第8話 九月

   1


 夏の暑さを引きずったまま、二学期が始まった。

 九月にはいるとすぐに記録会、新人戦へとトラック競技の大会がスタートする。秋はあわただしく流れてゆく。

 新人戦は参加資格を二年生までに限定した大会。神奈川ではインターハイ同様、県大会の前に地区予選がある。全国大会はない。県大会の決勝が最後の舞台。ほとんどの一年生にとっては、高校生になって最初の舞台。二年生は最後のインターハイに向けて、自分のポジションを確認する大会になる。そして新人戦が終われば、駅伝はもう目の前に迫っている。

「うちの部にも国体いけるくらいの奴がひとりでもいればよ」

 記録会の競技場で、なんの脈絡もなく中垣が言った。その独り言のような声はおれが聞き、藤井が聞き、そして北澤も聞いていた。

 もし、そんな奴が長距離にいたら―。

 いま程度の練習じゃ済まないだろうよ―、とおれは思った。大根高校のように日曜まで練習で潰すことになる。いまでさえいっぱいいっぱい。あっぷあっぷで溺れかけている。日曜まで走らされたら完全に溺れる。即座に土左衛門だ。使役馬だって週に一回くらいは休む。もちろん、中垣(アホ)はそこまで考えて言ったわけではないだろう。

「安心しろ。来年はいる」

 生真面目に答えるバカもいる。北澤だ。おれは聞こえないふりをした。

 記録会の成績は散々だった。

 千五百と五千にエントリーして、千五百が四分四十四秒。五千は十七分三十二秒。どちらも北澤と中垣と藤井に負け、五千にいたっては夏の暑いさなかに練習で出したタイムにも及ばない。最低の記録。危うく井上(バクダン)にも負けるところだった。井上は中学時代に千五百で通信陸上に出ているらしい。なぜ、そんな奴がバクダン頭だったのかは知る由もない。あえてほじくるほどの興味もない。ただ、スピードの裏付けはある。加えて、持久力も侮れない。

 やっかいだ。

 それでも一度侮った相手には負けたくない。負けられないと思っていた。たぶん、おれだけではない。斉藤でさえ、合宿でそんなことを言っていた。

 北澤はにんまりしているはずだ。事は奴の思惑通りに運んでいる。斉藤も荻野も時計でレベルアップを証明した。なんだかおれ一人が取り残されている気分だった。




   2


 すっかり差をつけられた―。

 その時、夜野亨は遠くに見える背中を追いかけながら思っていた。井上の少し先に大村が見える。入部したばかりの頃は自分より後ろを走ったこともある井上が、いまはあんな先にある。

 やっぱり素質の違いなのだろう。

 最近はたばこの臭いもしなくなった、と夜野はぼんやり考えながら走っていた。

 素質に対抗するのは無益。勝てない。簡単に跳ね返される。ちょっと本気になっただけですぐに結果を出す人間。どんなに努力しても同じ場所で足踏みする人間。自分は後者に近いと思った。

 もちろん彼らとは目指す場所が違う。この現状にも不満はない。競うことに興味がない。でも、北澤のひたむきさを見るにつけ、あるいは中垣と大村の強烈な対抗意識を見るにつけ、最近はその意識が揺らぎ始めている。さりとて、彼らに及ぶ能力があるわけでなし。努力しても裏切られる。そんな葛藤がせめぎ合っている。

 結局、ゴールしたときには十八分を超えていた。


 帰りの電車は了子とふたりだった。電車は一本遅らせた。みんなの乗った電車をこっそり見送ったあとで、了子は開口一番に切り出した。

「……そんなことないよ」と夜野は内心どきりとしながらも、努めて平静を装った。

「嘘ね」

 了子の口調は確信に満ちていた。断罪の響きがある。

 走っている最中、応援する了子の声がはっきり聞こえた。夜野はその声に振り向きさえした。

「ぜんぜん苦しそうな顔じゃなかったわ」

「苦しかったよ」

「そう? 井上はもっと必死だったわ。藤井も中垣も。北澤でさえそうだった。あんたは楽に走って遅かっただけ」

 遠慮のない言い方。了子は夜野をあんたとか夜野という言い方で呼んだ。他の男たちにも同じ呼び方をした。夜野はそれを了子らしいと思っていた。

「遠見は? 結果に満足できた?」

 夜野は話題を変えた。これ以上踏み込まれるのが苦痛だった。

 彼女はこの秋から本格的に幅跳びの練習に入っていた。しかもこの記録会でいきなり五メートル台のジャンプをして見せた。おそらく校内なら全学年を含めてもトップクラス。男子を含めともそんなに多くないはずだ。

