第9話 十月

   1


 十月一週目の新人戦県大会が終わると、いよいよ陸上競技は冬のシーズンに入ってゆく。長距離以外のグループはオフ・シーズン。長距離だけはロードのシーズンを迎えることになる。

 新人戦の県大会へは六人が出場した。五千で和泉先輩と北澤。千五百で鹿沼先輩と中垣。そして女子から短距離の青井と幅跳びの遠見。

 和泉先輩は五位、北澤は八位。ともに来年の関東大会が視界に入ってきた。千五百の中垣は予選落ち。自分のベストタイムより十秒以上も遅かった。鹿沼先輩も準決勝止まり。遠見も予選通過はかなわなかった。もっともいい成績を残したのはやはり青井だった。百が二位、二百は三位。一年では最高位の成績。来年はインターハイを狙える位置に立ったことになる。

 表彰台にいる青井菜幹は、なんだか妙に遠い存在に見えた。まぁ、そもそもさほど近いわけでもないけれど―。

 ともかく新人戦はそんなふうにして終わった。こっちはここから先が勝負所。すでに駅伝メンバーを賭けたサバイバルは始まっている。県内どころか、校内での足下さえおぼつかないのがおれの現状だった。

 すでに興田、原田の三年生二人、和泉、鹿沼の二年生二人、そして一年の北澤。この五人は当確。残りの枠はふたつ。ここまでは想定通り。

 ただ、ここに至ってひとつは中垣の手に落ちる可能性が高まった。二区や五区の短い区間はスピードで押し切れる距離だ。残ったメンツの中では中垣がもっとも適している。

 おそらく二区だろう。最長区間の一区と次に長い三区をつなぐ区間。残りは五区。一、三、四の長距離区間を終えて、六、七のミドル区間へとつなぐ三キロの区間。ここを二年の長倉先輩と残りの一年五人で奪い合うことになる。

 駅伝に興味がないのはいまも同じだ。北澤がどう焚きつけようと、目標は夏。夏しかない。

 十七分台のランナーにも目標を掲げる自由はある。あと一年半で三分時計を詰める。千メートルにつき三十六秒。かなりの難題。明快な関門。

 やっかいなのはそれ以外の部分だ。

 中垣(アホ)には負けたくない。もちろん北澤や藤井に負けるのも癪だが、あいつに対する意識は別物だった。中垣が駅伝を走るなら、それを応援する側に甘んじるのは屈辱的だ。先日の新人戦ではっきりした。あれはこの上なく不愉快だ。

 現時点で最短距離にいるのは藤井だろう。新人戦で出した十六分台の意味は大きい。これを逆転するには勝つ以外に道はない。幸いにして、夏以来の疲れがようやく抜けてきた。怠さは後退し、練習が楽に思えることさえある。いまくらいの出来があれば、あんなにひどい新人戦にはならなかったはずだ。

 あの不愉快を回避する唯一の方法。それは七人目になることだった。




   2


「くっそー、ムカつく!」

 中垣は低く吐き捨てた。しばらく途絶えていた罵り声が、ここのところ再び増えてきた。

 中垣の隣で藤井は一人ため息をついた。

 今日の帰りは珍しく女子短距離のふたりが一緒だった。陽が落ちる時間はすっかり早くなっている。すでに夕暮れが近い。六人はサイクリングロードに自転車を走らせていた。

 藤井には二学期になってから少し気になることがあった。隣ではぶつくさ言いながら中垣がだらだらペダルを漕いでいる。先頭には北澤。その隣には青井がいた。中垣も含め、北澤と青井は小学校時代からのつきあいだから違和感はない。でも、その後ろに続く夜野と遠見は違う。なぜこの二人のあいだに会話が成立するのか、藤井はいぶかっていた。

「おい、夜野と遠見。あの二人、おかしくないか?」と藤井は中垣に言った。

「どこがだよ?」と中垣は二人の後ろ姿を見た。

「別に笑えるようなところはねぇけどな」

「アホ。あいつら、まさかつきあってんじゃあるまいな?」

 そう言われて、中垣はもう一度前に視線を向けた。数メートル先で夜野と遠見が自転車を併走させている。なにか話しているが、内容まではわからない。

「そんなわけねぇだろ」

 中垣は興味の薄い返事をした。

「そんなことよりあの大村(くそったれ)だ。お前どう思う?」

 藤井は深いため息を大げさについた。

「なにがだよ?」と今度は藤井が訊く。

「バカ野郎」

 わかってるだろう―、と言わんばかりの睨みが飛んでくる。

「あの野郎、ついこの前まで牛より遅かったくせによ!」

「じゃ、今日のおれとお前は牛以下だな……」

 藤井は冴えない表情で答えた。

 この秋以降、新コースの後半フリーが当たり前のようになってきた。今日の藤井と中垣は大村に突き離された。新人戦が終わって以降、たびたび起きている展開。二人とも最後の瞬発力勝負に持ち込むところまで持ちこたえられない。

