第二話「勤め先がなくなりました」

 「葛葉村」は、北関東の山中にある小さな村だ。都内からは、電車とバスを乗り継いで数時間かかる。

 誰憚ることなく「田舎」と呼べるような僻地だ。

 藍里は、生まれも育ちも都内だ。貧乏暮らしではあったものの、都会での生活が性に合っている。だから、葛葉村へ移住する話は丁重にお断りした。

 それに、なにより――。


も、貴女のことをお待ちしていますよ』


 「神様」とは一体何のことだろうか?

 智里があまりにも当たり前のことのように言うから、その言葉の意味を尋ねることさえ出来ず、藍里はただ戸惑うばかりだった。

 田舎特有の、信仰か何かの隠語だろうか。

 とにもかくにも、そういった不気味さも相まって、移住の話はお断りしたのだった。


 『しばらくは都内に滞在しているから、気が変わったらいつでも連絡してね』と智里は言ってくれたが、藍里の意志は固かった。


 まだ学生の身分だったなら、少しは考えたかもしれない。だが、藍里は既に社会人だ。

 勤め先は中型の書店。読書好きが高じての就職だった。

 母の愛華は大学進学を勧めてくれていた。けれども、すぐにでも家計を助けたかった藍里は就職を選んだ。結果として、その選択は正しかったと言える。

 もし進学を選んでいたら、藍里の生活は母の死によって、文字通りの破綻を迎えていただろう。まがりなりにも自分の収入や預金があったから、こうして母の死を乗り越えようとも出来るのだ。

 だが――。


「え~突然ですが、この店を、閉めまぁす!」

『えっ』


 忌引き明けの出勤初日。朝礼の際、店長の西尾から飛び出したまさかの発言に、藍里以下、従業員達は言葉を失った。

 大手ではない中型の書店ではあるが、売り上げは悪くなかったはずだ。何か問題があったとも聞いていない。それなのに、何故? と。


「て、店長! いくらなんでもいきなり過ぎますよ! 理由を、理由を聞かせてください!」


 店の実務を担う副店長が、従業員達の気持ちを代弁する。

 しかし――。


「えっ? うん、飽きちゃったから」

『はぁっ!?』


 西尾からは、考え得る最低の答えが返ってきた。

 だが、確かに思い当たる節もあった。西尾は地元の土地持ちの三男坊だ。若い頃から金に苦労したことがないらしく、どこか浮世離れした感覚の持ち主だった。

 しかし、その経営手腕は確かなもので、親から任されたこの書店を見事に切り盛りもしていた。

 だから、西尾も真面目に経営しているのだとばかり思っていたが、どうやらそれは買い被りだったらしい。彼にとってこの店の経営は、ただの暇つぶしだったようだ。


「それでね、この店を閉めて、ラーメン屋をやります!」

『ラ、ラーメン屋!?』

「一緒にやりたい人は是非来てほしいな。お給料も維持するからさぁ」


 なんでもないことのように言うが、書店とラーメン屋とでは勝手が違い過ぎる。

 誰もが難しい顔をして黙り込んでしまった。副店長などは、子どもが生まれたばかりのはずなので、なんとも気の毒に過ぎる。

 もちろん、藍里にとっても論外の話だ。その昔、彼女も飲食店でバイトをしたことがあったが、どうにも適性が無いらしく、長くは続かなかったのだ。料理には自信があったが、飲食店に求められるスキルはそれだけではない。

 書店とラーメン屋とでは、客層だって全く異なるだろう。


 そんなこんなで、その日は従業員一同、魂が抜けたかのような無気力さの中で業務をこなし、気付けば営業時間が終わっていた。

 店先に貼り出す「閉店のお知らせ」の紙をノリノリで準備している店長だけが、ご機嫌だった。


 いつもは賑やかなパートのおばちゃん達も、副店長や藍里ら正規の従業員も、誰もが無言で閉店作業を終え、散り散りに退勤した。

 最終営業日はまだ先だが、もしかすると今日を最後に欠勤する人間も出てくるかもしれない。そんな雰囲気があった。


(まさか、入社半年でこんなことになるなんて)


