第三話「葛葉村へやってきました」

「さあ、着きましたよ。葛葉村に」

「うわぁ……」


 バスから降りた藍里の目に飛び込んできたのは、「ザ・田舎」と言った風情の光景だった。

 バス停の周囲には、近代的な鉄筋コンクリートの建物が軒を連ねている。だが、どれも高くても二階建て程度で、大きなものはない。

 村の周囲は緑豊かな山に囲まれており、その中に広がる盆地に、畑やら田んぼやら、年季の入った日本家屋やらが連なっている。少し下った所には、日光を浴びて眩しく光る清流も見えた。「風光明媚」という言葉が良く似合う風景だ。

 それでいて、村を貫く村道は綺麗に舗装されているのだから、なんともチグハグとも言えた。


 葛葉村は、北関東の山中にひっそりと佇む人口四百人足らずの小さな村だ。

 面積は僅か三十平方キロメートル程。目立った産業や観光資源もない。

 しかも、聞いたこともないような在来線と、ひたすらに山中を走るバスとを乗り継いでようやく辿り着くという、都心から半日近くかかる辺鄙さだ。住民以外の人間が訪れることは、殆どないらしい。


(……覚悟はしていたけど、とんでもない田舎に来ちゃったな)


 都会で生まれ育った藍里にしてみれば、こんな田舎はテレビの中でしか観たことがない。ほぼ異世界だ。

 幼い頃に二度は訪れているはずだが、それだけで愛着が湧くわけでもない。

 唯一気になるのは――。


(あの人はまだ、この村に住んでいるのかしら)


 何度も夢に見た、「書庫の青年」。

 葛葉家の書庫にいたということは、親戚筋か隣近所か、どちらにせよ近しい存在なのだろう。

 この村で行われたはずの父の葬儀のことさえ覚えていない藍里にとって、唯一とも言える葛葉村での確かな思い出が、彼だった。

 