「まぁまぁね」と了子はまんざらでもない顔をする。彼女は夜野の知らないかつての自信を取り戻しつつあるようだ。少なくとも、そんなふうに見えた。


 夜野と遠見の姿を最初に見つけたの斉藤だった。おれは斉藤と和泉、鹿沼の両先輩と四人で上りホームにいた。

 二人は階段の陰で隠れるようにしていたが、電車がいったあとのがらんとしたホームでは丸見えだった。電車待ちでごった返しているこっちにはまるで気づいていないようだった。

「なにしてんだ、あいつら」

「乗り遅れたんだろ」

 おれは斉藤の視線を追って答えた。さほど興味はない。

「なんだ、あいつらつきあってんのか?」と鹿沼先輩もおれたちの視線に気づいてその先を追った。

「そんなわけないでしょう」と斉藤は真っ向から否定した。

「……どっちでもいい。放っとけよ」

「お前はホントに他人に感心がないねぇ」と斉藤。

「お前が持ちすぎなんだよ」

「そうかねぇ……」

「今日の五千、お前、夜野に負けてたろ」

「うるせー。ほんの数秒だろ」

「去年の二の舞になるぞ」

「わかったわかった。なんでぇ、お前だって井上(バクダン)に負けそうだったくせに」

「うるせぇ」

「低レベルの争いはやめろ。不愉快だ」

 和泉先輩が割って入ったところへ電車が滑り込んできた。

 この週末、和泉先輩は興田、原田の両先輩ととともに五千メートルで初めて十六分の壁を破った。千五百でも四分十秒台に入れ、春からの成長を数字で示した。そのせいかこの体たらくでも厳しい言葉を浴びずに済んでいる。意外と人間らしい面もあるようだ。少し驚いた。

 それにしても―。

 曲がりなりにも苦しい夏を超えたわりに、果実の実は期待ほど甘さを蓄えていなかった。

 斉藤と夜野は走った組が違う。同じ距離でも組が違えば流れや展開が変わる。数秒のタイム差は誤差に近い。おれと井上は同じ組だった。その差は十六秒。百メートルそこそこだ。さすがに危機感を持つ。


 すし詰めの電車の中で、斉藤明はため息をついた。無意識のため息。

 夜野には負けないと思っていた。三秒差。あってないような差。それでも負けは負けだ。大村の二の舞という言葉は、自然と気持ちに影を落とした。

 あの時だって、村上より速く走れたはずだ。なのに肝心なところで負けた。そして選ばれなかった。誰もが認める速さが欲しかった。さもなければ、また二の舞。足下は薄い氷のようにおぼつかない。二度とあんな気分は味わいたくない。その雪辱こそが三年間で遂げるただひとつの目標だった。

 斉藤はもう一度ため息をついた。今度は自覚のため息。

 高校最初の公式レースは黒星。前途は厳しく多難に満ちている。




   3


 密かに期するものがある。

 一年のなかで北澤は別格。その下に自分と中垣と大村がほぼ横並び。秋になって井上が食い込みつつある。でも、互角にはまだ足りない。斉藤と荻野はさらに離れている。記録会を終えて、藤井直人はそう査定した。

 問題は中垣と大村。この二人のすさまじい対抗意識は、合宿前の海で再認識している。

 春の時点ではまだ優位にあった。大村相手なら十中八九ねじ伏せる自信があった。中垣相手でも五分。その力差がわずか数ヶ月のあいだにみるみる縮まって、いまではプレッシャーになっている。二人がAグループに移った合宿はその象徴だった。

 追い詰められている―。

 藤井にとって新人戦は結果を示さなければならない大会だった。負けたくなかった。

 藤井のエントリーは五千。北澤と大村もいる。中垣も希望していたが、枠には制限がある。顧問の坂本清二は中垣を千五百に回した。

 おそらく中垣は地区予選を突破する。県大会に進むだろう。和泉先輩と北澤も予選突破は間違いない。相手は大村ひとり。お互いにボーダーライン上にいると思った。

 小田原の競技場は中学時代から何度も訪れている。サブトラックは箱庭のように小さい。競技が立て込む時間帯はほとんど使い物にならない。

 藤井はひとり競技場を出ると、買ったばかりのウォークマンにカセットを突っ込んだ。レコードからダビングしたローリングストーンズ。再生ボタンを押すとギターのイントロが流れ始めた。ブラウン・シュガー。そのリズムに乗って、アスファルトのうえをゆっくりスタートした。時おり涼しい風が通り抜けてゆく。それでも秋と呼ぶにはまだ早い。少し走っただけで、じっとり汗がにじんでくる。

