第11話 駅伝

   1


 十二月、第四日曜日。

 その日は高校陸上の大晦日にあたる。去年もその前の年もそうだった。おれたちが三年になる再来年もそうに違いない。そこから約二ヶ月前。十一月最初の日曜日。その日は高校駅伝の神奈川県大会と決まっている。去年もその前の年もそうだった。おそらく再来年もそうなるはずだ。

 高校の陸上部で長距離を専門にすること。それは最終的に駅伝を目指すことと同義だ。入学前には考えもしなかった。でも、いまは理解している。駅伝に興味があろうとなかろうと、高校最後の公式戦は駅伝だ。もし、メンバーから漏れることでもあれば、生涯の汚点だ。中垣(アホ)への敗北感は墓まで追いかけてくる。

「いよいよ明日だな」

 昨日の帰り道で、斉藤はおれよりも高ぶっているようだった。中学最後の駅伝をすっぽかした男とは思えない。

「楽しそうだな」

「そりゃ、走れればもっとよかったさ。お前はいいよなぁ」

「そうか?」

「なんだよ、そのやる気のない態度。藤井が聞いたら怒るぜ。和泉先輩なら殴られてる」

 やる気がないわけではない。ただ、あのコースに対する不安を払拭できない。襷を受ける順番や、周りにいる選手の顔ぶれもパフォーマンスに影響する。駅伝の魅力には違いないが、走る側には厳しい要素だ。三キロをたった一人でタイムトライアルする可能性だってある。運がよくてもせいぜい前後に二人か三人。その相手が力量互角とは限らない。むしろ拮抗しているほうが希だ。三キロ先では別の選手と競っていてもおかしくない。短い距離で襷をやりとりする中学駅伝とは根本的に別種。果たしてうまくやれるかどうか―。

 そこまで考えて、ちっ―、と思う。人並みに緊張している。腹の底にプレッシャーが淀んでいた。




   2


 朝の天気予報は西からの崩れを予想していた。午後は雨。空はその可能性を示唆する濃い鉛色に包まれていた。丹沢湖の周辺は普段でも雨の多い地域らしい。

 集合は十時。スタートは十二時二十分。幸いにも雨はまだ落ちてこない。それでも遠く西から流れてくる雲はこの空で渋滞し、その厚みを増してゆく。遅かれ早かれ降りだしそうな雲行きだ。

 スタートまで二時間。五区のスタートはそれよりさらに一時間以上先だ。

 駅伝。

 日本固有の種目。長距離種目のなかで唯一の団体競技。しかし、突き詰めれば、駅伝も個人競技の塊でしかない。一度襷を受ければ、つなぐまでの責任は一人で負わなければならない。区間ごとにスタート地点はバラバラ。スタート時間もバラバラ。スタートまでの調整も一人。

「スタートだ」

 付き添いの井上(バクダン)が腕時計を見て、つぶやくように言った。言われるまでおれは時間の感覚をすっかりなくしていた。普段なら必要なことも言わないような奴だ。その口を開かせるくらいおれはぼんやりしていたのかもしれない。

 そろそろアップを始めなければならない。

 井上を残して、おれはひとりでウォーミングアップを始めた。部で新調したばかりの緑色のヤッケが、歩を進めるたびにシャカシャカとリズミカルな音を出す。おれは緩い坂道をゆっくり上がっていった。周りには同じような奴が何人もいた。すべて五区の選手。その中に水色のヤッケを見つけた。大根高校の松田。下の名前は知らない。同じ一年。藤井が大根(ダイコン)のサンタと呼んでいるメンバーの一人だ。内田、高田、そして松田。いずれも名字に田のつく三人で、藤井が三田(サンタ)と呼ぶ大根高一年のトップ・スリー。三人とも今回のメンバーに入っている。リーダー格の内田が四区。高田はアンカー。うちのように層の薄い陸上部と違い、大根の陸上部といえば、長距離だけでも部員数四十を数える大所帯だ。その中でメンバーに入ってくるのだから遅いわけがない。同じ一年でもおれたちとは月とすっぽん。ランクの違うエリートだ。トラック競技なら片手でひねり倒される。ただし、駅伝なら両手を使わせるくらいの可能性はある。不確定要素。それが醍醐味なのかもしれない。

 ダムに流れ込む川沿いの道を上流に向かって走っていると、やがてコースが騒がしくなってきた。一区の選手が通過しているのだろう。この場所はもう一度三区の選手が通り過ぎる。五区に襷が渡るのは三度目の時だ。

 応援には出なかった。どのみち、順位は変わる。経過に一喜一憂している余裕はない。

 空は朝よりもさらに暗くなってきた。重たい鉛色が鉄色に変わりつつある。いますぐ降り出してもおかしくない。

 集中しなければならない。




   3


 一区のスタート地点に立って、興田司はこれが最後と決意を刻み込んだ。やるべきことはやった。あとは悔いを残さず走りきるだけ。

 通りいっぱいに選手がひしめくように並ぶ。興田はその二列目にいた。

 全部で何校だったか―。

 ふと考えた。この瞬間までそんなことは考えもしなかった。たとえ百人が走ろうと、駆け引きの相手はほんの一部。興田が相手と見ている選手は十人ほどだった。そのうちの四人は全国レベル。実際に全国に行った奴がひとり。残りの三人も関東大会の決勝で真ん中より前だった。よほどのアクシデントがない限り、この四人は頭ひとつ抜けている。当面の相手はその少し下の五人くらいになる。先生の想定もそのあたりだろうと興田は踏んでいた。その連中と好勝負に持ち込めれば、関東大会はぐっと近づいてくる。

 スタートまで三十秒を切って、空気に混じる緊張感の密度が秒刻みで濃くなってゆく。路上に立つ選手たちの緊張が伝播するように、沿道のざわつきが引いていった。

「位置について」

 静寂のなかにスターターの声がりんと響く。

 パン―。

 寒空に雷管の音が響いた。その反響はシューズの音と歓声にかき消された。

 スタートは最初のポイント。うまくスタートを切ってポジションを決め、流れに乗る。一連の作業をスムーズにこなせれば、最初の関門はクリアする。

 スタート後、興田はすぐに自分のポジションを固めた。狙ったとおり、大根高校のエース羽根沢の後ろにつけた。抜けている四人のうちの一人。全国大会には足りなかったが、力的には全国レベル。

 スタート直後はポジション争いになる。コース幅は狭い。どうしたってペースは乱れる。その点で、羽根沢は安心できる。位置を確保すれば、あとはバリアを張ったように自分の走りに徹する。それが中学時代から知る羽根沢の持ち味だった。同じ中学出身。これまで何度も同じレースで競ってきた。

 中学時代は勝ったり負けたりの関係だった。だが、高校以降はほとんど歯が立たなくなった。一年の新人戦以降は一度も勝っていない。一緒に走れば常に背中を見続け、別の組で走っても時計で大きく水をあけられた。

 関東大会があるとは思っていない。これが最後のレース。

 理想は勝って、勝ち逃げ―。

 その背中を睨みながら、興田は腹をくくっていた。もはやトラックではかなわない。だが、十キロのロードならどうか。電波塔を上り続けた練習がきっと生きると信じていた。

 裏のコースをしのいで最後のアップダウンまでもつれれば、いい勝負に持ち込める。逆にペースに飲まれたら、後半はガタガタになる。その時は果たして何位で襷を渡せるか―。

 どうレースを組み立てるか。考えは今朝になってもまとまらなかった。安全策でいけば、おそらく十番手前後。もっと後ろかもしれない。全体を考えれば、一区で無理はできない。つなぐ相手が一年生ならなおさらだ。

