座敷わらし様の花嫁

澤田慎梧

第一話「一人ぼっちになりました」


 藍里あいりは夢を見ていた。子どもの頃から時々見る、古い記憶の断片らしい夢だ。

 夢の中の藍里は、どこか古い家の中で迷子になっていた。

 お母さんを呼んでも返事がない。おじいちゃんもおばあちゃんも同じだった。

 小さな小さな足で、ギシギシと鳴く廊下彷徨って彷徨って。そうしていつも、同じ場所に辿り着く。


 そこは、古びた本棚が所狭しと立ち並ぶ書庫だった。

 古い本特有の匂いが鼻をつく。迷子になっていることも忘れて、藍里が本棚の群れを興味深く見上げていると――。


「おい、娘」


 突然、知らない男の人の声で呼び止められた。

 藍里は、びっくりしながら声のした方を見やり、息を呑んだ。

 そこにいたのは、安楽椅子に腰かけながら文庫本に目を落とす和装の青年だった。

 黒い髪は無造作に伸ばされ、眼光は鋭く神経質そう。顔も、やせ過ぎなのかどこか骨ばっている。けれども、藍里はその青年のことを何故か「美しい」と感じた。

 傍のサイドテーブルに置かれた読書灯の明かりが、まるで後光のように青年を照らし出していたからかもしれない。


「ここには、見ての通り古い本しか置いていない。お前が読むような絵本などはないぞ。疾く、母のもとへ戻るがいい」

「おかあさん、いないの。よんでも、きてくれないの」

「なにぃ? ……ふむ、連れ合いを亡くしたばかりとはいえ、娘を放置してなにをやっているのだ、彼奴は」


 青年が苛立たしげに立ち上がり、藍里へと歩み寄る。

 そして――。


「仕方あるまい。絵本の代わりにはなるまいが……夏目漱石でも読み聞かせてやろう」


 そんなことをぼやきながら、青年は藍里の小さな小さな頭をポンポンと撫でてくれた。

 その手はとても温かくて優しくて。だから、藍里は――。


   ***


 ――目が覚めると、見慣れた安アパートの薄汚れた天井が見えた。どうやら、うたた寝をしていたらしい。少しだけ肌寒い。

 使い古された畳からムクリと起き上がると、藍里の目に見たくもない物の姿が飛び込んできた。

 骨壺が――正確には、桐箱に収められ骨覆こつおおいが被せてあるので骨壺そのものではないのだが――お茶の間のちゃぶ台の上に鎮座していた。

 すっかり小さくなってしまった藍里の母親が収められたものだ。


 母が交通事故に遭い帰らぬ人となったのは、たった数日前のこと。その日は朝から不思議な胸騒ぎがして、仕事でもミスを連発して――その最中に病院から連絡があり、母の死を告げられた。

 あまりにも突然で、その死を受け止められぬまま、諸々の手続きや葬儀の支度に追われ、気が付けば全てが終わっていた。

 母の職場の同僚数人と、同じアパートに住む何人かの老人だけが参列した葬儀は、うら寂しいものだった。友達らしい友達もいない母の人生を、そのまま映し出したかのような、そんな葬儀だったことをぼんやりと覚えている。


