第10話 十一月

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 練習は想像していたよりもはるかに軽かった。メインは朝練と同じ六千メートルのジョグ。そして体育館の中二階に移動してマッサージ。短距離よりも早く終わるのは初めてかもしれない。

 駅伝前日。

 スタートまで二十四時間を切っている。

 中二階に移動すると、坂本(さかもっ)ちゃんが付き添いの割り振りを発表した。

「五区大村に井上」

 表情には出さなかった。井上(バクダン)も無表情。こちらには目もくれない。どうも、こいつとはうまく噛み合わない。そもそも最初の印象からしてよくない。いまだに打ち解ける糸口はない。

 いま、長距離の部員は十二人。結局、花岡先輩は夏休み前にエスケープしたまま戻ってこなかった。誰も話題にしないから籍が残っているのかどうかもわからない。そうした頭数(あたまかず)の制約もあって、三年の二人には短距離から応援が付くことになった。二人とも駅伝を走るのは三年連続。そしておそらく最後の公式戦。二人とも競技を続けるつもりはないらしい。興田先輩は進学。原田先輩は県警への就職が決まっていた。もちろん六位以内に入れば関東大会がある。引退は先延ばしになる。それでも月の終わりには放課後のグラウンドからいなくなる。春までは十人になる。

 練習のあと、珍しく一年全員でお好み焼き屋に行った。七人揃ってこの店に入るのは初めてだ。言い出しっぺは藤井。渋々ながらも井上(バクダン)がついてきたのは意外だった。奇跡に近い。協調性の欠片もない奴だが、藤井の強引さに我を曲げた。夏の海水浴もそうだった。井上(バクダン)といえども藤井には抗いきれないようだ。

「興田先輩はどれくらいで持ってくるかな?」

 斉藤が肉玉を口に放り込みながら言った。不思議なことに、鉄板のうえで七つのお好み焼きが焼き上がるこの瞬間まで、誰も駅伝のことを話題にしなかった。例によって北澤のお好み焼きだけが飛び抜けてヒドい。

「十番手くらいじゃねぇか?」と中垣が楽観的なことを言う。

「で、おれが五つ上げるだろ」と続ける。

「アホ」

 思わず言っていた。また摩擦の元になる。斉藤と藤井が小さなため息をついた。

 県内上位相手に五人抜き。大ボラも極まれり。上げるどころか落とす可能性のほうが高い。アホなんだから言わせておけばいいのに、つい口が滑った。

「ま、どんなに順位上げても五区が遅ぇからな」と中垣がやり返してくる。

 おれが腰を浮かすのと同時に、テーブルの対角線でもケツが浮く。

 直後におれの隣で藤井が、向こうでは斉藤が、まるで動物を扱うようにおれたちをイスに貼り直した。

「お前ら、いい加減にしろよな。もう半年も一緒にやってんだからよ」

 げんなりした顔で藤井が言う。

「やるんならおれたちの見てないとこでやれ」と斉藤。

「いや、見てないとこでもやんな」と再び藤井。

「放っておけよ」

 それまで食べることに集中していた北澤が、最後の一切れを平らげて口を開いた。この前の時に比べたら、食べられる体にはなっていたらしい。

「そのうち遅い方がおとなしくなるさ」

「どうしてお前はそんなにクールなんだ?」

 藤井は北澤に向かってため息をついた。

 クール? こいつがクールなもんか、と思う。むしろ挑発している。

「おい、井上(バクダン)。お前、大学行くのか?」

 話題を変えたのは中垣だった。アホにも北澤の考えくらいは読めるらしい。伊達に長くつきあってない。真向かいで黙々と箸を使う井上が、格好の逃げ場に見えたのだろう。まるで興味もないくせに、思いつきで言っているのがモロバレだ。

「なんでだ?」と井上はちらりと中垣を見て、それこそクールな感じで口を開いた。案の定、見透かされている。

「面(つら)に似合わずガリ勉君だからよ。気になっただけだ」

「お前には関係ねぇだろ」

 井上は突き放すように答えた。

 一瞬、中垣がむっとした表情をのぞかせる。

「井上は国大か?」とそこへ北澤がタイミングよく割って入った。

「あ……あぁ。そのつもりだ」

 井上も北澤には一目置いているようで、中垣に対するときとは口調からして違っている。中垣にはそれがまた腹立たしいのだろう。それが表情に出る。ざまぁみろだ。

「専攻は?」

「機械工学」

「店を継ぐのか?」

「いや、おれは開発やりたいから」

「バイクのか?」と藤井が訊く。

「あぁ」

「いまからそんなこと考えてんのかよ!」と藤井。

「へぇー」と斉藤。

「すごいな」と荻野も同調する。

「すごいもんか。高校生にもなってなにも考えてないなら、そっちのほうがすごい」

 明らかに違う意味で使っている。

 こいつはいったい何にイラついているのだろう。

 周囲に毒を吐き散らしても、本人の得はひとつもない。全員が押し黙り、一瞬、しらけた空気が流れた。

 引き継いだのは北澤だった。

「おれも進学だ。井上みたいに先々までは考えてないけどな」

「じゃ、なんで進学するんだ?」と井上。

「箱根駅伝」

 井上は唖然としたようだった。おれから見れば、むしろ他の理由が見あたらない。極(ごく)まっとうな答えだが、井上には衝撃だったらしい。

「単純だな」

 しばらくしてから井上はそう言って舌打ちした。ただ、その表情に嫌悪の色はない。どこか盟友を得たかのような色さえ読み取れる。

「まぁな」と北澤は口の端に笑みを浮かべた。

 そこから先はすっかり明日の駅伝を離れ、卒業後の未来へ飛んだ。

 卒業後―。

 高校に入学して半年ちょっと。現実味のない未来。しかしどうもそんな呑気は少数派らしい。あの斉藤でさえ夏の新潟で未来を語った。生活するカネを手にするだけの仕事なんてくそっくらえだ、と今日もおおよそ似つかわしくない理想を吐く。

 そして藤井と荻野に加え、中垣までもが進学希望だという。おれにはそんな漠然としたものさえない。

「未定」

 最後におれはそう答えるしかなかった。

「なんだ、進学するかどうかも考えてねぇのか。ダセェな」とまた中垣が突っかかってくる。

「早く決めりゃ偉いってもんでもねぇだろ。だいたいお前、大学いけんのか? アホのくせに」

「なにを!」

「脳みそカラのくせに進学進学って、言うだけなら九官鳥だって言えるぜ」

「だれが九官鳥だ?!」

 斉藤の制止を振り切って、再び中垣が尻を持ち上げた。同時におれもイスを飛ばした。

「よし、帰るか」

 藤井の声に合わせて、他の五人が一斉に立ち上がった。

 そこで終わりだった。

 おれも中垣(アホ)も気勢をそがれた。

 スタート時間に向かって時は刻々と刻まれてゆく。

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