第七話「村にも慣れてきました」
藍里が葛葉村にやってきて、早くも一週間が過ぎようとしていた。
懸案だった引っ越し荷物も無事に届き、いよいよ彼女の村での生活が本格的に始まった。
――とはいえ、まだ無職の身だ。智里は「仕事のことは気にしなくていい」と言ってくれていたが、そうもいかない。
当面の間は、葛葉の屋敷の家事手伝いの身に甘んじることになるが、早めに仕事を見付けなければと、藍里は密かに決意していた。
『いただきます』
居間に三人分の「いただきます」が響く。
ここ数日で、すっかりお馴染みとなった葛葉家の朝の光景だ。
食事は三食、智里と藍里が交代で作ることになった。藍里としては、智里が担っていた家事を全て引き受けるくらいのつもりでいたのだが、智里曰く「ボケ防止には家事がちょうどいい」のだそうだ。
今朝の食事担当は智里だった。
メニューはシンプルで、お手製のお漬物と季節の野菜の味噌汁、山菜と油揚げとこんにゃくの炒め物に、ひじきとおからの煮物だ。神様曰く「色味が足りない」品目だが、藍里は智里の作ってくれる素朴な味が気に入っていた。
朝食を済ませてからは、日課の掃除や洗濯が始まる。
葛葉の屋敷は広いし古い。故に、毎日コツコツと掃除をしておかないと、あっと言う間に傷んでくるのだという。
――ちなみに、この段階で神様は離れに引きこもってしまい、昼食の時間まで姿を現さない。恐らく、読書に勤しんでいるのだろう。
毎日の掃除は、屋敷の広さ故にかなりの重労働のはずだが、智里はこれを箒とはたき、雑巾だけでテキパキと一時間足らずの間に終わらせてしまう。初めて見た時、藍里は「まるで魔法のようだ」と思ったものだった。
流石に屋敷全ては藍里の手に余るので、掃除は智里に指導してもらいながら、手分けして行う。
(これ、床だけなら自動掃除機とか使った方がいいかも)
葛葉の屋敷の廊下や縁側は板張りであり、その全てが段差なく繋がっている。
まさにロボット掃除機にうってつけであるように思える。「その内、智里おばあちゃんに提案してみよう」と藍里は思った。
ちなみに、洗濯は流石に全自動洗濯機を使っていた。
藍里は「洗濯板だったらどうしよう」等という、たくましい妄想もしていたので、一安心だった。
手際よく掃除や洗濯を終わらせれば、昼食までかなりの時間が空くことになる。このタイミングで仏間にお線香をあげれば、午前中のおつとめは終わりだ。
智里はこの時間を、テレビを観たり、趣味の編み物をしたりして過ごすらしい。なので、藍里もそれに倣うことにした。
まだ読んでいなかった本を消化したり、少し近所を散歩してみたり。久々に過ごす穏やかな時間だった。
意外だったのは、テレビのチャンネル数だ。こんな田舎なので数チャンネルしかないかと思いきや、数は都内とほとんど変わらない。
都心を遠く離れたのに、不思議な感覚だった。
昼食後、一服してからは、智里と連れだって買い物に出かける。場所はもちろん葛葉ストアだ。
「藍里ちゃんがお料理上手で助かるわぁ。神様も、とっても喜んでいるわよ」
「そんな……私の料理なんて、そんな大層なものじゃ」
「あらあら、こういう時は謙遜しないのよ」
ガラガラとショッピングカートを引きながら、智里と雑談する。
昼食の担当は藍里で、今日は神様のリクエストでスパゲッティーにした。
市販のミートソースを使ったのだが、そこに炒めた秋ナスや細かく刻んだベーコン、唐辛子等を加えるアレンジをした。それが、神様にはえらく好評だった。
藍里としては、母と共によく作っていたメニューを再現しているだけなので、褒められるとなんだかむずがゆかった。
「それにしても、いいお天気ですね。今朝の天気予報では、午前中は荒れるって言っていたのに」
空を見上げれば、そこには雲一つない青空が広がっていた。
予報は完全に外れたようだった。が――。
「ああ、ここいらのお天気は特殊ですからね」