 予選二組目。同じ組には和泉先輩がいる。北澤と大村は一組目。目標タイムは大村の時計次第。

 雷管の音ともに、腕時計のストップウォッチをスタートさせた。

 最近の大村には一頃の勢いがない。中垣は元々あの程度だろうと見くびっている。だが、夏の疲れを引きずっているのは明らかだった。そして今日も大村の走りはぴりっとしなかった。

 千メートル通過が三分十秒。十五分台のペース。地区予選としては速いほうだ。山城高校二年の岩城が積極的に流れを作っている。岩城はこの春の総体で関東大会を経験している。県内では間違いなくトップクラス。大村も二千メートル過ぎまでは流れにつかまっていた。だが、集団のヘリから遅れ始めると、三千の手前からずるずる下がっていった。

 一方、北澤はスタートから先頭グループにつけた。最初は岩城を中心に十人くらいのグループだった。新人戦のこの時期に十五分台のペースについて行ける選手はそれほど多くない。周回を重ねるごとに一人二人と選手がこぼれてゆく。三千を通過して北澤の周りにいるのは三人。すべて二年生になっていた。

 一組目の一着は岩城だった。番狂わせはなかった。この組でただ一人の十五分台。北澤はそこから二十秒ほど遅れた四着。県大会への出場を決めた。大村の時計は藤井の計測で十七分二十五秒。平凡。合宿の練習時計とほぼ同じ。着順は前より後ろを数えたほうが早かった。

 そして二組目のコール。

 選手の数は三十人近くになる。目標にされる選手はおそらく和泉先輩だろうと藤井は踏んでいた。いまの先輩の実力は、岩城と比べてもそう引けはとらない。この前の記録会で誰もがそう思ったはずだ。

 藤井自身は自分のレースに徹するつもりだった。走る前から県大会を放棄するつもりはないが、こだわればリズムを崩す。この組には総体の県大会へ進んだ選手が四人いる。メンバーの平均レベルは一組目よりも高いかもしれない。和泉先輩が作る流れなら、牽制し合ってスローになる可能性はゼロ。ついていけば、自滅は必然。藤井は確信していた。

 大村のタイムは遅すぎて目標にならない。藤井は十六分台に目標を切り替えた。一年ではまだ北澤しか出していないタイム。合宿中のトライアルでは十七分二十秒を切っている。四百メートルのタータントラックでスパイクを履く公式戦。十分にやれる数字だった。

 できれば四十秒台―。

 雷管が鳴った。

 真っ先に飛び出したのは和泉先輩だった。大半の選手がそのペースを追随する。強い選手同士が作り出す急流。簡単には崩れない流れ。予想通りの展開。

 練習と違い、誰かがラップを読み上げてくれるわけではない。腕時計をして走るのは煩わしい。ペースは感覚に頼るしかない。

 最初の千メートルで早くも十秒以上離されていた。前との差はどんどん広がり、それにつれて時計の感覚が薄れてゆく。周りに知っている選手は一人もいない。ひたすら見えない目標に向かって走り続ける。いまある力を出し切ることに集中した。

 距離を刻むにつれ、疲労の波は予想を超えて襲いかかってくる。心の芯に打ち立てた棒の意志が、激しい波に洗われてぐらぐらと揺らぎ始める。

 四千メートルを通過。和泉先輩の姿は半周以上も先にあった。すでに単独先頭。後続は十メートル以上も離れている。おそらく五十秒前後の差。仮に先輩が十六分ジャストのペースなら、まだ十六分台に希望が持てる。

 藤井は自らを鼓舞するように腿を叩いて気合いを入れた。意識的にフォームを修正してペースアップする。疲れから前屈みになった上体を立たせ、腕をまっすぐ大きく振る。前に出て行かなくなっているストライドを数センチでも先へ伸ばそうと試みる。残りは千メートルを切っている。あと少し耐え切ればいい。

 前には数メートルおきに追い抜くべき対象が揺れていた。呼吸は苦しい。足も腕も重い。それでもなお、夏の合宿で得た自信が藤井を後押しした。

 ラスト一周にさしかかろうとしたとき、ゴールラインの袂でゴールテープの準備をしている審判員の姿が目に入った。振り返ると、和泉先輩が最後の直線に入ってくるところだった。その姿をかろうじて振り切って、藤井は加速した。燃え尽きたカスをかき集めて着火させ、最後の一周をむさぼるように走った。ラストの百メートルはおそらくこのレースでもっともスピードが出ていただろう。

 十六分五十八秒―。

 藤井は十七分の壁を突破した二人目の一年になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る