 着替えを終えてバックヤードを出る。

 レジの前では、副店長が死んだ魚のような目をしながら、伝票類をチェックしている。「お疲れ様です」と声をかけるが、彼から返ってきたのはうめき声だけだった。

 いたたまれず、そのまま裏口から店を出ると――。


「やあやあ、藍里ちゃん。お疲れちゃ~ん」

「……店長」


 元凶たる西尾が、藍里を待ち構えていたかのように声をかけてきた。

 全く悪びれておらず、その顔には小学生男子のような笑みさえ浮かんでいる。


「なにか、御用ですか?」

「うん。藍里ちゃんからは、まだ聞いてなかったからね。新しい店でも働いてくれるかどうか」

「ああ……そのことでしたら、とてもラーメン屋の店員が務まるとは思えませんので」

「え、そうなのかい!?」


 藍里の答えが意外だったらしく、西尾が大層驚いてみせた。

 逆に、何故藍里が残ってくれると思っていたのか、問い質したい気分だ。


「お母さん、亡くなったばかりでしょう? それで無職は辛いんじゃないの?」

「お気遣いありがとうございます。でも、なんとかしますので」


 「貴方が元凶でしょう」という言葉を飲み込んで、藍里が毅然と答える。

 どうやら、西尾は藍里のことを引き留めたいようだ。だが、このいい加減な大人にこれ以上振り回されるのはごめんだった。

 ――しかし、それに対する西尾の言葉は、藍里の予想の斜め上をいっていた。


「まあまあ、そんなに苦労させないからさ。藍里ちゃんが相手なら、俺、衣食住の面倒だって見ちゃうよ」

「……えっ?」


 気付けば、西尾の脂ぎった顔がすぐ近くにあった。

 気のせいか息が荒く、しかも生臭い。


「悪いようには、しないからさぁ」


 そのまま、西尾の手で背中をそっと撫でられる。

 ――あまりの気持ち悪さに、藍里の全身に鳥肌が立った。

 西尾は妻子持ちだ。年齢だって藍里の母親とそう変わらない。

 そんな男が、親子ほども歳の離れた藍里に「愛人になれ」と迫っているのだ。

 正気の沙汰とは思えなかった。


「し、失礼します!」


 何とかそれだけを叫んで、一目散に逃げ出す。

 背後から「照れなくてもいいの」等というおぞましい呟きが聞こえてきた気がしたが、無視した。

 

