第五話「新しい生活が始まりました」

 障子越しに淡い陽の光が差し込む早朝、藍里は自然に目を覚ました。


 外からは、名も知らぬ野鳥の甲高い歌が聞こえてくる。遠くからは、都会でも聞きなれた鴉の声もする。他にも、どこかの農家で飼っているのか、鶏の声まで聞こえる。

 それ以外に聞こえるのは、風の音か、はたまた遠くに流れる川のせせらぎくらいのものだ。早朝からバイクや車のエンジン音やら、散歩の犬の鳴き声やらが響き渡る都会とは大違いだった。


 布団から起き上がり、大きく伸びをする。

 智里が用意してくれた布団はふかふかで、藍里は母が亡くなって以来、初めての快眠を得ていた。心なしか体も軽い。


「よし。新しい一日を始めますか」


 誰に言うでもなく、思わず声が漏れる。藍里の気合は十分だった。

 急な引っ越しだったので、まだ仕事も決まっていない。引っ越し荷物も届いていない。

 けれども、ぼやぼやしている暇はない。一刻も早く、この葛葉村での生活に慣れたかった。

 「まずは当面の間お世話になる、この屋敷の掃除でもしよう」と、藍里がゆっくりと布団を抜け出した、その時。


「藍里ちゃん、もう起きていますか?」

「あ、はい。おはようございます、智里おばあちゃん。お早いですね」


 障子の向こうから、智里が声をかけてきた。どうやら、藍里よりも大分早く起きていたらしい。

 老人の朝は早いと言うが、本当のようだ。


「実はね、ご近所の方々が、藍里ちゃんにご挨拶したいそうなの。朝ごはんの後に、お時間をいただいても?」

「近所の方々、ですか? 構いませんが……」

「助かるわぁ」


 葛葉の屋敷の周囲には、数十メートル四方隣家は見当たらなかったはずだ。最も近い家でも、百メートル近く離れている。「近所」のスケールが都会とは違い過ぎるのだろう。

 それはさておき、その話は藍里にとっても願ったりかなったりだ。智里と神様以外に知り合いのいない土地である。自分から挨拶して回った方が良いだろうか? 等と考えていたくらいなので、先方から来てくれるのは助かる――この時の藍里は、そのくらい気軽に考えていた。