「お前はまだいいさ。駅伝のメンバーに入れそうだからな」

「そんなのわかるかよ」

「わかるさ。三キロなら大村に負けないだろ。それくらい先生だって承知だ」

 瞬発力なら中垣、持久力なら大村。藤井はそのどちらも中途半端だった。瞬発力なら大村に勝てる。少なくとも互角には持ち込める。持久力勝負なら中垣にだってひけはとらない。

 春当時はわからなかった。だが、この秋を迎えて、そういう色があぶり出されるように見えてきた。藤井にはまだ自分の土俵が見いだせていなかった。新人戦で十六分台を出したところまではよかった。しかし大村の調子が上がってくると、にわかに自分の弱点が見えてきた。焦燥感がじわり拡がってゆく。


「練習はどう?」

 菜幹は自転車を走らせながら、北澤の横顔を見た。

 あの夜、了子にあんなことを言われて以来、なんだか妙な意識が働いている。

「駅伝の練習にシフトしてるからな。あと二、三週はきつそうだ」

「いつもどれくらい走ってるの?」

「朝六キロ。放課後は十五、六キロかな」

「そんなに?」

「少ないくらいだ。もっと走ってる高校はたくさんある」

「そうなの?」

「強いところとはまだまだ差があるよ」

「目標は?」

「とりあえず関東大会」

「駅伝にも関東大会ってあるんだ」

「県大会で六位以内に入れば」

「じゃ、もし関東大会にいけたら次は全国ね」

「それはまた別の話」

「別?」

「全国は県の代表戦だから県大会で優勝すれば京都にいけるんだ」

「ふうん。全国大会って今年は京都なんだ?」

「そう。来年も再来年も」

「来年も再来年も?」

「あんた、そんなことも知らないの?」とふいに後ろから厳しい声がした。了子と夜野が聞き耳を立てていた。

「知ってた?」と菜幹は後ろを振り返った。

「常識よ」

 夜野くんに訊いたんじゃないの?と言いたいところを、菜幹は「ふうん」という返事でこらえた。

「じゃ、来年は? 京都まで行けそう?」と菜幹は無邪気に訊いた。

「おれたち全員がもっと速くなれば。な、夜野」

「え? い……いや、でも、おれはまだまだだよ」

「なに、言ってんのよ。速くなるために練習してんでしょ?」と隣で了子が語気を強める。

「まぁ、そうだけど……」

「しっかりなさいよ」

 叱りつけるように言う了子に、思わず菜幹は頬をほころばせた。あたりはすっかり薄暗くなっている。おそらく了子は気づかなかっただろう。

 中垣と藤井ははるか後方だった。菜幹には生木がくすぶるようにもうもうと煙が上がっているふうに感じられた。きっとろくな話をしてない―、と思う。

「後ろの二人は大丈夫なの?」と菜幹は訊いた。

「あいつらは放っておいて平気だよ」

 北澤は造作もなく答えた。おそらく練習に対する答えなのだろうと菜幹は思った。

「ずいぶん信頼してるのね」と菜幹は多少の嫌みを込めて言った。

「いまはいい感じだよ」

 北澤はまるで気づいていなかった。

 それはそうか―。

 気づくわけもない。そんな性格は百も承知だった。

 やれやれ―。

 こんな感情、どこにあったんだろう。菜幹は改めて思い返した。

「なんだ?」と北澤は怪訝な表情でそんな菜幹を見た。

「ううん、なんでもないわ」

 菜幹は笑顔で答えた。自分がおかしくてならなかった。




   3


 井上裕次は家に帰ってくると、食事もそこそこに部屋のデスクに向かった。中間テストが迫っている。

 父親と二人暮らし。食事は死んだ母親の妹が作りに来てくれる。もう二年以上になる。

 一学期の成績はまずまずだった。国語と古文の成績はやや低かったが、他の科目には概ね満足していた。ただ、第一志望は国立大学。苦手な科目も手は抜けない。

 本棚にはバイク雑誌がぎっしり詰まっていた。それ以外にも整備教本やマニュアル本、カタログなどが無造作に押し込まれている。一番上の段には買ったばかりのぴかぴかのアライ製ヘルメットと冬用のグローブ。その脇にはハンガーにかかった革ジャン。陸上競技に関連するものはひとつもない。

