第四話「神様と同居することになりました」

 玄関まで戻り、縁側とは反対側の廊下へ進む。

 こちらの廊下は、昼間だというのに薄暗い。廊下沿いには幾つかの部屋があり、それぞれが立派な襖で閉ざされていた。

 廊下をしばらく進むと、障子戸が姿を現した。その向こうからは、ほんのりと良い薫りが誰かの鼻歌と共に漏れ出ていた。声の調子からすると智里のようだ。そういえば、「晩御飯の準備をする」と言っていたような気がする。

 声をかけようとして、やめる。それよりも、この先にあるものが気になって仕方がなかった。


 更に奥へ進むと、不意に明るくなった。見れば、廊下の先は開けており、屋根を備えた渡り廊下になっていた。

 渡り廊下の先には、また別棟の建物が見える。恐らく「離れ」というものだろう。


(……そうだ。確か書庫は、この渡り廊下の先)


 おぼろげな記憶に突き動かされるように、藍里の足が勝手に動く。

 いつしか床が、キィキィギシギシと不思議な音で鳴き始めていた。

 そのまま渡り廊下を進み、離れへと辿り着く。こちらもかなりの広さで、更に廊下が続いている。

 

 ――が、藍里は既に目的のものを発見していた。

 離れに入ってすぐのところにある、片開きのドア。ピカピカに輝く真鍮のノブに見覚えがあった。ここが書庫に違いない。

 そっとドアノブに触れ、回す。鍵はかかっていなかったようで、ドアは容易く開いた。


「あっ……」


 途端に伝わってくる、古い本特有の匂い。

 小さな明り取りの窓からの僅かな光に照らされてそびえる、無数の本棚。

 思い出の中そのままの書庫が姿を現していた。


「凄い、全く変わっていないわ」


 書庫に踏み入り、ゆっくりと確かめるように歩を進める。

 記憶の通りなら、この本棚の群れを抜けた先には安楽椅子が置かれていて、そこに――。


「……まあ、当たり前、か」


 果たして、安楽椅子はそこにあった。

 傍らのサイドテーブルも当時まま。読書灯だけが白熱灯からLEDのものに変わっていたが、問題はそこではない。

 安楽椅子の主たるあの青年の姿が、どこにもなかったのだ。

 

「まったく、我ながらどうかしてるわ。なんで、あの人がいると思ったのかな」


 夢から覚めたことを確かめるように、藍里は独り言ち、軽い自己嫌悪に陥った。

 十九歳にもなって、なにを非現実的な夢想に縋ろうとしていたのだろうか? と。

 母を亡くし、住み慣れた家を離れ、遠く離れた土地に住むことになった。その辛さから逃れる為に、幼い頃の美しい思い出に逃避するだなんて、自分はこんなに弱かっただろうか? と。