「ところで智里おばあちゃん。昨夜言った通り、今日の朝食は私に任せてもらっても大丈夫ですか?」

「もちろんよ! 神様もきっとお喜びになるわぁ」


   ***


 昨晩のことだ。

 その日の夕食は、智里が腕によりをかけて作った、どこに出しても恥ずかしくない「日本の晩御飯」だった。

 山菜の味噌汁、焼き魚、納豆、青菜の和え物、ひじきの炒め物、お手製のお漬物。愛華が洋食派だった為、藍里にとっては久々に食べる純和風の家庭料理になった。

 老人が作ったものらしく薄味だったが、どれも丁寧に作られていて、藍里は感動すら覚えたものだ。

 ――ところが、その食卓で実に意外な出来事が起こった。


「いつも思うのだが。智里の作る飯は美味いが、こう、色味が足りないな」


 一緒に食卓を囲んでいた神様が、ぽつりとそんなことを呟いたのだ。

 そもそも、神様が同じ部屋で食事を共にすること自体が驚きであるのに、どこか子どもっぽい文句まで垂れたのだ。愉快なような不可思議なような、そんな光景だった。


「あらあら。神様は、このババが作るご飯が、お気に召さないと?」

「そうは言っていない。いつも美味い飯を作ってくれて、ありがたいと思っているぞ? だがな、その、たまにはこう、お前の姉のような飯をな……」


 智里の姉と言えば、藍里の祖母である。確か、藍里の父が亡くなったしばらく後に、祖父共々亡くなっている。そのせいで、ろくに顔も覚えていない。

 ――だからなのか、藍里は気付けば神様と智里の会話に割って入っていた。


「祖母が、どうかしたんですか?」

「あらあら、ごめんなさいね。藍里ちゃんの前で、みっともないところを」

「みっともないとはなんだ、みっともないとは」

「私の姉――藍里ちゃんのおばあちゃんはね、私と違って洋食が得意だったの。ハンバーグとかシチューとかオムライスとか、他にも色々」

「へぇ、なんだか意外ですね」


 この絵に描いたような日本家屋である葛葉の屋敷で、そんな子どもが大好きそうな洋食メニューが並んでいた時代があったとは。藍里には意外に思えた。


「こんな山の中ですからね? 新鮮なお肉も手に入りにくかったのを、わざわざ手間をかけて仕入れてきてねぇ」

「そう言えば、母もハンバーグとかオムライスが好きでした。そうか、それはおばあちゃんの影響だったんですね」

「あらあら、そんなところも親子だったのね」


 智里が昔を懐かしむように顔をほころばせる。

 どうやら、藍里の祖母と愛華は似たもの親子だったようだ。


「でも、母は作るのは好きじゃなかったみたいですよ? そこはおばあちゃんとは違うかも」

「あら、じゃあおうちのご飯は、もしかして藍里ちゃんが作っていたの?」

「はい。小学生くらいから料理を仕込まれて、ご飯は殆ど私が作ってました」


 母の負担を少しでも軽くしたいという気持ちもあったのだろう。藍里は小学四年生くらいから、料理を一手に引き受けていた。

 あくまでも家庭料理の範囲内だが、間違いなく彼女の数少ない特技と言えた。

 ――と。


「ほう。藍里は、洋食が作れるのか」

「えっ?」


 そこまで黙っていた神様が、突如として口を挟んできた。


「一般的なものになりますけど……」

「ハンバーグは?」

「作れます」

「オムライスは?」

「出来ます」

「カレーとかシチューは?」

「もちろん。あ、流石にカレーは市販のルーを使いますが」


 神様が再び押し黙る。何やら真剣な様子だ。

 しばらくの間、壁にかかった振り子時計のカチコチという音だけが、居間に響いた。


「藍里よ。物は相談なんだが――」


   ***


「おおお……」


 時は戻って本日の朝。

 居間には、食卓に並べられた藍里のお手製の朝食を眺めながら、感嘆の声を上げる神様の姿があった。


「簡単なものばかりで恐縮ですけど」

「とんでもない。実に豪勢な朝食ではないか。謙遜するな藍里」


 食卓に並んでいるのは、藍里がありあわせの材料で作ったものばかりだ。卵が大量にあったので中心は卵料理になった。

 ハムエッグ、スクランブルエッグ、ほうれん草のソテーに簡単なサラダ。残念ながらパンはなかったので、主食はライスだし、紅茶もないのでお茶も緑茶だ。

 それでも、神様の目には「豪勢」に見えたらしい。なんだかくすぐったかった。


『いただきます』


 三人で手を合わせてから、藍里の作った朝食を食べ始める。

 神様と藍里の分は普通の味加減、智里のものは少し塩を加減してある。


「あらあら、美味しいわ藍里ちゃん」

「うむ。味加減もちょうどいい。欲を言えばケチャップも欲しいが」

「すみません、買い置きが無かったもので。バス停の前にあったスーパーに置いてあるかしら?」