 陸上競技はやらされている部活動だった。自分で選んだ道ではない。店を継ぐという宿命的な運命を回避するために、陸上競技で父が納得する成績を得る必要があった。父と決めた約束。

 目標はメーカーのエンジニア。進学は必須。家にカネがないのは知っている。国大も必須。陸上競技で結果を出し、なおかつ勉強も怠れない。中垣や藤井が聞いたら腹を抱えて笑い転げるだろう。でも、この決意は曲げられない。

 頭を丸めたことに後悔はない。

 課題の勝負には勝った。現実には完敗。一周のハンデをもらいながらのきわどい結果。父は納得しない。

 母の死や父の横暴な注文、学校でのなんやかんや。やさぐれて投げやりになっていた高二の夏。なんとなくかけたパーマが大問題になって意固地になった秋。あの時から同じ頭で通してきたが、こだわりがあったわけではない。

 いいきっかけだった。バクダンと揶揄されたパーマ頭はたしかに走りづらかった。

 十一時。

 参考書のページを閉じて勉強を切り上げた。ハンガーから革ジャンを外して着込むと、ヘルメットとグローブを持って部屋を出た。

 家とつながっている店の裏を横切ろうとしたら、まだ光が漏れていた。

「まだ、やってんのか?」と井上は声をかけた。

 父親がZ2(ゼッツー)のエンジンを組み直している最中だった。一週間くらい前にエンジンのオーバーホールで入ってきたやつだ。昨日、ようやく部品が届いたばかり。週末に使いたいというオーナーの無理な注文。

「ツーリングに行くってんだから仕方ねぇ」と父親はさして苦でもなさそうな口調で答えた。

「出掛けるのか?」

「あぁ。ちょっと走ってくる」

「そうか」と父親は立ち上がると、油まみれの手をタオルでぬぐった。

「まだ、凍結しちゃいないだろうが、ヘマしてコケるんじゃねぇぞ」

「そこらの暴走族と一緒にすんなよ」

 井上は裏手から表通りにRZを引っ張り出した。

 ヘルメットは外へ出る前にいち早くかぶった。新しく買い換えたのは頭を刈った分だけ緩くなったせいだ。寒さもいっそう堪える。

 全員で刈った坊主頭はあの一回限り。伸ばしてもいいが、先日、ヒヨコのように伸びてきた髪を家のバリカンでカットした。幾分ムラになったが気にしない。相変わらずバクダンと呼ばれているが、もうパーマに戻すつもりはない。なにしろカネがかかる。二ストのRZは走った分だけガソリンと一緒にオイルも消費する。オイルのグレードはピンキリ。いいオイルには金額相応の理由がある。頭なんかにカネを使うのはいかにも不毛だった。

 グローブをはめ、シートにまたがると、チョークを引いてキックスターターに体重を載せる。

 踏み込んだ。

 一発でエンジンに火が入った。

 井上はいったんシートから尻を引きはがし、アイドリングのままRZを引いてバス通りを目指した。バス通りまでは三百メートル。その間にチョークを調整し、アイドリングを安定させてゆく。

 ここ最近のバイク乗りに対する風当たりは、異常なくらいに神経質だった。暴走族の影響で、三ない運動が全国規模で拡大している。メーカーやショップにとっては死活に関わる運動だった。暴走族が無茶して死のうが一向にかまわなかったが、間接的には一蓮托生の運命にある。運動がヒートアップすれば、その分だけ家計は締め付けられる。

 バス通りといえども、午後十一時過ぎの通りは静かだった。

 井上は再びRZにまたがると、ギアを一速に押し込み、そろりとアクセルを開いた。

 風が冷たい。

 信号機は点滅に変わり、タクシーがハイビームで通り過ぎてゆく。

 東海道線の踏切を越え、平塚の海岸沿いを走る国道一三四号線まではほんの数分。RZを左に倒し込めば江ノ島、右へ向ければその先には箱根がある。

 右へ切った。西を目指す。

 しばらく走ると花水川の橋を越えて、箱根駅伝の中継所が現れる。中学時代に一度だけ見に来たが、さほど印象はない。優勝した大学の名前さえ曖昧だった。そういえば、夏の江ノ島で北澤が箱根駅伝のことを熱心に話していたっけ―。ふと思い出した。