「戻ろう」


 書庫には読書好きを唸らせる垂涎ものの本が沢山ありそうだが、今はチェックする気にもなれない。

 藍里は安楽椅子に背を向け、静かに歩き出した。

 ――と、その時。背後で読書灯が点灯した気配があった。背中越しに、電球色の暖かな光が見てとれたのだ。


「えっ……」


 我知らず、驚きの声を漏らしながら振り返る。

 すると……すると、そこには。


「お前は昔もフラフラと、この部屋に入ってきたことがあったな」


 藍里一人きりしかいなかったはずの書庫に、男の声が響く。

 低いが通りの良い、透き通った美声だった。


「え、え、えええっ?」

「どうした、鳩が豆鉄砲食ったような顔をして。久方ぶりだというのに、挨拶の一つも出来んのか?」


 安楽椅子に深くもたれかかった声の主が、苛立たし気に髪をかき上げる。

 無造作に伸ばされた黒髪は、しかし絹のような光沢と手触りを感じさせ、さらさらと指の間を滑り落ちている。

 その下にある顔は、痩せすぎなのかやや骨ばっている。が、全体の造詣は悪くない――どころか良い。

 意志の強そうな眉と、その下にある神経質そうな鋭い眼差しは、ともすると強面になってしまいそうなものだが、絶妙なバランスでもって美しさを湛えている。

 紛れもない美青年が、そこにいた。


「お、お、お……」

「なんだ? こんどは膃肭臍おっとせいの真似か? 相変わらず、よく分からぬ娘だな」


 青年が体を起こすと、身に付けた濃紺の着物がとても上品な衣擦れの音を立てた。

 藍里も詳しくはないが、かなり上等な着物に見える。

 だが、青年の美しさも美声も上等な着物も、今の藍里にとっては些末事だった。

 何故ならば――。


「おおおおお、お化けぇ!?」


 藍里の目の前に現れた青年は、あの日出会った「夢の君」に違いなかった。

 しかし、姿形が全く変わっていない。若いままだ。

 しかも、音もなく、先程まで確かにいなかった場所に現れてみせた。

 明らかに、お化けだとか妖怪変化だとかの類に違いなかった――。


   ***


 ――数分後。藍里の姿は離れの一室にあった。

 立派な床の間のある、八畳ほどの広い部屋だ。床の間の壁には、高そうな水墨画の掛け軸が飾られている。

 床の間を背にした上座には、例の青年が仏頂面を浮かべて座っていた。ため息が出る程の姿勢の良さで正座している。

 藍里はそこから離れた下座で、居心地悪そうに正座させられていた。

 二人の間には、騒ぎを聞きつけて駆けつけた智里の姿もある。


「さて」


 青年の凛とした声が響く。藍里の体がビクッと震えた。


「どうやら行き違いというか、伝え忘れがあったようだな、智里」

「申し訳ありません。てっきり、藍里ちゃんも分かっているものだとばかり」

「……急なことだった故、仕方あるまい。『お化け』呼ばわりも、気にしてはおらん」

「恐縮です」


 事ここに至っても、藍里は青年と智里が繰り広げる会話についていけていなかった。

 この青年は何者なのか? どうして昔の姿のままなのか? 何一つ分からなかった。


「あ、あのー。そろそろ説明をしていただけると助かるのですが」

「あらあら、ごめんなさいね藍里ちゃん。ええとね、こちらのお方が、葛葉家が戴くなの」

「……はい? ええと、すみません。もう一度お願い出来ますか?」

「だから、この方は神様なのよ」

「かみ……さま?」


 「神様」という字面は浮かぶ。だが、藍里の常識的な脳みそは、その言葉の意味と目の前の青年を結び付けられずにいた。

 いきなり「神様」と名乗る人物が目の前に現れて、それを鵜呑みに出来る人間がいるとしたら、詐欺に気を付けた方がいい。


「智里よ。ますます混乱しているではないか。もっと順を追って話してやれ」

「左様でございますね。ええと、どこから話せばいいやら……。あのね、藍里ちゃん。貴女、『座敷わらし』はご存じ?」

「座敷わらしですか? 確か、古い家に住みついている妖怪でしたっけ? その家に繁栄をもたらすとかなんとか」

「そうそう、その座敷わらし。神様はね、その座敷わらしなの」

「……座敷わらし? この人が?」


 藍里の脳裏に、また別の疑問が浮かんだ。

 「座敷わらし」と言えば、妖怪の中でもメジャーな存在だ。だから、藍里にもその概要くらいは分かる。

 だからこそ、しっくりこなかった。「座敷わらし」と言えば、子どもの姿をした妖怪ではなかっただろうか? この青年――神様は、明らかに大人だ。


「娘よ、お前が疑問に思っていることは分かるぞ。確かに僕は、『童子わらし』と呼ぶには大きすぎる。だがまあ、そこは呑み込んでもらうしかあるまい。余所の連中は子どもの姿が多いようだが、僕は僕だ」

「……余所にもいらっしゃるんですか?」

「数多な。ここいらには僕だけだろうが。『座敷わらし』というのは、その土地や屋敷の守り神だと思ってくれれば良い」

「守り神……なるほど」


 ようやく藍里も腑に落ちた。というよりも、目の前の青年が「神様」だと認めてしまった方が楽だと気付き、諦めた。

 世の中には、藍里が考えていたよりも不思議なことが多いらしい。


(そういえば、あの時)


 そこに至って、ようやく思い出す。

 智里は先日、藍里にはっきりと言っていたではないか。「神様も、貴女のことをお待ちしていますよ」

と。

 あの時は田舎特有の隠語か何かかと思っていたが、文字通りの神様だったとは驚きだ。


「ま、なんにせよ、これからよろしくな、娘」

「は、はい。よろしくお願いします……? ええと、神様もこのお家にお住まい、なんですよね?」

「無論だ。何か気になることでもあるか?」

「め、滅相も無いです! その、男の人と一つ屋根の下で暮らした経験がないもので」


 藍里の言葉に、神様がキョトンとした顔をした。

 なにか、不思議な生き物でも見たかのような表情だ。


「……ふむ。そうか、僕も男であることには変わりなかったな。お前も年頃の娘だ、その点は気を付けることにしよう」

「あ、いえ。そんな気を遣って頂きたい訳ではなく」

「安心しろ。僕がこの離れから出ることはあまりない。母屋に赴くのは、飯時くらいのものだ。そもそも、いずれお前のものになる屋敷だ。智里と相談して、自由に使うが良い」

「あ、ありがとうございます! ……あ、あとですね」

「なんだ、まだ何かあるのか?」


 不機嫌そうにではなく、なんでもないことのように神様が尋ねてくる。

 どうやら、仏頂面ではあるが怒っている訳ではないようだ。


「その……私にも藍里という名前がありますので、出来ればそちらで呼んで頂ければ」

「ふむ、そう言えばそういう名前であったな。済まぬ。……では、藍里。これからよろしくな」


 その時、藍里は見た。

 彼女の名を呼ぶ神様の仏頂面の口元が、僅かに緩んだのを。


(あ、ヤバイかも)


 その不器用な微笑みに、藍里の胸はいつの間にかドキドキと早鐘を打ち始めていた。

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