 そんな会話を繰り広げながら、朝食は進んだ。

 藍里にとっては久々の、和気あいあいとした食卓になった――。


   ***


「ええと……」


 ――朝食が終わってしばらく。

 目の前に広がる光景に、藍里は言葉を失っていた。

 葛葉の屋敷の、玄関から入って左手にある最初の部屋。十畳ほどの広さのあるその部屋に、藍里はいた。

 目の前には、「ご近所の方々」が、ざっと十数人。皆、着物やスーツに身を包んで、お手本にしたいほど綺麗な正座で藍里に向かい合っている。


 一方、上座に座する藍里の姿も普段着ではない。智里が着付けてくれた、白を基調とした着物姿になっていた。

 全体に花を咲かせた葛をあしらった、見るからに上等そうな着物だ。袖は長くないので、振袖ではなく訪問着というものかもしれない。

 藍里の背後には、達筆過ぎて何が書いてあるのか分からない立派な屏風も立てられている。なんだか、時代劇の中の姫にでもなった気分だった。


「皆さま、よくお集まりいただきました。こちらが私の姪孫てっそん、葛葉藍里にございます」


 傍らの智里が藍里のことを紹介すると、集まった人々が深々と頭を下げ始めた。慌てて藍里も頭を下げ返す。

 一体全体、何が起こっているのやら。藍里の頭は混乱の極みにあった。


 その後、智里が一人一人を藍里に紹介していった。

 現村長がいた。前村長もいた。村議会議員や村の大地主、里山の管理を取り仕切っているという老人もいた。大きな会社を経営しているという紳士もいた。

 それ以外にも、幾人もの人々が集まっていた。どうやら、村の顔役が一堂に会しているようだった。


「何分、村に来たばかりの新参者でございますので不調法もあるかと思いますが、どうぞお見知りおきを」

「とんでもない! こんな若い娘さんが来てくれたんだ。しばらくは葛葉村も安泰でしょうな! はっはっはっはっ!」


 智里の言葉に、現村長の六十絡みの男性が大きな声で応える。声と同じく体も横に大きく、藍里の苦手そうなタイプだった。

 ――しかし、藍里が来たことで葛葉村が安泰になるとは、一体どういった理屈だろうか? それほど高齢化が進んでいるということだろうか。

 結局、来客たちの挨拶が終わるまでの間、藍里はずっと狐につままれたような気分のままだった。


   ***


「うう……足痺れた……」

「いきなりごめんなさいね、藍里ちゃん。ご近所づきあいは、最初が肝心なのよ」

「……ご近所づきあいと呼ぶには、豪華なメンバーだったみたいですけど。村長さんだとか、議員さんだとか。皆さん、私みたいな小娘に平伏して、一体何なんですか、あれは?」


 藍里の語気は珍しく荒かった。どうも、この大叔母の頭の中には「事前に説明する」という概念が欠落しているらしい。


「あらあら、ごめんなさいね。私にとっては当たり前のことだったから、つい。――藍里ちゃん、この葛葉の家はね、村にとって特別なのよ。村の名前に家名を戴いているのも、その為なの。理由は、もう藍里ちゃんも知っていると思うけれど」

「……ああ。もしかしなくても、神様の存在ですか?」

「ええ、そう。元々、この村は葛葉の家と神様から始まっているのよ」


 ――村には、こんな伝承が伝わっているそうだ。

 江戸時代よりも更に前。いつの頃からか、葛葉のご先祖が神様と共に、この地に住まい始めた。

 葛葉の家は神様の庇護の下で大層栄え、その噂を聞きつけた人々が集まり、集落となっていたのだという。

 座敷わらしは住む屋敷に幸運をもたらすというが、葛葉家の神様の場合、そのご加護は村全体に及ぶらしい。


 しかし、神様が憑いているのはあくまでも葛葉の家。 

 もし葛葉の家が絶えてしまった場合、果たしてどうなってしまうのか? その答えは村の誰も知らなかった。


「葛葉の直系は、もう私と藍里ちゃんだけですからね。村の方々も、直系の血筋が絶えてしまうんじゃないかって、不安だったのよ」

「そんな事情があったんですね……。というか、そんな状況で母はよく村を出ましたね」

「それは、その。愛華ちゃんですから」

「あー」


 藍里の母の愛華は、娘から見てもエキセントリックな人だった。

 とにかく行動的で新しもの好きで、自然の静けさよりも都会の喧騒を好んだ。

 そういう人にとって、この長閑すぎる村は大層退屈だったのではないだろうか。


「神様は、母が村を出ていくことを反対しなかったんですか?」

「私の知る限りでは。そもそも、神様は愛華には甘かったですからねぇ」


 とり憑く家の住人が絶えてしまっても、神様は困らないのだろうか?

 その内、それとなく聞いてみようと藍里は思った。

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