 単純な野郎だ―、と思う。

 中継所を通り過ぎると、道は高架道路に向かって緩やかな傾斜を駆け上がる。そこから先は西湘バイパスだった。制限速度は七十。ただ、この時間にそんなスピードで流している車はいない。片側二車線、メーターの針は百を超える。スロットルにはまだ余力がある。

 その時、突如先のほうでアクセルをあおるけたたましい騒音が聞こえてきた。ヘルメットをかぶっていてもはっきり聞こえるくらいだから、マフラーに穴でも開けているかもしれない。数台規模。あるいは数十台。

 ほどなく、道の先に渋滞が見えてきた。事故か夜間工事でもない限り、深夜の西湘バイパスで渋滞はおきない。暴走族が道をふさいでいるに違いなかった。

 井上はスピードを緩めると、車列の隙間を縫ってバイクを前へ進ませた。

 渋滞の元凶が見えてくる。渋滞の先頭まで出ると、五十メートルほど先にそいつらはいた。一、二、三……と井上は道いっぱいに展開しているバイクの数を数えた。

 全部で八台。思ったより少ない。

 ゴテゴテに改造したむくつけきバイクに、この寒空のなか薄着の特攻服にノーヘル。タンデムシートでバットを握った奴までいる。

 クソども―。

 井上はあいだに突っ込めるスペースを瞬時に見極めると、ギヤを一段落としてスロットルを絞った。

 一瞬、持ち上がったフロントを上体で押さえ込み、目標の隙間に向かって加速した。

 自分たちのバイクとは異質のサウンドに、ほぼ全員が後ろを振り返った。すでにRZは見つけた隙間に飛び込まんとする刹那にあった。

 相手のエンジン音が一斉に変質した。それまでのあおる音からクラッチをつないだ音に変わり、スピードの流れが変わる。

 井上がバイク二台の隙間にRZをねじ込むと、左から蹴りが飛んできた。井上はマシンをバンクさせ、楽々と交わした。同時に右手前方からバットが水平に流れてくる。バンクとは逆方向に体を振ってこれも交わす。

 スピードの違いは歴然だった。

 前のほうで三台のバイクが進路を絞り込んでくるが、絞りきられる前に網は突破していた。その先にはクリアな道がまっすぐ続いている。

 暴走族たちは怒り心頭だった。一斉に加速して井上のRZを追いかけてくる。相手はZ400FX、ホークⅢ、XJ、いずれも400クラス。中にはまだ発売から間もないバイクもある。そのどれもが本来の性能を失っていた。見る影もないほど絶望的に。

 RZの敵ではない。バックミラーに映る暴走族連中の姿はあっという間に小さくなっていった。

 速い者が勝つ。バイクも陸上競技もそこは同じだ。そしてその爽快感もおそらく一緒なのだろうと思った。かつて自分がまだ周りより速かった頃は、それは当たり前でしかなかった。でも、いまは遅い方の気持ちがよくわかる。

 いつの間にか陸上のことを考えている。ヘルメットの奥で井上は舌打ちした。




   4


 中間テストが終わった午後、練習再開初日はいきなり予想外のメニューだった。

 グラウンドでロング(L)・スロー(S)・ディスタンス(D)を一万メートル走った後に、マラソンコースでタイムトライアル。おそらく駅伝の選考レース。

 新コースの電波塔に入ってゆく山セクションを丸々省いた五・五キロ。これを普段とは逆の反時計回りに走る。新コースのラスト一キロくらいにある丘が、スタートから最初の一キロに設定される。この違いには大きな意味がある。

 コースはスタート直後に急な下り坂を駆け下り、そこから一転上り坂。最初はだらだら上り、ほどなく急勾配のヘアピン坂。ここである程度バラけるにしてもまだ序盤。駆け引きには早い。丘はその数百メートル先に訪れる。この丘越えの展開が残り四キロの流れを左右する。

 二学期に入ってからのタイムトライアルは三回目。一回目は五千メートル。二回目は一万メートル。どちらもトラックだった。

 おれの成績はどちらもぱっとしなかった。五千は中垣にも藤井にも完敗。一万では距離を気にしすぎた。前半セーブしたツケを最後で払う羽目になった。藤井こそ振り切ったものの、中垣には最後まで張り付かれて、ラスト百メートルでちぎられた。