「いいじゃねぇか。好きにやれば」と原田は言った。

 スタートの一時間前だった。原田と軽くコースを走りながら、何気なく迷いが口をついた。裏腹に原田はなんの迷いもなく言い切った。

「先生からはなにも言われてないんだ?」

「まぁ、そうだな」

「おれが一区なら好きにやるぜ」

「オーバーペースでボロボロになるかもしれない」

「尻拭いはしてやるよ。駅伝だからな」

 その一言で気持ちは大きく舵を切った。

 まさか、原田とこんな話をするとはな―、と興田は思った。

 二年半前、入学当初は興田たちの学年にも十一人の長距離部員がいた。その中でほとんど会話のない唯一の存在が原田だった。きっかけは些細なことだった。キャンディーズ・ファンの興田を原田がバカにしたのだ。原田はピンク・レディーのファンだった。それ以来、お互いに目も合わせない険悪な雰囲気になった。ちょうどいまの中垣と大村のような感じだ。もっと酷かったかもしれない。

 ところが、最初の中間テストまでに六人がやめた。さらに夏休みを前に二人がやめた。夏休み中に一人が来なくなって、長距離の一年は興田と原田の二人きりになった。意地を張っている状況ではなくなった。もし半分でも残っていたら、ここまで原田と親しくはならなかっただろう。興田はそう思っていた。

 体調はすこぶるいい。

 見知らぬ柄のランニングを着た選手がひとり飛ばして、後続を三十メートルほどちぎっている。その後ろに形成された十五人くらいの一塊が、事実上の先頭グループだった。しかしこれでもまだ速い。おそらく十五分台半ばのペース。いま、興田はそのど真ん中にいた。

 興田はこの秋になってようやく五千の記録を十五分台に入れた。十五分四十八秒。自己記録を二十秒以上更新した。あと一年早く出せていればな、と興田は思う。あるいは陸上を続ける気になっていたかもしれない。

 東端の玄倉川橋を渡ると道幅は一気に狭まる。いまの隊列は維持できない。その手前で必ず動きがある。興田はそのタイミングに神経を集中していた。

 五区の中継ポイントが近づく。

 にわかに沿道の応援が増えてきたと思ったら、中継所に向かってまっすぐ滑り落ちる下り坂にさしかかった。

 ほぼ同時に、三人の選手がペースを上げた。それにつられて、五人くらいが追随する。隊列はぐいっと縦に伸びた。

 一瞬、興田は迷った。このタイミングでペースが上がるのか―、と思う。仕掛けたのは三澤、横浜学院、七里ヶ浜の三校。いずれも力量上位。上がったペースを維持できる三校。

 しかし、羽根沢は動かなかった。調子が悪い可能性―。ないとはいい切れない。もしここで離されれば、上位の目は消える。

 行くか―!

 興田は羽根沢の背中から抜け出した。

 前にいるのは十人くらい。山城と上溝学園の背中が見える。昨年の二位と五位。最初に仕掛けた三校に大根を加えた六校は昨年の関東大会出場校だった。

 羽根沢を抜く刹那、興田は目の端に羽根沢の横顔を見た。その顔がわずかに笑ったように思えた。

 そんなはずはない。錯覚だと思ったが、すでに羽根沢の姿は興田の背中にあった。行くしかなかった。沿道から井上の声を聞きながら、興田は玄倉川橋に突き進んでいった。




   4


 二区のスタート地点では、斉藤明が中垣のアップにつきあっていた。正確にはつきあわされた。選手に言われたら拒めない。

「前から訊こうと思ってたんだけどよぉ」

 湖の西へ向かう長いトンネルを走りながら、中垣が話しかけてきた。薄暗がりのうえに、妙な圧迫感が重なって、中垣の声は滑稽なくらいリアル感を失っていた。

「お前、なんで領南にきたんだ?」

 斉藤は面食らって中垣をみた。

 今更か―。

 中垣の顔は暗がりのなかで輪郭すらぼやけている。

「だって、お前最初は軽音だろ? 言っちゃなんだが、そんな部があることすら知らなかったぜ。たぶん北澤も―。ま、あいつはバスケ部があることだって知らねぇだろうけどよぉ」

「そりゃ、そうだろ」

 斉藤はため息混じりに肯定した。

 おれだって知らなかった―、と斉藤は思った。うちの軽音にはおれよりギターのうまい奴すらいない。

「おれだって最初は陸上やるつもりだったんだよ」

「じゃ、どうしてだ?」

「……ま、いろいろ」

 駅伝メンバーから外されて挫折した―、とは言えない。

「お前もバカだな。あんなのとつるんでるからクソったれがうつったんじゃねぇか?」

 いかにも中垣らしい。

 斉藤は特に腹立たしいとは思わなかった。むしろ、大村と中垣が同じような印象で相手を見ているのがおかしかった。

「なんだよ」

 どうやら薄闇のなかで笑っているのを感じ取ったらしい。

「昨日の帰り、あいつからもお前の付き添いでアホをうつされないように気をつけろって言われたんだよ」

「ふーざけんなよ! あんの野郎……」

 その声だけで腹のなかまで見通せる。

 なんでこうも仲が悪いかね、と斉藤は思う。卒業するまでぶつかり続けるのだろうか。

 言わなきゃよかった―。

 斉藤は後悔とともに小さなため息をついた。




   5


 厳しい展開になっていた。

 細い裏道を乗り切って、中川橋を通って再びバス通りに戻ってきたとき、順位は十八番手まで落ちていた。その経過を興田は途中にいる応援の声で知った。橋を渡ってからの下り坂でさらにもう一つ順位を下げる。抜いていった選手は見慣れない色のユニフォームを身につけていた。知らない学校の知らない選手。羽根沢の姿はもうはるか先だった。長いコースの先にかろうじて水色の背中が見える。周りには見慣れたランニングの塊。先頭に迫っている。

 いったん抜いた羽根沢に抜き返されたのは、裏の道を二キロくらい行ったあとだった。後ろにずっと聞こえていた靴音が、ギヤチェンジするのがわかった。カーブの外側からふっと水色のランニングが視界に入ってきたかと思うと、軽い息づかいで興田をパスしていった。興田はもう一度その後ろに張り付こうとしたが、その背中はカーブのたびにどんどん離れていった。

 スピードが落ちている。その時までそれを自覚できていなかった。

 オーバーペース―。

 羽根沢との差をはっきり思い知らされた。

 羽根沢は後半に余力を残していた。普通は集団から離されることを恐れる。だが、羽根沢は気にしていなかった。戦いの相手はおそらく時計。区間賞を三十一分そこそこのラインとすれば、やはり前半のペースは速すぎた。羽根沢がペースを上げたのではなく、前がバテた。そしてここにもバテた男がいる。十五分台を出してやれる気になっていた自分が情けなく思えてくる。それでも脚は止められない。一秒でも早く前に進まなければならない。




   6


 歓声のなかを三人の選手が熾烈な争いをしながら中継所に飛び込んできた。三澤、大根、山城の順で襷が二区に渡った。

 七里ヶ浜、横浜学院、上溝学園といった昨年の上位校に続いて、相模、瀬田、三崎といった伏兵校も続々と襷を渡してゆく。

「遅い!」と中垣はしびれを切らしていた。

 能力的には十番手以内で持ってきても驚かない。

 ブレーキだ。間違いない。中垣は断定した。

 すでにジャージを脱いで、いつでもスタートを切れる準備は整っている。

「次、領南!」

 二十一番目の襷が受け渡しされたところで、ようやく審判員から名前を呼ばれた。

「よし!」と中垣は寒風にさらされた腿を叩いた。体は少し冷えていたが、校名を呼ばれて気合いが入った。

「五人は抜けよ」とコースの端から斉藤の声がする。

「十人抜く!」

 そう言って、コースに引かれた消石灰の白い線の前に立った。後ろを振り返ると、苦しげにアゴを上げて走ってくる先輩の姿が見えた。すでに三分近くが経過している。先頭はとっくにトンネルの向こう側にいる計算だ。

 中垣は両手を振り上げながらジャンプした。

「先輩! ラストラスト!」

 その脇で三校の襷が渡った。

「済まねぇ!」

 崩れるように飛び込できた興田は、そう言って中垣に襷をつないだ。

「引き受けた!」

 言うやいなや、中垣は襷を首に掛けていた。

 すぐ先に三人の背中が見える。

 距離はわずか三キロ。

 瞬殺だ―!