「お母さん、本当に死んじゃったんだね」


 ひとり呟いてみるが、返事はない。

 父は、藍里が五歳の頃に病魔に倒れ、既にこの世を去っている。

 頼れる親戚もいない。両親の故郷があるはずなのだが、母は殆ど里帰りをせず、年賀状も出さない人だった。そのせいで、住所すらろくに知らない。

 菩提寺の場所さえ分からないので、母の遺骨をどこに埋葬すればいいのかさえ、分からない。

 途方に暮れるとは、まさにこういった時のことを言うのだろう。


 壁にかけた時計を見ると、既に夜の七時を回っていた。

 よれよれの喪服の下で、お腹がキュウっと鳴る。そう言えば、朝から何も食べていない。

 食欲などないが、ここで倒れる訳にもいかない。そう思い、藍里がなけなしの力を振り絞って立ち上がった、その時。


 ――ピンポーン。


 年代物の玄関ベルの音が、空虚な室内に響き渡った。

 宅配便が来る覚えはない。大方、葬儀に参列し損ねた近所の誰かだろう。

 そんな軽い気持ちで玄関に向かい、ドアを開ける。すると――。


「あらあらまあまあ、藍里ちゃんかい? 大きくなって」


 なれなれしく藍里の名を呼んだのは、見知らぬ老婆だった。

 年の頃は七十か八十か。やけに小柄な体の上に、柔和そうな皺くちゃの顔が乗っている。

 きっちりと黒紋付に身を包んでいるところを見るに、やはり弔問に訪れた人らしい。


「……この度は、故人の為にお運び頂き、ありがとうございます。母もさぞ、喜んでいると思います。よろしければ、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 数えるほどしか使わなかった定型句を口にしながら、藍里が深々と頭を下げる。

 その姿を痛ましそうに眺めながら、老婆が口を開いた。


「藍里ちゃん、ほら、覚えていないかしら? 葛葉くずのはの大叔母ちゃんよ? 貴女のおばあちゃんの、妹の」

「……はい?」


 老婆の言葉に、藍里の思考が一瞬だけ停止する。

 今この人は、自分のことを「大叔母」と言ったか? 「おばあちゃんの妹」と。

 祖父母の顔と名前さえも怪しいのに、そんな遠い親戚のことを覚えているはずもない。「さて、どうしたものか」と、藍里は心の中で首を傾げ――先程見ていた夢を思い出した。


 どことも知れぬ古い家の中を、藍里は彷徨っていた。

 ギシギシと鳴く古い廊下を、延々と。

 あれは……あれは、祖父母の住んでいた、母の実家ではなかっただろうか?

 そしてそこには、祖父母以外にも誰かが住んでいたはずで。


「……あっ。智里ちさとおばあちゃん?」

「そう! そうよ、智里よ! まあまあ、よく思い出してくれたわ、藍里ちゃん」


 老婆――智里が皺くちゃな顔を更に皴だらけにしながら、藍里に縋り付いてくる。

 その体をぎこちなく受け止めながら、藍里はようやくはっきりと思い出していた。

 この老婆は、葛葉智里。幼い頃に二度だけ会ったことのある、大叔母に違いなかった。


   ***


 1Kの安アパートに、線香の薫りと涼やかなお鈴の音が広がっていく。


「まさか、可愛い姪っ子を送ることになるとはねぇ。愛華まなか……」


 智里が、遺影の中で笑う藍里の母を想い、一筋の涙をこぼした。

 母の愛華は、まだ四十四歳だった。三十そこそこで亡くなった父ほどではないが、あまりにも早すぎる死だ。


「藍里ちゃんは、二十歳になったくらいかしら?」

「来年には。まだ、十九歳になったばかりです」

「まあまあ。大変だったでしょう? ごめんなさいね、すぐにでも駆けつけたかったのだけれど、愛華の訃報を知ったのも今朝のことで」

「いいえ。親類にお知らせも出来ず、こちらこそ申し訳ありません。……母が、郷里への連絡先を遺してくれていなかったもので」

「ええ、ええ。分かっているわ。愛華は、昔からそういう子だったから」

「……写真を残すのも嫌いで、年賀状も送らない?」

「そうそう」


 智里と二人で、思わず苦笑する。

 愛華の死を受け止め切れない者同士、傷をなめ合うようなじゃれ合いだった。


「それでね、藍里ちゃん。お葬式が終わったばかりでこんな話をするのもなんなのだけれど、お骨はどちらに納める予定なの?」

「まだ決まっていません。葬儀社さんに探してもらおうかと思ってますが」

「もしよければ、葛葉の墓所に納めませんか? ここからは大分遠いけど、貴女のお父さんも眠っているお墓なの」

「いいんですか?」

「もちろん。愛華は、世が世なら葛葉の跡継ぎ娘ですから。是非、そうして欲しいわ。……それとね」


 智里はそこで、少しだけ口ごもってから、言葉を続けた。


「出来れば、藍里ちゃんにも戻ってきてもらいたいのよ。葛葉家の故郷、『葛葉村』に。――も、貴女のことをお待ちしていますよ」

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