 そしてもう一人。

 井上(バクダン)だ。

 八千までしぶとくくいつかれた。井上はおれと同じピッチ走法。間違いなく下りより上りを好む。スピードもある。この先、さらに持久力を身につけてきたらやっかいな相手だ。

 トラックで一万を走り終えると、スタートは十分後。それほど時間はない。全員がのそのそ校門前まで移動してゆく。

「スタートから行くか?」と藤井が訊いてきた。

「いや、ゆっくりいく」

 早くも駆け引き。

「嘘つけ!」

 藤井は舌打ちした。

「お前はどうするよ?」

「ここんとこ調子悪いからな。様子見ながら行くさ」

「嘘コケよ……」とおれも返す。

「中垣、お前どうする?」と藤井は中垣の背中に声をかけた。

「行くに決まってんべ。お前らは最後までおれのケツ見て走れ」

 中垣は挑発するように答えた。

 まったく、どいつもこいつも―。

 いつもこれだ。練習前に「電波塔の坂はゆっくり行こう」と全員一致で申し合わせていても、必ず誰かが反故にする。むしろそういう取り決めをした時のほうが、厳しい練習になるケースが多かった。入部当初はもっとおおらかにやってなかったか―。そんな記憶ももう忘れかけている。

「最後のトライアルだな」と北澤が言う。

「だな」と藤井がうなずいた。

 メンバー登録の締め切りはもうすぐそこに迫っている。今日の結果で決まるはずだ。

 十分という時間は瞬く間に過ぎた。

 校門前で全員が横一列に並ぶ。

「位置について」

 野口先輩の声で空気が張り詰める。校門の前を横切る鉄扉のレールに合わせて、十二個のランニングシューズがぴたりと並んだ。門の脇で坂本(さかもっ)ちゃんが厳しい視線を向けている。プレッシャーのかかるスタート。

「スタート!」

 十二人が一斉にダッシュした。

 直後は急な下り。一気に二百メートルを駆け下りる。

 中垣は宣言通りに飛び出した。さすがはアホだ。すぐ直後を興田、原田、和泉の三先輩と北澤も追いかける。さらに鹿沼先輩と井上(バクダン)が続く。斉藤までがその直後をゆく。斉藤の尻を見て走るのはずいぶん久しぶりだ。ペースはかなり速くなりそうだ。

 おれは下り坂を意識的にセーブした。このロスはすぐ先の上りで帳消しにできる。スタートでリズムを乱したくなかった。

 坂を下りきって突き当たりを左折。ちらりと後ろを見る。藤井がいた。マークされている。その顔がわずかに笑ったように思えた。

 おれかお前のどちらか―。

 おれにも藤井にもそういう意識がある。負けたほうがメンバーから遠ざかるとわかっている。もちろん二人の勝負に勝てばいいというわけではない。最低でも七着以内。それは必須。中垣にきっちり勝って、六着以内を確保したい。

 前をゆく斉藤には期するところがあるのだろう。後ろから見ていても気迫が感じられる。ただ、まだ脅威を感じる存在ではない。丘越えまでには抜けると踏んだ。長倉先輩と夜野は自分との戦い。たぶん。足音さえ聞こえてこない。

 不気味なのは井上(バクダン)だ。井上の積極策は記憶にない。奴がどう張り合ってくるのか想像できない。

 ともかく離されるわけにはいかない。離されれば仕掛けのタイミングを失う。

 ヘアピン坂をかけ上がる急坂で、早くも隊列が乱れた。おれの十メートル前で、和泉先輩が中垣を抜きにかかった。三年二人と北澤も続く。ワンテンポ遅れて鹿沼先輩まで中垣を追い抜いてゆく。中垣はあっさり行かせた。中垣(アホ)らしくない。今日は厳しい戦いになりそうだ、とこの時思った。

 斉藤は井上(バクダン)の後ろにぴったり張り付いていた。井上に坂で動いた四人を追いかける意志は見られない。奴もまた腹に決めている相手がいるようだ。ますます嫌な予感だ。

 ヘアピン坂を上がりきった。隊列は前五人の直後に中垣。少し離れて井上と斉藤。おれと藤井はその後ろを追いかける展開だった。

 どうもヘアピン坂は好きになれない。急すぎる。下りでもトップスピードには乗せられない。むしろブレーキをかけながらの走りになる。場所が悪いうえに駆け引きに使えるほどの距離もない。どこをとっても中途半端だ。だから、おれはこの坂の上をスタートラインに決めていた。

 そのポイントを通過した。

 坂を上りきるとすっと楽になる。ここで前との差を一気に詰めた。すぐ先には丘が待ちかまえている。坂自体は二百メートルもない。短い坂を生かすためには、その手前から相手を追い込む必要がある。