 中垣はいきなりトップスピードに乗って、五百メートルの隧道に突っ込んだ。

 はるか遠くに光の出口が見える。

 前の三人も競り合っている分だけペースは速い。二十メートルあまりの差を追いつくのにトンネルの半分くらいを使った。

 一瞬だけ靴音が四つになってトンネル内に反響した。

 一気に前へ出た。

 徐々に、そして確実に背後の靴音が遠ざかってゆく。

 まず、三つ。

 再び光のなかに飛び出した。左手前方に世附大橋が見える。緩い下り坂でさらにスピードを乗せる。

 今日はいつにも増して調子がいい。脚が軽い。前の奴らを抜くのが楽しい。

 二区にはアップダウンがほとんどない。こういうコースは大好きだぜ―、とばかりに中垣はコース西側の世附大橋に向かってカーブを切った。

 いた―。

 二百メートルほどの橋のなかに次のターゲットが四人いた。さらに橋の向こう、目視できる範囲内に三人。

 アドレナリンが沸き立つように全身を駆けめぐってゆく。

 区間賞取ってやる―。

 あのくそったれに力の差をはっきり見せつける。コースこそ違えど、距離はほぼ同じ。時計と抜いた数でこてんぱんにやっつける。

 中垣は自信に満ちた足取りで、白と赤とピンクと橙、四つの背中をにらみつけるように追いかけていった。




   7


 三区の中継所では和泉雅章がスタートを待っていた。

 二区の中継所で二十五番目。想定より十校くらい後ろ。トランシーバーでやりとりする審判員の声ではタイム差まではわからない。ただ、スタートダッシュに失敗したのは明らかだった。必然、レースの組み立ても変わってくる。

「ふう」

 和泉は大きく深呼吸した。緊張で呼吸が乱れないように努める。

 相手が中位校レベルなら中垣の力で十分足りる。トップとのタイム差は関係ない。中垣の場合は周りに競う相手がいるかどうかだろう、と和泉は考えていた。

 対抗意識の強さは北澤以上かもしれない。あるいは自分さえしのぐか―。そのあたりは火付きの悪い大村とは対照的だった。

 あいつは負けじ魂の塊ですからね―。

 ことあるごとに北澤が言う言葉も陳腐にきこえるほどだ。三日も一緒に走れば誰でもわかる。

 十五位から二十位のあいだってところか―。

「先頭、三澤!」と準備を促す審判員の声が冷たい空気を震わせた。

「もう来たよ」

 半ばあきれた口調で長倉が言う。

「タイム計ってくれ」

「わかった」と長倉はデジタル式の腕時計を外して手に持った。その脇で、和泉は着込んでいたヤッケとジャージを脱いだ。

「早くないか? 二十五位だぞ」

「あいつなら五人は抜いてくる」

 あるいは十人―。

 その時、歓声があがった。先頭の三澤高校ははやくも独走態勢を築きつつある。後続を大きく離して襷をつないだ。

 京都を走るにはこいつらに勝たなければならない。少なくとも。 楽じゃない―。

 和泉はうつむきそうになる顔を持ち上げた。通り過ぎてゆく三澤高校の選手を睨みつけるように見送った。杉岡俊一。同じ二年。来年は一区で直接対決する相手。

 負けるかよ―。

 その時、和泉は一年後に向かってはっきり誓いを立てた。

 二番手以降はすでに二十秒以上の遅れをとっていた。大根、山城、七里ヶ浜、横浜学院、上溝学園と、常連の上位校が続々と襷をつないでゆく。

「三澤から上溝まで一分半くらいだ」

「見えないな」

 コースの先を睨みながら、和泉は冷静につぶやいた。

 少し買い被りすぎたか―。

 和泉は視界に入っている選手の数を数えた。脇で次々と襷を受け渡してゆく姿を黙殺し、最初に視界に入ってくるカーブの出口を凝視していた。

「きた」

 十八番目。そのすぐ前に二人いる。

「江田工、鎌倉山、領南!」

「上出来だ」

 中垣なら襷をつなぐまでに十六位に上がる。

「トップとは三分ちょっと。六位とは二分弱」

「OK!」

 和泉は気合いを入れてコースに出た。

 ラストスパートはわずかながら下りになっている。中垣がやにわに襷を外すや、前の二人を抜いてくる。

 あいつは短距離でもそこそこやれそうだな―、と和泉は中垣のスピードに改めて感心した。

「お願いします!」

「よくやった!」

 襷を受け取って走り出すも、前の選手ははるか先にいる。

 左に湖、右側には五門の放水口が続く。その先を土と岩とコンクリートで固めたダムの壁が傾斜のきついスロープを作っている。そのあいだを見通しのいい一本道が湾曲しながらバス通りまで伸びている。長さは約三百メートル。そこに上位校の姿はない。視界に見える選手は三人だった。

 スタートするやいなや、中垣が抜いてきた江田工と鎌倉山に抜き返された。これで十八位。六位との差は二分。

 駅伝の怖さ―。

 タイム差のハンデを背負ってスタートする長距離戦。体は完全にフレッシュ。視界には自分より遅い選手。容易に抜ける。しかしその裏にはオーバーペースのリスクが潜んでいる。一度オーバーペースの流れに乗ってしまったら、八キロを最高の状態で乗り切るのは難しくなる。スタート直後はじっくり構える。衝動を抑える。和泉は前をゆく二人を意識の外に追いやった。

 どのみち、すでに関東大会はほぼ絶望的だった。ここからどう巻き返したところで、六位以内に食い込む可能性はほとんどない。ここは個人に徹する。多少のリスクを負ってでも区間賞を狙いにいく。吉と出れば結果としてチームにはプラス。たとえ崩れても言い訳が通用する展開だった。和泉はこの状況を最大限に利用しようと考えた。

 バス通りに飛び出した。

 とたんに沿道を埋める応援の数が増える。気にはならない。自分のペースをキープ。湖に沿ってひたすら東の端を目指す。

 すでに前との差は詰まり始めていた。速い奴の顔と名前は頭に入っている。鎌倉山も江田工も知らない選手だった。自分のほうが速い。普通に走れば抜ける相手だった。

 カギは後半。道幅が狭まり、連続するコーナーでスピードを乗せにくくなる。和泉は沿道の観衆が減ってくる一キロ過ぎあたりから徐々にペースを上げはじめた。呼吸に乱れはない。昂ぶりもない。まっすぐコースの先を見据え、前へ前へと脚を推進させてゆく。