 そのまま、どこをどう歩いたのか。気付けば藍里は、自宅アパートに舞い戻り、頭から布団を被ってガタガタと震えていた。

 ――気持ち悪い。心底気持ち悪かった。

 そして、はたと気付く。西尾は、藍里の自宅住所を知っている。あの様子では、早晩ストーカーじみた行動を起こすかもしれない。


「どうしよう、お母さん。気持ち悪いよ……助けてよ……」


 ボロボロと涙をこぼしながら呟くが、母は既に物言わぬ骨になっている。藍里を守ってくれた母は、もういないのだ。


「うっ、ううう……」


 藍里の口から嗚咽が漏れる。「自分は何か悪いことをしただろうか?」と。

 「母や父が、一体何の罪を犯したのか?」と。

 もし神様という存在がいるのならば、それはなんて残酷なのだろうか、と。


「……神様、か」


 不意に、智里の言葉を思い出す。


『藍里ちゃんにも戻ってきてもらいたいのよ。葛葉家の故郷、「葛葉村」に。――神様も、貴女のことをお待ちしていますよ』


 どちらにせよ、このまま今の家に住み続ける気持ちは、最早失せていた。

 藍里は愛用の格安スマホを取り出すと、教えてもらったばかりの番号に電話を掛けた。

 ――電話はすぐに繋がった。


『もしもし、藍里ちゃん? こんな夜中に、どうしたのかしら』

「夜分遅くにすみません、智里おばあちゃん。実は――」


   ***


 その翌日。藍里は勤め先に姿を現さなかった。無断欠勤だった。

 心配した同僚達が電話をかけても通じず、誰かが「様子を見に行こう」とも言い出した。

 藍里はまだ十九歳の若さで、唯一の肉親である母親を失ったばかりだ。そこに職場消滅のショックが加わって、おかしなことを考えていないとも限らなかった。

 だが、しかし――。


「皆は通常通りの営業を。藍里ちゃんの様子は、俺が見に行くよ」


 よりにもよって、藍里の様子を見に行く役目に立候補したのは、西尾だった。

 他の従業員は、西尾が藍里に迫った事実を知らない。西尾を止める理由など無かった。


(藍里ちゃん、具合が悪くて倒れてたりして。もしそうだったら、介抱してあげなきゃね)


 おぞましいことに、西尾は自分が藍里に嫌われていることに、微塵も気付いていなかった。

 この男の特殊な脳みそは、全てを自分の都合よく解釈してしまうらしい。むしろ、あわよくば藍里の家に上がりこんで、「濃厚な介抱」が出来るかもしれない等という、気持ちの悪い期待さえしていた。

 だが、愛用のベントレーを飛ばして藍里のアパートに辿り着いた西尾が見たのは、予想外の光景だった。


「あれ……引っ越し業者のトラック? しかもあの部屋、藍里ちゃん家じゃ」


 ――そう。藍里の自宅であるはずの部屋に、むくつけき男達が出入りし、テンポよく荷物を運び出していたのだ。

 慌てた西尾が引っ越し業者の男達を押しのけるように部屋に踏み入ると、そこはもう、殆ど空っぽになっていた。


「ちょ、ちょっと! この部屋に住んでた子は!?」

「申し訳ねえですが、個人情報なんで答えられないんですわ」


 居合わせた引っ越し業者に食って掛かる西尾。

 だが、業者の男は落ち着いたもので、西尾には全く取り合おうとはしなかった。


「お、俺はここに住んでた子の雇い主なんだ! 彼女が無断欠勤したから、心配して見に来たんだよ! なあ、教えてくれよ! 彼女はどこへ行ったんだ?」

「……おじさんさあ、あんまりしつこいと警察呼ぶよ?」

「なっ」


 絶句する西尾。

 気付けば、彼の周りには筋骨隆々とした引っ越し業者の男達が集まりつつあった。

 スマホを片手に通報の準備をしている者さえいる。

 

 西尾はそのまま、すごすごと逃げ帰るしかなかった。


   ***


 その前の晩。智里に電話した藍里は、我が身に起こった全てを話した。

 一度断っておいて虫が良過ぎるかもしれないが、葛葉村に移住したい、とも。

 智里は余計な言葉を挟まずに辛抱強く話を聞いてくれて、それを快諾してくれた。

 それどころか――。


『ストーカー対策もしないとね! 全部、私に任せてちょうだい!』


 そんな力強い言葉までくれたのだ。


 そして藍里は、その日の内にアパートから智里が逗留している宿に移動した。

 翌日以降は、あれよあれよという間に移住の準備や諸々の手続きが進んでいった。

 引越し業者の手配、藍里の離職を代行してくれる弁護士への依頼、まだ手をつけていない相続やら行政への届出やらの手続き等など。その全てを、智里が手配してくれた。


 流石に藍里も、そこまで甘える訳にはいかないと言ったのだが、智里曰く

「愛華の世話を焼けなかった分、ここで焼かせてちょうだい」

だそうで、藍里は最後まで厚意に甘えることにした――。


 それから数日後。

 西尾のもとに、弁護士から藍里の退職届や、その他諸々の書類が送り付けられてきたという。

 こうして藍里は、都内から完全に姿を消した。

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