 ペースを上げて斉藤と井上(バクダン)に並びかけた。井上がちらりとこっちを見た。その表情から競り合いに費やす余力は伝わってこない。

 井上と斉藤を抜いて、目標を先に据える。中垣の背中。

 藤井はぴったり後ろにいる。表情を読みたいが我慢する。振り返れば相手を刺激する。こちらの表情も読まれる。中垣も振り返らなかった。誰の足音か察しはついているだろう。

 呼吸がきつい。オーバーペース覚悟でとばしているのだから当然だ。一気に追い抜こうとしたが、中垣も楽には抜かせない。並びかけたところでペースを合わせてくる。その刹那にちらりとこっちを見た。おれは目の角でその表情をとらえた。

 ハイペースの流れで坂に飛び込んだ。

 おれと中垣と藤井。三人の争い。前はすでに坂を上がりきって姿が見えない。秋を迎えて北澤の速さはおれたちとは違う領域に入っていた。時に先輩たちを脅かすほどの勢いがある。いまは追いつけない。

 路面をつかむようなピッチで脚の回転を上げる。体ひとつ二人の前に出て、じりっとその差を広げる。しかし突き放すには距離が足りない。勝負は坂を上りきったあとも続く。むしろポイントはそっちにある。上りきってさらにスピードを上げた。限界を感じるところまで追い込んでゆく。それ自体が相手に同じ苦しみを突きつける手形になる。すぐ先の下り坂でもスピードは落とさない。マネはしてこないと思った。下りで呼吸を整えて、そのあとのバス通りで仕切り直すのが常道だ。おれの作戦はそこまでにリードを広げることだった。力の拮抗する相手には気持ちで後手に回らないこと。これは最優先だ。相手をあきらめさせれば、残りは自分との戦いに専念できる。中垣と藤井の順位関係はどうでもいい。目先の相手に対象を切り替えてくれれば好都合だった。

 坂を下りきってバス通りに出た。後ろからの靴音は聞こえなくなっている。振り返ってその差を確認したかったが、わずかでもバテたそぶりは見せられない。

 前をゆく五人のうちの四人は百メートル近く先にいた。見通しがよくなったぶん、実力差がよくわかる。先頭に迫るのはとうてい無理だ。拘ってペースを崩せば、逆に後ろからやられる。一人、遅れ始めているのは鹿沼先輩だ。おれは当面の目標を鹿沼先輩に据えた。

 バス通りの半ばにさしかかっても、後ろからのプレッシャーは感じない。おれはぶらりと腕を下ろして、こわばった肩から力を抜いた。ここで息を入れる。バス通りといっても、交通量はほとんどない田舎道。雀がチュンチュンいいながら田んぼの中を飛んでゆく。他に音はない。セーフティ・リード。あとは気を抜かずに走りきるだけだ。先頭は遠のく一方だが気にしない。いまは別のレースを戦っている。鹿沼先輩も先頭から離されているが、おれとの距離は詰めさせない。新人戦で準決まで進んだだけのことはある。鹿沼先輩にとって五キロは守備範囲外と思っていたが、そう甘くはない。

 ヘアピン坂を回るときに、初めて後ろを確認した。ほぼ並んでいるが、前にいるのは藤井だった。その差は二十メートル。思っていたよりずっと近い。中垣はスタート直後のハイペースがたたったか。何度やっても学習しない奴だ。

 ゴールは間近だった。あとは坂を下りきって校門前の急坂を上がるだけ。少し早めのスパート。相手に抜けると思わせたら、勝負の境目は曖昧になる。ヘアピン坂の急な部分を抜けたところから、緩やかな下りにスピードを乗せてゆく。

 最後はその分だけ苦しくなる。中垣も藤井の後ろでしぶとく粘っている。中垣と藤井が一緒になって追いすがってくるところを危うくしのぎきってゴールした。時計にして二秒か三秒。藤井と中垣の争いはきわどかった。瞬発力で勝る中垣。持久力でアドバンテージのある藤井。互角の争い。校門に入る最後のコーナーを内で回った藤井がわずかに中垣を制したように見えた。平坦ならまず藤井に勝ち目はなかった。坂の分だけ中垣(アホ)の脚は鈍った。

 おれたちがゴールしてから三十秒遅れて井上がゴール。斉藤は前半のオーバーペースが裏目。そこから一分くらい遅れた。さらに三十秒とかからずに、夜野と長倉先輩が相次いでゴール。夜野が長倉先輩に勝ったのは、おそらく初めてだ。