 捉えた―。

 いったんは五十メートルまで広がった差が、目に見えて縮まってゆく。相対的にその先にいる選手との差も詰まっている。前五人は射程圏。それでも高揚感はない。

 その背をはっきり捉えてからもペースは崩さない。じりじりとその差を詰めてゆく。

 玄倉川橋の手前、三百メートルの下り坂にさしかかる。ここでようやく鎌倉山と江田工の背中をつかまえた。相手が競り合っていた分、想定よりも手間取った。和泉はそのふたつの背中をあっという間に視界から引きはがした。前に出て、その先に見える玄倉川橋と、さらにその対岸に続く道の先を見た。橋に二人、その先にもちらちらと選手の姿が見え隠れしている。

「四十五秒先に三崎! 五十五秒先に十二位桜ヶ丘! 六位の大根まで二分!」

 歓声に混じって井上の声がきこえた。和泉は声のした背中に向かって右手の親指を立てて合図を送った。

 あいつはわかってるな―、と和泉は思った。必要な情報を的確に伝えられる奴はそう多くない。いまの一年でできるのは、井上と北澤くらいだろう。

 橋にいる選手はもはや問題ではない。三崎と桜ヶ丘は橋の先にいる。

 おそらく井上はそこまでを相手と考えている―。

 普通なら残り五キロで一分近くを詰められるとは思わない。井上がおれを買い被るとも思えない。三崎と桜ヶ丘はおそらくバテている。

 六位の大根も突っとっている。栗原保(たもつ)。いわゆるブレーキ。中継時点で大根土の差は二分半以上あった。順位を四つ落として二分の差。明らかに本来の出来を欠いている。もし転んだりしたアクシデントが原因なら、さらに順位を落とすかもしれない。

「お前んとこの大将、突っとったんじゃないか?」

 アップを終えて柔軟体操をしている横で、ふいに声がしたと思ったら栗原だった。

「うるさい」

 和泉は一言で返した。栗原は小さく首をすくめて見せた。

 栗原は三澤の杉岡同様、すでに中学時代から県内で知られた存在だった。栗原が和泉を知っているのは、領南と大根が去年合同練習をした関係からだろう。和泉はそう思っていた。知名度から言えば、和泉はほぼ無名に近い。それは和泉自身も理解していた。

「そっちはうまくつないだな」

「羽根沢先輩なら区間賞とってもおかしくなかった」

「足を引っ張らないように走れよ」

「そうするよ」

 和泉の嫌みを軽く受け流して栗原は離れていった。

 食えねぇ野郎だ―。

 その栗原が遅れている。まさかそこまで追いつけるとは思えないが―。

 残り約五キロ―。

 ともかくまず三崎。そして桜ヶ丘まではつかまえる。

 あの野郎、おれを試してやがる―。

 ふと和泉はそこに思い至った。

 覚悟はできた。井上の挑発をやり遂げる。

 和泉は新たな気持ちをもって、湖畔の裏コースへ飛び込んだ。




   8


 四区のスタートを前にして、中継所には緊張が高まっていた。その中にあって、夜野亨(とおる)はまさに緊張のさなかにあった。

 夜野は自分が走った新人戦よりはるかに強い緊張していた。新人戦なんて取るに足らない大会だった。県大会止まりの個人戦に対して、駅伝は一人のブレーキが全体の成績を左右する。付き添いのせいで失敗するかもしれない。

 隣で夜野の様子に気づいた北澤が、この男にしては珍しく口の端に笑みを浮かべた。

「付き添いがそんなに緊張してどうするんだよ」

「緊張するよ。もし、北澤が突っとったらおれの責任になるんだから」

「夜野の責任にはならないよ。それに、大丈夫。普通に走ればいい勝負になるさ」

 北澤は平然と言った。その口調にまるで凄みを感じないところが、夜野にはむしろすごいことに思えた。

 北澤だけは特別な存在なんだ―、と夜野は改めて意識した。




   9


 ほぼ予想通りだった。

 三区の中継で十六位。それより後ろでくる可能性は最初から頭になかった。いくつ順番を上げてくるかを考えて、おそらく十から十二、三番手のあたりだろうと見当をつけていた。

「次、桜ヶ丘、領南!」

 十二位と十三位。

 北澤聡(さとし)は審判員のコールを聞いて、手早くジャージを脱ぎ捨てた。

「がんばって」

 夜野の言葉に北澤はぐっと引き締めた表情でうなずいた。

 コーナーを回り込んで、ブラインドから二人の選手が競り合いながら飛び出してきた。和泉と桜色のランニングを着た桜ヶ丘の選手。

 その姿を見て北澤は直感した。

 先輩はこの駅伝捨ててるな―。

 和泉が必死の形相で桜色のランニングを追い抜いてくる。これが中垣や大村ならそうは思わない。和泉先輩だからそう感じる。おそらく途中でガス欠になってもいいと思っていたはずだ。一か八かの賭け。個人に徹した賭け。幸いにして、賭けは成功した。

 見切りが早いや―。

 北澤には和泉の気持ちが手に取るようにわかった。

「大根を抜け!」

 襷の受け渡しで、和泉ははっきりした声で叫んだ。

「了解」

 もちろん、そのつもりだった。大根高校との差は四十秒まで詰まっていた。トラックでは難しい。でも、駅伝なら射程圏にあるタイム差。

 永川橋を渡り、下りに入ったところで早くも桜ヶ丘に追い抜かれた。下り坂を利して桜色のランニングはぐんぐんとばしてゆく。

 北澤は遠ざかるその背中を睨みつつも、ペースを維持した。四区の序盤にはこのコースでもっともきついアップダウンがある。とりわけ、下りはただでさえスピードが乗りやすい。ここで行ってしまうと、後半は地獄になる。

 北澤は気持ちを切り替えた。桜ヶ丘はバテる。本当の相手はその先にいる。

 下りは意識して抑え気味。上りでフォローする走りを心がけた。そのせいで序盤は離される一方だった。それどころか、後続の三崎、さらにその後ろにいた小田原城西までがひたひたと靴音を鳴らして追いすがってきた。

 その靴音がぴたりと背後に重なったとき、ようやくコースはアップダウンを終えて、落合隧道の長いトンネルに向かって右へカーブを切った。

 北澤はぶらりと両手を下ろして肩の力を抜いた。大村がよく見せる癖。いつの間にか真似するようになっている。気分をリフレッシュする。

 北澤はそろりと追撃を開始した。ギアを上げる。背中に響くふたつの靴音もペースアップしてくる。薄暗闇のなかで反響する靴音と激しい呼吸が絡み合い、数十秒にわたって暗闘を繰り広げた。

 やがてそこからひとつがちぎれ、程なくもうひとつが振り落とされた。北澤には勝手に離れていったようにしか思えない。ハナから意識になかった。最初のターゲットはまだ黒い影にしか見えない。

 自分の呼吸がトンネルに反響して奇妙なリアルを意識する。感覚はそれだけだった。集中している。そして隧道の出口にさしかかったとき、ふいに目の前に目標が飛び込んできた。その差はわずか十メートル。手の届く場所にいた。

 速さの差は歴然だった。まるで長距離と中距離のランナー。その差は見る間に詰まった。世附大橋の手前で桜色のランニングが苦しげな表情で振り返った。その横を違うギアで抜き去った。相手には張り付くゆとりさえなかった。ピンクのランニングは脚が上がり、腕の振りも小さくなっている。気持ちまで折れたかもしれない。距離はまだ半分以上ある。ここから先はツケの支払いに追われる地獄になるだろう。

 北澤は橋の先に目を転じた。橋の欄干に沿って数メートルおきに伸びる鉄柱の間から、前の選手が見える。北澤はその中のひとつに水色のランニングシャツを見つけ出した。大根の内田がいる。射程圏とは言い難い距離。それでもノー・チャンスではない。

