付けた書類にも、西尾から言い寄られたことを暗に非難する文面を入れてもらったはずだ。

 それなのに――。


「藍里ちゃん、突然いなくなっちゃったから、俺、びっくりしたよ~。しつこい男から逃げたんだって? 大変だったねぇ~」

「……え?」

「どこのどいつから知らないけど、俺の藍里ちゃんに付きまとうなんて、ふてぇ野郎だなぁ」


 西尾の表情に、ふざけたような様子はない。真剣そのものだ。

 ――藍里の中で恐怖が加速する。どうやら、この男は自分がその「しつこい男」であるとは、露程も思っていないらしい。


(駄目だこの人、話が通じない!)


 助けを求めようと、葛葉ストアの店長の方を見やる。

 彼女も異変を察知して、藍里達の方をじろじろと見ていた。だが――。


(駄目だ。この男、何をするか分からない。店長さんを巻き込めない!)


 混乱と恐怖の中にいる藍里は、咄嗟にそんなことを考えてしまっていた。都内で頻発していたストーカー殺人事件を思い出してしまったのだ。

 この手の男は逆上して刃物を取り出すかもしれない。そんな心理が、藍里の中の「店長に助けを請う」という正常な判断を邪魔してしまった。


「こんなド田舎じゃ、働き先にも困るでしょ? 悪いようにはしないから、東京に戻って来なよ~」


 言いながら、その脂ぎった手を藍里に伸ばしてくる西尾。

 藍里は咄嗟に身を引いてその手を躱すと、一目散に逃げ出した。


「ちょっ!?」


 背後で西尾が何か言っていたが、無視した。

 店長も何かを叫んでいたように聞こえたが、よく分からなかった。


(逃げなきゃ! ……でも、葛葉の屋敷は駄目! 自宅の場所がバレちゃう!)


 そう思い、屋敷とは逆方向へと駆け出す藍里。

 まずは駐在所に逃げ込もうとしたが、運の悪いことに駐在は不在だった。この時間は、村内をパトロールしているのだ。

 そうこうしている内に、西尾が何やら叫びながら追い縋ってくる。

 恐怖にかられた藍里は、近くに郵便局や村役場等、人が多い施設があることも忘れて、がむしゃらに逃げ始めてしまった――。


   ***


(しまった! こっちは山道だった!)


 藍里が冷静さを取り戻した時には、もう手遅れだった。

 無我夢中で逃げ出した結果、藍里は村はずれの山道へと迷い込んでいた。まだ土地勘が全くない辺りだ。

 けれども、今更引き返す訳にも行かない。背後には西尾が迫っている。小太りとは言え、男の足だ。藍里より遅いはずもなかった。


(せめて、どこか身を隠せる場所があれば)


 ――だが、現実は非常だった。

 道は唐突に終わり、藍里の前に現れたのは行き止まりだった。

 山道の奥にあったのは古めかしい神社で、その先に道は続いていない。


「ハァハァ、なんで逃げるのさ、藍里ちゃん」

「や、やだ! 来ないで!」


 古い木の鳥居を潜り境内に逃げ込むが、人の気配はない。

 ――藍里は知らぬことだが、この神社にお参りに来る者は殆どない。祭神すら定かではない、ただ昔から存在するだけの、村民ですら由来を知らない神社だった。


 お社の扉には丈夫そうな南京錠がかけられていて、開きそうにない。

 尤も、扉が開いたところで、立てこもれるほど丈夫にも見えないのだが。


「照れちゃって、可愛いなぁ藍里ちゃんは。こんな、二人っきりになれる場所まで連れてきてくれたんだね?」

「ひっ――」


 手前勝手な妄想を呟きながら、西尾が藍里に手を伸ばしてくる。

 その息は荒く、股間には欲情を示す邪悪な盛り上がりさえ見える。


「外でってのは、趣味じゃないけど……俺もう、我慢出来ないよ!」


 西尾が獣のような臭い息を吐きながら、藍里に襲い掛かる。

 そのまま、小柄な藍里は簡単に組み伏せられてしまった。必死に抵抗するが、びくともしない。

 藍里の恐怖が極限に達し、ガチガチと歯が鳴るほどに全身が震え、悲鳴も上げられなくなる。


(やだ! こんなのやだよ! 助けて、誰か! 誰か……神様!)


 ――藍里が強く祈った、その時だった。

 お社の扉が突如として内側から開き、一陣の風が吹き荒れた!

 片手で藍里の首根っこを押さえつけ、もう片方の手でズボンを脱ごうとしていた西尾が、その強風にたまらず吹き飛ばされる。


「ほ、ほぇえええ!? なんぞこの風!?」

「――なんぞ? じゃねぇよ、この色魔が」


 何者かが、開け放たれた扉の中からのっそりと姿を現す。

 声の感じからは男――だが、藍里の知る神様のものではなかった。


(え、ええと……誰?)


 お社の中から現れたのは、筋骨隆々とした大男だった。

 黒い革のパンツと鋲が沢山付いた黒い革ジャンに身を包み、その頭は眩しい程の金髪で、ポマードか何かで丁寧に撫でつけられている。

 大きな丸型サングラスをかけているので素顔は分からないが、彫りの深さからは、かなりの美形であることが伺える。

 全体的に日本人離れ――否、人間離れした雰囲気を纏っていた。


「俺様のシマで婦女暴行働こうなんざ、こりゃあ神罰でも済まねぇぞ?」


 大男が藍里を庇うように、西尾の前に立ちはだかる。

 その体から、強い風が吹き荒れていた――。

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