 駅伝メンバーを決める最後のトライアルが終わった。勝ちはしたが、差はごくわずか。秋以降の成績を重ねれば、藤井の成績はおれより断然上。劣勢だと思った。




   5


 週が明けた水曜日に駅伝のメンバーが発表された。

一区 興田司

二区 中垣竜二

三区 和泉雅章

四区 北澤聡

五区 大村洋護

六区 鹿沼孝治

七区 原田秀朗

 五区に決まった。

 うれしかったかといえば、もちろんうれしかった。でも、達成感には欠けていた。あっさりした気分。

 意外だったのは、原田先輩がアンカーに回り、四区に北澤が抜擢されたことだ。力の証。認められた証。北澤は先週のトライアルで原田先輩に競り勝った。能力の絶対値はともかく、いまの北澤はよほど調子がいいのだろう。そういう部分も含めたオーダー。高校駅伝の三区と四区は一区に次ぐ長距離区間に当たる。必然、各校とも骨っぽい選手を配してくる。その分、アンカーは駒落ち感が出る。五千を十六分そこそこで走る原田先輩なら、関東大会常連の大根にだってひけは取らない。

 中垣は予想通り二区。距離は五区と同じ三キロ。ただ、重要度は天地の差だ。一区がいかに最長距離といえども、高校生レベルではそれほど大きな差にはならない。二区の出来如何でその差は大きくも小さくもなる。その結果でサンクト四区の走りも変わってくる。

 一方の五区は長い区間がすべて終わったあとのつなぎ。六区と七区は合わせても十キロちょっと。高校駅伝の総距離はマラソンと同じ四二・一九五キロが基準。ちょうど残り四分の一くらいのところで襷をつなぐ計算になる。マラソンと違って、高校駅伝ではこの時点で決定的な差がついている可能性が高い。県大会レベルならなおさらだ。草野球なら九番ライト。

 補欠には藤井と井上の名が呼ばれた。





 その週の日曜日、長距離陣は丹沢湖までコースの試走に出掛けた。

 地図を見ると、丹沢湖は湖のシンボル的存在といえる吊り橋―永歳橋を中心にして、東西北の三方に放射状の水面が広がっている。コースはすべて湖に沿って走る周回コース。反時計回りになるので、終始湖を左に眺めながら走ることになる。

「寒いなぁ……」

 斉藤がぽつりと言った。

 紅葉にはまだ少し早い。それでも平塚あたりに比べると、季節はずっと進んでいる。赤く色づいた葉がちらちらと目に付く。

 おそらく試走にもっとも興味がないのは井上(バクダン)だ。バスのなかでもずっと参考書に目を落としていた。

 藤井レポート(藤井の持ってくる情報はそう呼ばれている。信頼度はかなり高い)によると、成績は学年でトップクラス。うちの高校のレベル自体はかなり怪しい部類だが、そこを割り引いても国立を目指せるレベルにあるようだ。あのハゲ頭にそんな頭脳が秘められていようとは、人体の神秘だ。

「よーし、じぁ、軽く一周しようか」

 坂本(さかもっ)ちゃんはさも楽しげな口調でワゴン車の運転席に乗り込んだ。この先生はよほど陸上競技が好きなのだろう。練習がきつくなるのも道理だ。

 ダムの水門に向かう袂の駐車場をスタート。一区のコースを順周りに進む。道幅は十分。車の往来はほとんどなし。坂本ちゃんはワゴン車のハザードランプを点滅させながら、おれたちの後ろをゆっくり伴走した。目的はあくまで試走。苦痛はない。こんなにのんびり走るのはずいぶん久しぶりだ。朝練よりも楽だ。

 コースは緩い下りがだらだら続いてゆく。上りにかかったかと思うと再び下り。やがて比較的急な下りにさしかかった。まっすぐ駆け下りると、すぐ先に鉄とコンクリートで造られた橋が現れた。

「スタートから約三キロ」と車から先生の声が飛ぶ。ここは湖の東端部にあたる。五区のスタート地点にもなっている。橋には玄倉川橋という名前がついていた。コンクリート製の板みたいな橋脚が二本、静かな湖面から生えるように突き出して、水色に塗装された橋桁を頼りなげに支えている。

 ここを渡るとコースの様相は一変する。湖の縁に沿って山裾を削り取って敷いた細い舗装路。それが北の端に向かって弧を描いてゆく。バスも走る大通りに対して、こちらは乗用車一台がやっとという程度の道幅しかない。一方通行の標識もある。