 相手は見えた―。

 それだけで北澤は心臓が力強く血液を送り出し、躍動する筋肉が弾けんばかりに自らを鼓舞するのを意識した。時間と距離はまだ十分にある。北澤にはそれがうれしくてしかたがなかった。

 その時、頬にぽつりと冷たい滴が落ちた。

 降り出したな―、と北澤は頭の角で思った。




   10


 降ってきやがった―。

 おれは灰色の空を見上げて舌打ちした。ここまで来たらあと少しくらい持ちこたえてくれたってよさそうなものだろうに。

 アップ前に降り出さなかっただけまだマシか―。

 前向きに考えるしかない。

 そうこうするうちに、景色は坂を転げるような勢いで雨模様に変わっていった。沿道には傘が波打つように開き、周囲に響く声や音がくぐもった色を帯びる。

 井上(バクダン)が傘を差しておれの頭にひさしを作った。

「気が利くな」

「仕事だからな」

 おれたちは目も合わさずぶっきらぼうなやりとりをした。それでも以前ほどの反目はない。その理由のほぼすべては井上(バクダン)の側にあった。奴が頭の爆弾を撤去し、たばこをやめ、そしてなにより速くなったせいだ。おれだけではない。そこは部の誰もが認めている。来年は間違いなく走る側に入ってくる。井上が仕事だからと言ったのは、裏を返せば、おれにもやれと言っているようなものだ。そう聞こえた。

 少し離れたところで上位校の襷が次々と受け渡されてゆく。その空気感が少し違って思えるのは、先にもっと大きな大会が見えているからなのだろう。その一角に水色のヤッケが見えた。付き添いの傘のなかで、松田が白い息を吐いているのが見える。奴も新人戦の県大会には名前がなかった。地区予選で負けたのだろう。どうやら今年の大根はさほど強くなさそうだ。サンタが速いといっても、しょせんはおれたちと同じ一年。気後れはない。

「大根が遅れてるな」

「三区が突っとった。おそらく四区も」

 井上(バクダン)が答えた。前の遅れを取り戻そうとしてペースを乱し、連鎖的な遅れにつながってゆく。負の連鎖。駅伝では珍しいことではない。それが距離の長い三区と四区で起きたなら致命傷だ。すでに関東大会の出場枠からもこぼれている。

「大根、北湘、法大付属」

 八位争いの圏内にいる三校の名前がコールされた。目の前を七位の海老名商業が走り抜けてゆく。八位争いは少し離されている。先頭はすでに五分先。六位の横浜学院でさえ一分前に襷が渡っている。残りは十二キロ。下位の争いならともかく、上位校は早々崩れない。ここに至っての一分は絶望的な差に近い。

「領南!」

 ふいにコールがあった。

 おれは少し虚を突かれた。

 八位争いの直後まで食い込んできている。

 北澤が襷を受けた時は十二位だった。順位的には食い込んできてもおかしくないが、それでも一区で首位争いをしていた大根にこの差まで迫れるとは思っていなかった。

「準備しろ」

 井上(バクダン)に促されて、おれはヤッケとジャージを脱いだ。

 その時、坂の上に四人の選手が姿を現した。

「横一線じゃねぇか」

 おれは慌ててコースに飛び出した。

 冷たい雨がびしびしと肌を突き刺し、中途半端に伸びた髪とランニングが一瞬でびしょ濡れになった。

 水色、紺、オレンジ色、そして領南の緑地に黄色ラインのランニング。石灰で引いた白いラインに四人が並んだ。

 脚色は北澤が一番だった。最後のスパートでフォームを崩している三人に比べ、北澤だけが飄々としたいつものフォーム。上体に無理がない。その様はまるで三人を傍観しているようにも見える。一番楽そうに見える奴が後ろにいる。奇妙な光景だった。

 隣でオレンジと紺と水色が折り重なるように襷をつないだ。そこから三秒遅れて北澤の手が襷を広げて飛び込んできた。

「抜いてこい!」

 北澤が吐いた言葉はそれだけだった。北澤からの襷を受けながら、はっきりそう聞こえた。北澤にしては激しい言葉だ。

 もちろん、そのつもりだった。この時点で、おれの相手は三人。四人目は三十秒も先だ。そこを意識すれば、たとえ三キロといえどもリズムを崩す。

 まったく北澤という奴は―。

 おれはため息が出る思いだった。あいつは意図してこの流れをお膳立てしたに違いない。

 八位争い。次にはつながらない微妙なポジション。それでも、おそらく北澤はまだ諦めてない。きっと三人を抜くだけでは満足しないだろう。

 おれは最初からとばした。

 スタート直後。橋を渡ったときにはすでに四人の先頭だった。前にいた三人を引き連れる形。オーバーペース。レース前のプランに逆行している。まるで中垣(アホ)みたいなレース。北澤は橋の向こうで、 あのバカは―。

 北澤の舌打ちが目に浮かぶ。

 橋を渡ったあとは最後までコーナーの連続する一本道。固まった状態ではコース取りにも気を遣う。速さは二の次。スピードよりもリズムとテンポを重視。コーナーからコーナーへスムーズなライン取り。スピードを殺さないコーナリング。横並びの混戦は避けたかった。

 よほどオーバーペースと読んだのか、二人が引いた。背中に聞こえる靴音がひとつになる。相手を確かめたいが、そこは駆け引きの範疇。弱みを見せれば、肝心なところで百以上の力を発揮される。それに相手はわかっている。水色のランニング。九分九厘松田だ。大根もまだレースを諦めてない。

 引いた二校には最後まで後ろを走ってもらう。

 激しい雨が顔を打ち付け、すでに全身ずぶ濡れだった。靴もぐっしょり。それでも寒さは感じない。カッとした熱が身体の芯を燃やしている。

 コースには次から次へと新しいコーナーが現れる。全部でいくつのカーブがあるのか数えておけばよかった。今さら後悔しても遅い。

 靴音との争いが続く。息づかいは荒い。かなり苦しげだ。バテ比べ。お互いに余力はないはずだ。

 その時、コーナーを回り込んだ直後にふっと影が現れた。水色のランニングが一気に前へ出てくる。

 やはり松田だった。

 松田とは秋の記録会で一度だけ同じ組で走っている。種目は千五百。おれ自身の調子が極度に悪かったとはいえ、あの時は力の違いを見せつけられた。おそらく中垣程度のスピードはある。最後までもつれたら競り負ける。

 次のコーナーを抜け出したとき、ふいに視界の先に大仏大橋が現れた。中継所は大仏大橋の袂。ここまでくるとゴールは目の前になる。

 松田はあらかじめスパートする場所を決めていたに違いない。

 やられた―。

 そう感じた瞬間には意識を切り替えていた。

 松田は顎を上げながらおれを引き離しにかかる。その背中に目を据えて、おれはただ食らいつくことだけを考えた。もう距離は考えなくていい。それはすぐそこにある。

 沿道に人影がわっと増えた。

 コーナーを回ったところで松田がもう一段ギアを上げた。さすがにその背中が遠ざかる。ふっと水色の背から視線をずらすと、その先に中継所が見えた。

 おれは松田の背から走路の軸をずらした。すると、その先に両手を挙げている鹿沼先輩が見えた。

 おれはすべて出し尽くしたか自問しながら襷を外し、中継所に飛び込んだ。




   11


 領南のテントは六区中継所のすぐそばに設営されていた。そのおかげでレースの流れはわかりやすい。藤井直人は六区を走る鹿沼の相手もそこそこに、大仏大橋のこっちと向こうを行ったり来たりして、レースの行方を追っていた。