「特殊? なにか、地形的な理由でもあるんですか?」
「いいえ。なにせ、神様がいらっしゃる土地ですからねぇ。悪い天気も逃げてしまうのよ」
「……天気が、逃げる?」
智里の言う聞きなれぬ表現に、藍里は思わず首を傾げてしまった。
「神様が座敷わらし――所謂『守り神』だということは、藍里ちゃんにもお話したわよね?」
「ええ」
「私も詳しくはないのですけど、座敷わらしは、普通は住んでいるおうちやその家族に幸運をもたらすそうね。でもね、うちの神様はその対象が村全体なの」
「はい、その話も聞きました」
「そのお陰でね、村には大きな災害は起きないし、村の人達はみんな健康そのものなのよ」
――「神様」という非現実の存在を日常として受け入れ始めた藍里にしてみても、その話はあまりにも眉唾だった。
それでは、この葛葉村はまるで極楽浄土だか天国だか楽園だかではないか、と。
村人が皆、健康そのものという話も疑わしい。藍里の祖父母は、比較的若くして亡くなっているのだ。村全体が守られているのに、葛葉の人間は守ってもらえないとでも言うのだろうか?
(そうよ。だって、お父さんも。お母さんだって――)
抜けるような青空とは裏腹に、藍里の心が俄かに曇りだす。
と――。
「あらぁ、葛葉のおばあさま、藍里様、ごきげんよう」
底抜けに明るい声が耳に響いた。
見れば、いつの間にやら藍里達の傍らに例の高級車が停まっており、大友美沙奈が窓から顔を覗かせていた。
「あらあら、美沙奈ちゃん。こんにちは」
「こ、こんにちは!」
智里はにこやかに、藍里は少しどもりながら挨拶を返す。
この「お嬢様」然とした女性を前にすると、藍里は何故か緊張してしまうのだ。
「お二人とも、お買い物ですか? よろしければお送りしますが」
「いえいえ、葛葉ストアとの往復が丁度いい運動になるのよ。ありがとうね」
「あら、そうですか。では、藍里様だけでもお乗りになりますか?」
「えっ、い、いえ! せっかくですけど……」
「それは残念。ガールズトークに花を咲かせたかったのだけれど」
美沙奈は心底残念そうに見えた。どうやら、何か他意がある訳ではなさそうだ。
藍里としても、例の「花嫁」発言について尋ねてみたくはあった。が、緊張のせいで上手く話せる気がしなかったのだ。
「え、ええと……大友さんも、これからお買い物ですか? 村の外に行くのかしら」
それでも、なんとか少しでも慣れておこうと、会話を繋ぐ藍里。
美沙奈の乗っている黒塗りの高級車は、村内を移動するだけにしては大仰過ぎる。だから、村を出て都市部にでも向かうのかと思ったのだが――。
「いいえ? あたくしは村から出られませんから」
「えっ、出られない?」
「……つまらないお話をしましたわ。では、ごきげんよう」
そのまま、気まずそうに目を伏せた美沙奈を乗せて、高級車は走り去ってしまった。
後には、呆気にとられた藍里と、表情の読めない智里だけが残された。
「……智里おばあちゃん。大友さんが村から出られないって、どういうことですか?」
「さあてねぇ。……おっといけない。早くストアに行かないと、生ものが売り切れてしまうわ」
「ちょっと、おばあちゃん。待ってください!」
――結局、その後いくら美沙奈のことを尋ねても、智里はのらりくらりと躱すばかりだった。
藍里は、一見平和なこの村に、何か得体のしれない物を感じ始めていた。
***
一方、村の外では藍里の知らぬところで、彼女に危機をもたらす事態が進行していた。
「や、やった! 遂に突きとめたぞ、藍里ちゃんの引っ越し先!」
葛葉村から遥か離れた都内某所に、探偵事務所からの報告書を読んでほくそ笑む男の姿があった。
藍里の元雇い主である西尾だ。
「待っててね、藍里ちゃん。俺が迎えに行くからね!」
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