 起伏はさほど気にならないが、純粋な平坦部分はほとんどない。常時上りか下りのどちらかに支配されている。そしてカーブと小さな橋がむやみに多い。橋はともかく、カーブの多さは問題だ。先を見通せるのはせいぜい百メートルから二百メートル。駅伝の五区ともなれば、先頭からビリまではかなりの差になっている。

「大村、これはきついぜ」と隣を走る北澤は妙に嬉しそうだ。ことによると、最初から最後まで孤立無援かもしれない。北澤の言うきつさとはそういう意味だろう。

「お前がペースメーカー連れてきてくれりゃ問題ねぇよ」とおれは答えた。おれに襷をつなぐのは北澤だ。北澤が団子状態のなかで持ってきてくれれば、レースはしやすくなる。もちろん厳しくもなるが、一人でペースに戸惑うよりはずっといい。

「トップで渡すことになるかもしれないぜ」

「それはないだろ」

「大村、なんか言ったか?」

 前のほうから興田先輩の声が飛んでくる。よく聞こえる耳だ。

おれは何も言えずに言葉に詰まった。

「アホ」

 後ろから藤井の声がぼそりと聞こえた。

 ともかく、このコースは厳しい。いくつものカーブと小橋で構成された三キロは、コース上の目印もみつけにくい。何度も走ればわかるだろうが、おそらく今日一回と当日のレース前一回。二回で掴みきれるとは思えない。

 やがて湖を分断するようにかかる大仏大橋が見えてきた。橋桁の両側から鋼鉄の弧を掲げ、数メートルおきに太いハンガーで橋桁を吊るその様は、先鋭的な永歳橋とは対極の雰囲気がある。とらえどころのないコースのなかで、もっともわかりやすい目印。六区の中継ポイントはこの橋の袂にある。橋を見てからスパートしているようでは遅すぎる。もう少し手前に目印が欲しい。

 結局、橋の脇を漫然と走りすぎた。

 コースは北の端にかかる中川橋を目指す。ここもコースの構成は同じ。連続するカーブと緩い起伏。それが約一キロ半にわたって続く。

 北の端にかかる中川橋を越えると、コースはバス通りに戻ってくる。ここからは全コースのなかで唯一ともいえるダイナミックな下りと上りが連続する一区のクライマックスになる。

 湖の北と東の部分を合わせた一周の距離は約十キロ。これがほぼそのまま一区のコース。まっすぐ永歳橋を渡れば、スタートした駐車場はすぐそこにある。だが、試走は橋の手前を右折して、長いトンネルに向かった。ここは二区と四区のコース。湖の西側は北に三保ダムを抱える約三キロ。はるか先に小さな光の出口が見える。トンネル内は薄暗く、先生の運転するワゴンのヘッドライトが行く手に自分たちの影を長く伸ばす。長さは五百メートル。つまり二区全体の約六分の一は暗がりの攻防になる。

 西側のコースも湖の途中で橋を渡る。トンネルを抜けて数百メートル。大仏大橋をやや小振りにしたような世附大橋にたどり着く。橋の先は再び道が細くなり、曲がりくねった道が一キロあまりにわたって三保ダムの放水口まで続く。

 放水口まで出ると、おもむろに左右の視界が開けた。左手に湖、右手は切り立ったダムの展望台だった。緑に覆われた山々が折り重なるように連続している。隙間を縫って滑り落ちる尾根に、美しく整備されたエメラルド色の川筋が伸びている。ここで三区への中継が行われ、ほぼ平坦のアスファルトを五百メートル。ようやく最初の駐車場に戻ってくる。

 外周の全行程は十五キロ弱といったところか。ゆっくり走ったせいで、スタートしてから一時間半が経っていた。

 イメージに反してメリハリのないコースだった。あえて印象に残る部分を挙げれば、北の端にある中川橋からバス通りを南下して永歳橋にいたる二キロ。長さ五百メートルの落合隧道から西の世附大橋にいたる一キロ。その程度だ。細く曲がりくねった裏の道は全体の半分を占める。五区にいたってはほぼすべてがそれに当たる。似たようなカーブ。似たような小橋。どっちつかずの起伏。そんな道を湖に沿って走るわけだ。ぼやけた霧のなかを手探りで走るような気分だ。たしかに景観はいい。でも、当日そんなのはほとんど目に入らないだろう。風景に見とれる余裕があれば、つっとっているに違いない。

 覚悟、期待、そして戦略。膨らんだの不安だけだった。

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