 三澤高校はぶっちぎりでトップをひた走っている。今年も朱雀大路を走るのは三澤になりそうだった。

 二位の山城が襷をつないだ。三澤から三分近く置かれている。

「三澤は強いっすねー」と藤井は鹿沼に言った。

「お前は気楽でいいなー」

 鹿沼は藤井が差し出す傘の脇から恨めしそうに空を見上げてため息をついた。

「おれは雨と寒いのが大嫌いなんだ」

「じゃ、替わりましょうか?」

 鹿沼はもう一度ため息をついた。

「お前は気楽でいいなー」と同じ言葉を繰り返したあとに続けた。

「走りたかったらもっと速くなれよ」

「え、いいんですか? 来年、走れなくても」

「バーカ、お前がどんなに張り切ったって負けねぇよ」

 目の前で六位の横浜学院が襷をリレーした。その後ろ姿を藤井は傘の中から見送った。

「先輩、あれ抜けますか?」

 抜けば関東大会。そうすれば、来年を待たずにもう一度チャンスが巡ってくる。

「気楽に言うな。あいつだって速いんだからよ。だいたいどんだけ差があると思ってんだ。いますぐ追っかけるんならまだしもよ」 

「次、領南! 大根(おおね)!」

「来たー! 先輩、来た来た!!」

 藤井は興奮気味に鹿沼の肩を叩いた。ちょうどその時、七位の海老名商業が襷の受け渡しをした。それでもこの時点で六位横浜学院とは一分近い差になっている。

「うるさい!」

「先輩、脱いで! とっととジャージ脱いで!」

「わーかってる!」

 鹿沼は傘のなかでもっさりとジャージを脱ぎ始めた。

「しかも大根(だいこん)より先に名前呼ばれましたよ。抜いてんじゃないですか?」

「バカ、一緒に呼ばれただろうが。きっと抜かれてくるぜ」

「そうかなぁ。前でくるんじゃないかなぁ。先輩、抜かれないでよ。ヒトが大根に抜かれたらシャレになんないですよ」

「えーい、うるさい! なんの話だ。持ってろ!!」

 緊張からか、鹿沼にしては珍しく少しイラだっていた。脱ぎ捨てたジャージを藤井に押しつける。

「濡らすなよ!」

 藤井を怖い目で睨みつけて、鹿沼はコースに出ていった。その姿は力強く、そしてこれからするべきことの意気込みにあふれていた。

 次は必ず走る側になろう―。

 この時、藤井は思った。




   12


 傘から飛び出すと、吹きすさぶ風と雨で全身がずぶ濡れになるまで数秒だった。

 鹿沼孝治はアスファルトに引かれた白線の前に立って、一本道の先に目を向けた。隣に水色のランニングがいる。二年の佐久間功二。漢字は違うが同じ名前。専門も同じ千五百。中学時代から幾度か同じレースを走っているが、言葉を交わしたことは一度もない。そして勝ったことも一度としてなかった。

 来た―。

 二人のランナーがほぼ同時に視界の先に飛び出してきた。前に大根。直後に大村がいる。

 抜かなくていい。そのまま来い―。

 瞬間、鹿沼の頭に浮かんだのはそういう気持ちだった。

 その願い通りになった。大村には水色のランニングを抜く力は残っていなかった。

 抜くどころか、むしろ振り切られそうな感じだった。苦しげな表情で白い襷を外し、その忌まわしき苦の元凶を鹿沼に押しつけてくる。

「お願いします!」

「任しとけ!」

 鹿沼は襷をつかむと、自分自身思いもよらぬ言葉を返して走り出した。

 襷を首に通し、きりりと引き締める。その端をランパンのなかに突っ込んだ。

 いま九位。関東大会に出るためには、あと二区間で三人抜かなければならない。

 厳しい―。

 前にいるのはいずれもランニングの色と柄で校名がわかる相手。こっちも原田先輩を温存しているが、たいしたアドバンテージにはならない。

 ともかく、おれはこの戦いに徹するべぇ―。

 鹿沼はイガグリのような佐久間の後頭部を見据えて走った。ペースは安定しているが、マイペースよりも若干速い。それでも我慢してついていくしかない。

 お互いに五キロ向きのランナーでないことはわかっている。前半で無理をすれば、後半にブレーキを踏む不安がつきまとう。鹿沼は後半のアップダウンに賭けるつもりだった。そこで力勝負を挑んで負ければそれまで―。

 この作戦は試走のあとで和泉と考えた。もしライバル校と競り合うとしたら、勝負所はそこしかない。四区なら序盤、一区と六区は終盤のポイント。電波塔の坂に比べれば、さほど厳しい坂ではない。

地力では圧倒的に不利。わずかでも可能性を求めれば、自分の土俵で勝負を挑む以外ない。

 コース中盤で中川橋を渡る。ここを渡ると道幅はぐっと広がり、ダイナミックなアップダウン・パートに入る。

 佐久間との差はわずかながら広がっていた。約十メートル。鹿沼は橋を渡った直後の下り坂で一気にスパートした。

 おそらく佐久間は面食らっただろう。

 抜き去った背中の足音が一瞬だけ遠のく。ほどなく、坂を下りきって上り坂に入った。鹿沼はどちらかといえばピッチ走法寄りの走り方で、下りよりも上りを得意にしていた。ここでさらに引き離す。予定の作戦。だが、思いのほかピッチは上がらない。下りで無理をした反動。逆に息のほうが上がってくる。

 瞬く間に足音が迫ってきた。鹿沼とは逆に、跳ねるようなストライド走法。下りでスピードを生かす走り方。だが、その靴の音は上り坂で迫ってくる。

 やべぇ―。

 わずかな焦りが心を揺さぶる。自ら振り出した手形。自分の責任区間で回収しておかないとあとで和泉がうるさい。

 佐久間が並びかけてきた。佐久間も一気にはいけない。坂のアドバンテージ。併走になった。

 上り坂の終わりはもうすぐそこに迫っていた。

 さべぇ―。最高にやばい。

 上り坂が終わった少し先には長い下りが控えている。その下りは延々と中継所まで続く。絶対有利の状況が佐久間に傾く。「鹿沼!!」と、その時、坂の上から怒気を含んだ激しい声が飛んできた。

 坂の頂上部に和泉の姿が見えた。

 なんで、お前がここにいんだよ―、と鹿沼は思う。

「意地見せろ、バカ! ここ以外のどこで勝負する気だ、アホ!!」

 普段なら気にもならないが、わかりきったことを言われて頭に血がのぼる。

 うるさい。入学当初はおれより遅かったくせによ―、とつまらない過去がふと思い浮かぶ。

 いったいいつの間にこんなに差がついたんだろう。あっという間に並ばれて、こっちがあたふたしているうちに、するすると手の届かない場所まで遠ざかっていった。専門種目の差。適距離の違い。それもある。でも、いまは千五百で競っても和泉のほうが速い。