  思えば、藍里にとって彼は初恋の君だった。ほんの僅かな時間しか一緒にいなかったのに、今でも夢に見るのがその証拠だろう。

 まだ幼かった藍里に、よりにもよって夏目漱石を読み聞かせる、どこか不器用な優しさを感じさせる人だった。

 あれから、十年以上の時が流れている。

 二十代くらいに見えたあの青年も、三十代後半か四十絡みくらいにはなっているだろう。

 会いたいような、会いたくないような、複雑な気持ちが藍里の胸の内に湧いてきた。


「さあ、ここからは歩きよ。葛葉の家には十分くらいで着くから……まずは愛華を、落ち着かせてあげないとね」

「そう……ですね」


 ここまでの道中、愛華のお骨は藍里がしっかりと胸に抱えてきていた。

 四十九日を待って、葛葉家代々の墓所へ弔う為だ。藍里の父も眠る、その墓に。


 そのまま、智里と他愛無い会話を交わしながら、歩き出す。

 やれ、あの家は誰が住んでいるだとか、あの田んぼはどこの家の物だとか。

 藍里が葛葉村に住む以上、知っておかねばならないことなのだろうが、今は全く頭に入ってくれない。ただただ、生返事を返すばかりだ。


 ――そして遂に、葛葉の屋敷の前に辿り着いた。


「さ、ここよ。少しは覚えているかしら?」

「どう……でしょうね」


 その家は、立派な板塀に囲まれていた。村の他の家が低い生垣くらいしか持たないのと比べると、どこか特別感がある。

 外観は「純和風」と言った風情で、屋根の位置は高く、平屋ではないようだった。二階建てなのか、はたまた屋根裏のスペースが広いのか。

 敷地も建物もかなり広く、藍里は何となく「武家屋敷」を連想した。門からはよく見えないが、庭も広いようだ。


「凄いお屋敷ですね。でも、結構新しい……?」

「そうねぇ。江戸の頃からあるお屋敷らしいけど、何度も手を加えているそうだから、古いと言えば古いし、新しいと言えば新しいかも」

「あっ、なるほど。あの、電気とか水道は……」

「うふふ、その点はご心配なく。電気も水道も、インターネットもあるわよ。ガスはプロパンですけどね。――ささ、立ち話はこれくらいにして、まずはお家に入りましょう」


 智里が引き戸に手をかけると、戸は抵抗なくガラガラと開いた。どうやら、鍵をかける習慣はないらしい。

 引き戸は年季の入った深い色の木製だが、所々がガラス張りになっている。流石に障子張りではないようだ。


 やけに広い三和土を上がると、廊下が左右に広がっていた。左手は薄暗いが、右手側からは陽の光が差し込んでいる。どうやら縁側に通じているようだ。

 智里が右手側へと進むので、藍里もそれに倣う。――床はそれほど鳴らなかった。


 そのまま縁側を進むと、ガラス戸越しに広い庭が見えた。

 木はあまり植えられておらず、池も無ければ石灯籠だとかも置かれていない。

 ただ、何本か季節の木らしきものが植えられているだけの、質素な庭だ。


「さっぱりとしたお庭でしょう? お手入れも大変ですからね、少し寂しいけれど、あまり草木は植えていないのよ」

「……なるほど」


 庭のある家に住んだことのない藍里にはピンと来なかったが、言われてみればそうなのだろう。

 植物は勝手に育つし伸びる。木の数が多ければ、それだけ手間も増えるのは自明の理だった。


「といっても、『鳥の落とし物』から勝手に生えてくることもあるんですけどね。いつだったか、気が付いたら柿の木が生えていたこともあったのよ」


 ――しかも、勝手に生えてくることすらあるらしい。

 藍里は、「自分も庭木の世話をしないといけないのだろうか?」等とぼんやり考えながら、縁側を奥へ奥へと進んでいった。

 そのまま日向の香りのする縁側を進むと、やがて突き当りに立派な襖が姿を現した。どうやら、この部屋が目的地らしい。

 智里がスゥっと襖を開く。中は四畳半ほどの畳の部屋になっており、奥に質素な仏壇が鎮座していた。どうやら仏間らしい。

 仏壇の手前には、白い布の被せられた祭壇が用意されていた。


「さ、とりあえず、この部屋に落ち着いてくださいな。お骨は、そちらの祭壇に置いてちょうだい」

「あ、はい」


 言われるがまま、骨壺の入った桐箱を祭壇に据える。更に、手荷物から遺影と白木の位牌を取り出し、その前に並べる。

 今まで住んでいたアパートでは、どれもちゃぶ台の上に適当に並べているだけだった。それと比べれば、質素な祭壇もとても上等に思えた。


「藍里ちゃんのお家にあった荷物は、明日か明後日には届くそうよ。それまでは不便かと思うけど、堪忍ね」

「いいえ! とんでもないです。急に引っ越させてほしいなんて、頼んだ私が悪いんですから」

「それこそとんでもないわ。たちの悪い男につきまとわれたんだから、藍里ちゃんが気に病むことは全くないのよ」

「……ありがとうございます」

「さあさ、疲れたでしょう? 藍里ちゃんに使ってもらうお部屋は、すぐにでも使える状態だから、早速案内するわね? まずは一休みしてくださいな」


 そう言って、智里が老婆とは思えぬ機敏な動作で仏間を出ていく。藍里も慌ててそれに続いた。


   ***


「ふぅ……」


 あてがわれた部屋の畳に座り込み、藍里は大きく息を吐いた。

 昨晩の内に全ての段取りを済ませ、貴重品と数日分の着替えだけを持って早朝にアパートを出発し、あれよあれよという間に、ここまで来てしまった。

 西尾から逃げる為だったとはいえ、少し性急だったかもしれないが、もう後の祭りだ。


 それにしても驚いたのは、智里の手際の良さだ。

 藍里が彼女に相談を持ち掛けたのは、既に夜のことだった。普通に考えれば、そこから引っ越し業者に連絡して、翌日早々の作業を依頼するなど無理がある。

 にも拘らず、智里はそれをやってのけた。弁護士やら税理士やらの手配も、道すがらスマホを駆使して済ませている。

 自分の大叔母ながら、一体何者なのだろう? と思ってしまう。


 ――部屋の中を見回す。

 仏間から一部屋挟んだ、六畳ほどの畳敷きの部屋だ。縁側との間は障子戸で遮られており、陽の光が優しく差し込んできている。

 家具の類は全くない。壁には電源やらテレビのアンテナの差し込み口やらが見受けられ、なるほど、古い屋敷ではあるが近代化されているようだった。


「……これなら、アパートにあったものは、この部屋に全部収まるかも」


 母の愛華は極端に物を持たない人だったから、アパートにあった私物の多くは藍里のものだ。

 それも、家具以外は殆ど本しかない。藍里の唯一の趣味である読書、その結晶たる蔵書だ。

 それだけはややかさむので、もしかすると他の部屋を使わせてもらわなければならないかもしれない。


「倉庫とかあるのかな? ……あ、そうか。書庫」


 そこでふと思い出す。

 昔のままならば、この屋敷には書庫があるはずだった。幼い藍里の目から見ても、そこそこの広さがあったはずだ。


「そうよ。確か、屋敷の反対側に……」


 藍里はフラリと立ち上がると、そのままおぼつかない足取りで屋敷の中を歩き出した。

 まるで、何かに導かれるように――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る