 鹿沼はぐるりとそんな考えを思いめぐらすと、再び佐久間の前に出てスパートをかけた。間違いなく早い。ただ、下りに入ってからでは遅過ぎる。もう行くしかないのだ。

 失敗したら和泉のせいにしよう。半ばやけっぱちで歯を食いしばった。

 坂を上がり切り、和泉の脇を通り過ぎた。

「よし!」

 和泉の声がした。珍しく興奮してやがる―、と鹿沼は思った。

 ふっと呼吸が楽になる。ランニング・ハイだ。腕の力はまだ残っている。脚にもガタは来ていない。

「すぐ前に海老名(エビ)商いるぞ!」

 背中からそんな声が飛んでくる。

 すぐ前ってどこだ。見えねぇぞ―、と鹿沼は思った。後ろより前を見ろと言うことか。そりゃ、無理だ。佐久間との争いで手いっぱい。

 ちっ、と鹿沼は舌打ちした。

 正直なところ、後輩にも尻をつつかれているくらいだ。向上心が足りない。闘争心も足りない。そう思われてもしかたがない。

 佐久間の呼吸はかなり苦しげだった。こっちも楽に思ったのはほんの瞬間だけ。底に穴の空いた船みたいに、首元に向かってぐんぐん水があふれてきた。

 下り坂に入った。苦手といっても必然ペースは上がる。

 佐久間を振り切れ―。

 鹿沼は自らを鼓舞しながらもう一段スピードを乗せた。




   13


 アンカーの中継所には興田が来ていた。

 土砂降りの雨もいまはだいぶ小降りになっている。雨のなかではウォーミングアップさえ楽ではない。

 興田と原田はビニールガッパに身を包み、連れだってアップをしていた。

「なにも雨ん中つきあうことねぇのによ」

 視線を前に向けたまま、原田はぽつりと言った。

「ま、最後だからな」

「走り足りないんなら、代わりに走ってもいいんだぜ」

「できればそうしたいくらいだな」

 興田は最後に失速した自分の走りに悔いがあった。

 もう少し速く走れた。おれがまともにつなげていれば、もっと前を走っていたはず―、と。

「ま、おれもやるだけはやるけどよ。関東大会は来年以降に持ち越しかもな」

 興田は黙ってうなずいた。

「いまの一年が成長したら、来年はもっと上を目指せるな」と原田は気休めのように言った。

「いまの一年は強くなる」と興田は答えた。

「おれたちと違って数も揃ってるからなぁ」

「……そうだな」

 きっと同じことを考えている―、と興田は思った。

 七人―。

 いまの一年は恵まれている。たった二人でやってきた興田と原田にしてみれば、それは最高に贅沢な環境だった。

 力の差はまちまちだが、大切なのは一人もやめないことだ。それは興田たちにとって、そして二年の和泉たちにとっても、入学後のほんの一、二ヶ月で失ったチカラだ。

 おそらくこの七人は卒業するまで欠けないだろう。結束力はまだ強固とはいえない。でも、じきに解決する。些細なことだった。

「お前、なんで四区を譲ったんだ?」と興田は訊いた。

「先生が北澤のほうが速いと思ったんだろ」

「バカいえ」

 原田は一瞬だけ興田に顔を向けた。そしてまた正面に視線を戻した。

「去年の失敗が忘れられなくてな」と原田は答えた。

 昨年の駅伝で原田はやはりアンカーを任されていた。そして原田は四位で襷を受けながら、三人に抜かれて初めての関東大会出場をふいにした。

「どんくらい速くなったか同じコースで確かめたくなった」

 興田は唖然とした。

「誰が信じるんだよ……」

「お前、知ってるか? 今の一年、再来年は京都で走る気らしいぜ」

 その話は興田も聞いていた。でも、あくまで北澤の願望として聞いた話だ。そして、なるほどと思い至った。

「ま、最後だからな。楽しんでこい」

「もし六位内に入っちまったら少し引退が遠のくぞ」

「その時はつきあってやる。安心して抜いてこい」

 興田と原田は顔を見合わせて笑った。




   14


 大根とともに名前を呼ばれ、原田秀朗(ひでろう)は勢いよく路上に飛び出した。

 六位の横浜学院はもう一分半も前にリレーを終えていた。おそらく一年坊主。知らない顔だった。北澤より速いということはなさそうだ。それでもその差は絶望的。せいぜい大根(だいこん)とその前の海老名(エビ)商までか。甲殻類はあまり好きじゃないが、まぁ、エビまで食えば腹一杯だな。そんな気持ちで原田は腕と首を器用にぐるぐる回した。

 先に来たのは水色のランニングだった。隣で襷を待ってるのはたしか高田といったか。これも一年坊主。一年たちが大根のサンタと呼んでいるうちの一人だ。気のせいか、今年は一年の姿がやけに目立つ。

 隣で襷が渡った直後、コーナーから鹿沼が姿を現した。大きな差ではないがバテきっている。見ただけでわかる。もはや足も前に出ていない。

 やれやれ、お前はおれと同じだな、と原田は思った。

「おら! 最後くらい気合い入れて持ってこい!!」

 原田は叱咤した。

 ほんの少しペースが上がったように見える。

「お願いします!」

 顎を突き出しながら差し出された襷を、原田は力強く握った。

「よし、お疲れ!」

 そう言って原田は小雨の落ちるコースへ走り出した。

 二十メートルくらい先に水色の背中が見える。ほんの数秒。大きな数秒。

 おそらく関東大会には届くまい。区間賞の器でないこともわかっている。しかしモチベーションの置き場には困らない。相手は去年の自分。前にいるのは大根高校。一年でアンカーを任されるなら遅いはずがない。あいつをペースメーカーにすれば、おのずと結果はついてくる。

「ウンコみてぇに張り付くな!」

「嫌なら振り切れや!」

 そんなふうに興田とやり合ったのは入学して間もない頃だった。電波塔の坂やタイムトライアルで、原田は必ず興田をマークした。入学当初、十人いた長距離一年のなかで、興田は三番目くらいの実力だった。原田はその下。興田の場合、持久力では上二人にも引けを取らなかった。ただ、瞬発力は足りなかった。逆に瞬発力に長けた原田は、ついてさえ行ければ、必ず興田を逆転できた。そんな理由もあって、原田は意識して興田の後ろを走った。興田には電波塔で十中八九遅れをとるフラストレーションが募ったはずだ。入部直後のつまらない一件以来、お互いの関係は常に悪かった。練習中に罵りあったことも一度や二度ではない。嫌な野郎だ、という思いはお互いに持っていた。

 ただ、興田はほどなく原田の作戦を打ち破る方法を見いだした。簡単だった。瞬発力で勝てなければ、持久力勝負の展開に持ち込めばいい。おそらく興田は部活以外のところでも走っていたはずだ。まさにめきめきという擬音がぴったりはまるくらい、ごく短期間のうちに原田をねじ伏せる持久力を身につけた。秋を迎える頃には、電波塔で早々と引き離される展開が増えた。原田が遅くなったわけではない。記録会でもタイムは上がっていた。だが、興田はもっと速くなった。それが興田の選択だった。たとえすぐに結果が出なくとも、思う成績にたどり着くまであきらめなかったはずだ。

 逆におれは―、と原田は思う。

 まるでおろしたてのシューズに泥水が跳ねるように、入部当初の高い目標はみるみる汚れ、くすんでいった。インターハイどころか、同じ部の同級生にすら勝てない。それが現実だった。

 やめちまうか、と考えたのもその頃だ。すでに八人やめている。九人やめたところでたいした違いはない。だが、意外にもそれを引き留めたのは興田だった。もちろん一年が一人になる不安からなら付き合うつもりはなかった。むしろ、とっととやめていただろう。

 まったくおかしなものだ―。

 興田は駅伝を勝つにはお前がいてくれなきゃ困ると言った。興田は駅伝をやるために陸上を始めたらしい。まったく、うちの学校には毎年こういう変わり者が入ってくる。去年の三年にも一昨年の三年にもそういう先輩がいた。いまの二年は置くとしても、一年には北澤がいる。坂本先生の策謀なのではないかと思い当たったのは、ごく最近になってからだ。坂本先生は陸上部の長距離陣を駅伝集団に仕立て上げたいらしい。

 ともかく、あまりの勢いに押し切られて、もうしばらくつきあってみるかという気になった。気づいてみれば最後の駅伝を走っている。

 原田には自分が一番になれないとわかっていた。興田との差が決定的になったとき、原田はそれを悟った。内に秘めた能力の問題ではない。世の中には二種類の人間がいる。やれると信じて努力できる人間とできない人間だ。ここまでやれば報われるとわかっていたら、世の中はもっと成功者であふれているはずだ。わからないから簡単にあきらめる。すべて納得した上で、原田は自分がこの世界で上にいく競技者でないと悟った。だが、そのくせ負けたときのふがいなさは人一倍痛感するのだ。

 鹿沼が中継所に飛び込んできたとき、原田はそこに自分の姿を見て取った。あのゴールに飛び込んできたときの鹿沼の表情は自分自身でもある。おそらく興田にこの気持ちはわかるまい。和泉や北澤にもわからないだろう。頭のうえに突き抜けるような澄み切った青空だけを見ている奴にはわからない。頭上には息苦しくなるような分厚い雲がある。どんなに雲を搔いても手応えはない。果たしてその先に青空があるかどうかもわからない。

 ただ、後悔はしていない。

 ほぼもがききった―、と原田は思う。少なくとも最初の夏までに辞めていった八人に比べたら、はるかに充実していたといい切れる。

「楽しんでこい」と興田は言った。おそらく本音だ。「楽をするな」とも言いたかったはずだ。でも、言わなかった。

 やるだけやってみるか―。

 原田は心でため息をつきつつ、気合いを入れた。

 脚の回転をいつもよりほんの少し。ストライドもほんの少し。前に向かって積極的に動かしてみる。

 結果は―、まぁ、なるようになるだろう。

 どんなに苦しい思いをしたところで、せいぜい二十分かそこら。それが終わったら、明日からは朝練も放課後の練習もない。せめてやりきったと思える走りをしようと思った。

 一完歩ごとにじりじりと詰まってゆく水色の背中を感じながら、原田はまっすぐ集大成のゴールを目指した。




   15


 おれたちはゴール近くの沿道で原田先輩を待っていた。隣に北澤がいて、藤井と夜野も一緒だった。

 まだ細かい霧雨が降り続いている。

 おれたちは各々傘を差し、目の前に広がる丹沢湖を眺めながら、間延びした時間をやり過ごしていた。

 優勝は今年も三澤高校だった。

 北澤のいうところでは、神奈川県ではもう二十年以上も三澤の天下が続いているらしい。おれたちが生まれる前からだ。本当か?と疑いたくなる。

「神奈川じゃ都大路を走りたかったら三澤にいくしかないとまで言われてる。だから速い奴が集まってますます層が厚くなる」

「ライバル不在の内弁慶だから、毎年京都でコテンパンにされてくるんだぜ。きっと今年もそうだ」と藤井がひがみっぽく北澤の言葉を引き継いだ。

「いいさ。再来年、おれたちがやればいい」

 北澤は腕組みをした姿勢で、いかにも自信ありげな口ぶりで言う。器用に肩で傘を担いでいる。

「北澤はホントに全国大会狙ってるんだね」

「他人事じゃない。夜野も数に入ってる」

「そんなのおれには……」とそこまで言って夜野はふうっとため息をついた。

 北澤は夜野の肩を叩いた。

「結果は仕方がない。おれだって二年後に選手に入ってるかどうかわからないんだから」

「北澤は間違いないよ」

「おれから見たら夜野だって間違いない。なぁ」と突然、北澤はおれに振った。

「お前、今日はやけにハイだな……」

 おれは答える気になれなかった。夜野の不安は真っ当だ。おれだって来年は数に入ってないかもしれない。

「やれるだけのことはするよ」

 夜野は半ばしかたがないといった風情でそう結論づけた。

「それでいいと思うぜ」とおれは北澤の頭越しに言った。

 北澤はそんな消極的な答えにいささか落胆したのかもしれない。なにも言わなかった。

「でも、強敵だな」とやむなくおれは北澤に声をかけた。

「だからおもしろい」

 北澤はころりと表情を変えて、いかにも楽しげに答えた。

 普段はこういうファイトを口にする男ではない。北澤でもこういう気持ちの高ぶり方をするのか、とおれは少し意外な気持ちだった。

 六位の横浜学院が淡々とおれたちの前を駆け抜けていった。前にも後ろにもライバルの姿はない。最低限の権利―。今年の関東大会出場権を手に入れるであろう最後のランナーの後ろ姿を、おれたちは苦々しい思いで見送った。

 しばらくして海老茶色のランニングが七位のポジションを走り抜けてゆく。海老名商業だ。もう、どうがんばっても関東大会には届かない。無念の順位。それでも、選手は必死の形相でラストスパートに歯を食いしばっている。

「因果だな……」

 独り言のつもりだったが、北澤が応えた。

「みんな校内の競争を勝ち抜いてきたメンバーだからな」

 だから手抜きはできない、という観念なのだろう。

 おれは返事をしなかった。

 北澤は誰もが心に高い志を秘めて走っているものと信じ切っている。もちろん上位校はそういう連中の集まりだろう。きちんとベストメンバーを組んでくる。うちの高校だってその端くれだ。だが、そんな学校ばかりではない。なかには受験勉強の片手間くらいにしか考えていない学校もある。そんな学校は予選会で落ちている―。それはその通りだろうが、そもそも北澤にはそういう発想自体が塵ほどもない。白いキャンバスには黒い線がまっすぐ一本だけ。それが北澤だ。皮肉抜きに、うらやましいくらい純粋だ。

「きた!」

 夜野にしては珍しく鋭い声。

 おれと北澤はゴール方向に向けていた視線をぐるりと返した。

 大接戦。水色のランニングの直後を緑に黄色いラインのランニングがちらちらと見え隠れしている。

 沿道の歓声がわっと高まる。関東大会出場校は決定したが、ここまで接戦の争いがなかったせいだろう。

 おれたち四人は誰からともなく傘をうっちゃり、沿道から身を乗り出すようにして叫んでいた。

 勝て―。

 八位と九位の差なんて、しょせんコカとペプシ程度の違いだ。でも、ここは負けられない。間違いなく先輩はそう思っている。

 それを糧に、おれたちの来年はスタートする。

 陸上競技マガジンに載る順位の違いなど些末なこと。ただ、おれたちにとって八位と九位のあいだには、カバとカモシカくらいの差がある。相手が大根となればなおさらだ。

「サンタ野郎なんかぶっちぎれー!」と藤井が叫ぶ。

 二人がおれたちの前を駆け抜けてゆく。

 先輩の表情が苦しげに見える。だが、足の運びは力強く、腕の振りにも衰えは見られない。その右手の指が、一瞬親指を立てた。

「八位だな」と北澤はまだ二人が大仏大橋を渡る前から決めてかかった。

「悪くない」

「九位かもしれないぜ」とおれは言った。

「それでもいい」

 そう。それでもいい。先輩の力走を見た後ではそう思っていた。おれたちはそこに具体的な目標を見た。ここからまた一年、おれたちはそれぞれ個人の目標に向かって自分を高める。そして十二ヶ月後には再び、七人の力を結集させてこの場所でスタートラインにつく。

 駅伝にさほど興味はない。

 ただ、ほんの少し―。

 駅伝で襷をつないだことに、おれはトラックと同じくらいの充実感を感じていた。

 この時、おれたちはまだ十六歳で、その冒険は始まったばかりだった。

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ランナーズ 十乃三 @tono03

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