第7話 夏合宿
1
四泊五日の合宿が始まった。
山梨。
隣の県なのに行くのは初めてだ。
未知の場所。県名に山が入っている場所。
集合時間は朝七時。平塚駅。そこからチャーターの観光バス。体裁は遠足に近い。ただ、雰囲気は真逆。朝が早かったせいもある。移動中は自分も含め、半分以上の部員が寝ていた。時おり、中垣(アホ)や藤井の騒ぐ声で目が覚めたが放っておいた。文句を言う暇も惜しい。
バスは昼過ぎに山梨県の白洲町に入った。小さな田舎町。近くに川が流れている以外は、ほぼ緑一色に近かった。
初日は移動だけ。
大甘だった。予想よりずっと早い。どう考えたって初日から練習だ。憂鬱な五日間のスタートだった。
宿舎は古い民家だった。坂本(さかもっ)ちゃんの知り合いの家で、いまは家主も東京に越して空き家になっている。そこを宿舎代わりにしたこの合宿は、去年に続いて二度目という。今年限りを願うばかりだ。
家屋は古民家らしい平屋で、一間が広い。間仕切りを取っ払うと四十畳の大部屋になる。この他に六畳から八畳の部屋が全部で三つ。ここに全部員四十名弱が雑魚寝で四泊する。すでに大部屋の角には貸し布団も運び込まれていた。準備はすっかりできあがっている。
「先生の知り合いも余計な気を回してくれるよなぁ」
バスの車中、隣に座っていた斉藤が少なくとも二回は同じことを言った。異論はない。
昼食は仕出しの幕の内弁当だった。うまいともまずいとも感じないまま、燃料のように詰め込んだ。
練習は普段と同じ夕方から。それまでの数時間はフリー。これは意外な展開だった。半分胃がもたれたまま始まる土曜日の練習に比べれば、時間の流れはずいぶん贅沢だ。
平塚より標高は高いはずだが、昼下がりの屋外はまだ暑い。部屋にはエアコンはおろか扇風機すらない。ただ、部屋中の窓やふすまを開け放つと、部屋から部屋へ涼しい風がさぁっと吹き抜けてゆく。直射日光さえ避ければ意外としのぎやすい。
こんなに緩いスケジュールでいいのか―。
和泉先輩や北澤あたりはそう思っているに違いない。部屋の角に寝ころんで、そんなことをうつらうつら考えていたら、案の定、坊主頭が見下ろしてきた。こういう場面では一番見たくない顔だ。
「ちょっと散歩に出ないか?」
汗だくになる散歩。
「中垣(アホ)か藤井でも誘えよ」
「あいつらバスで騒ぎすぎ。熟睡してるよ」
「おれだって熟睡だ」
「お前は平気だよ」
そう断言する根拠を知りたい。
とにかく北澤はしつこかった。
やれやれ―。
おれはため息をついて体を起こした。
「絶対走らねぇぞ」
「わかってるよ」
わかってるもんか、と思う。思いつつも、結局おれは北澤に連れ出された。
外に出ると玄関脇に見覚えるのあるバイクが駐まっていた。
「なんか、見たことあるな」
おれはしげしげと眺め回した。シルバーのベルーガ。平塚ナンバー。
「あぁ。先生が車に積んできたんだよ」と北澤はこともなげに返答した。
おれは静かに目をつぶってため息をついた。頭のなかでロードとトラックの構成比が逆転した。知らない土地にベルーガ。おそらく険しい山坂道。家畜のように追い立てられるシーンが頭に浮かぶ。
「おい、どこ行くんだ?」
ふいに背中から声がした。
こういう場面では二番目に聞きたくない声。
振り返ると声の主はすぐ背後にいた。ジャージにTシャツ。ランニング・シューズに腕時計。和泉先輩だった。
「ちょっと散歩に」と北澤が答える。
「じゃ、一緒に行くか」
「いや―」
「いいですよ」
おれの言葉を遮るようにして北澤は応じた。
やっぱり走ることになった。しかも相手は和泉先輩と北澤。
二人でいけよ、二人でよ―。
よほど言ってやろうかと思ったが、オチは明白だ。和泉先輩に激しく罵られるだけのこと。むき出しの地雷。言葉の無駄死に。
道は細い田舎道だった。舗装はされているが、車はまったく通らない。わずかだが緩い上りになっている。
十分と走らないうちに右手に町の総合グラウンドが見えてきた。
道路からコンクリートの階段を下った場所にグラウンドが広がっている。うちの校庭よりも少し広いくらいか。白っぽい色の地面が強い陽射しを浴びてぎらぎらしている。トラックはロープをコースに沿って張り、数メートルおきに杭を打ち込んで固定してある。正面奥には横長のハウスが一棟。おそらく用具室。人影はない。
「トラックの長さは二百五十ですか?」と北澤が訊いた。
「ああ。学校と同じだ」
どうでもいい。グラウンドが大きかろうが小さかろうが、走る距離は変わらない。Tシャツには早くも汗がまとわりついている。
「おい、大村」と先輩がおれの名を呼んだ。
「はい?」とおれは疲れた声で返事をした。
「お前、駅伝に出る気はあるか?」
「駅伝?」
突然の言葉におれは少しとまどった。
駅伝か―。
おれには北澤のようなこだわりはない。さりとて、出なくていいと思っているわけでもなかった。もし中垣がメンバーに入り、自分が入らなかったら―。そこには確実な悔しさと、間違いのない不愉快があるはずだ。
「もちろん、ありますよ」
決して前向きではないが、嘘でもない。そもそも質問そのものが愚問だ。意に沿わない返事をして鉄拳が飛んでくるならまだマシで、そこで話が終わればなお恐い。
「なら、この合宿では絶対に遅れるな」
おれは苦い表情で応えた。
こいつらまさかグルじゃあるまいな、とおれは訝った。先輩と北澤の表情を見比べてみると、その裏に一個の同じ意志が働いているように思えてならなかった。
高校駅伝は七人でひとつのチームを作る。いまの時点でメンバーを考えたとき、まず三年の二人は当確。二年も和泉先輩と鹿沼先輩は確定。そして一年からは北澤も決まりだろう。残りの枠はふたつ。おれにプレッシャーをかければ、必然的に中垣が張ってくる。おれと中垣を競わせれば、藤井が加わる。井上と斉藤、夜野も引きずられる。もちろん長倉先輩だって黙ってないはずだ。
ふぅ……。
間違いない。ハナっから仕組まれた罠だ。
まだ誰もいないトラックを見下ろしながら、おれは少し憂鬱な気分になった。
2
午後三時。
結局、宿舎に戻ったのは出発の五分前だった。遠回りしたせいで遅くなった。またしても、だ。そして今度はぞろぞろと集団で歩いてゆく。こんなことならずっとグラウンドにいればよかった。昼寝の時間を割いて、見たくもない憂鬱の沼をのぞかされた。練習前から二割増しの疲労感だ。一方、ぐっすり睡眠をとった中垣や藤井はすっかり威勢を取り戻している。それがまた癪に障る。
グラウンドに到着すると、赤トンボが宙を支配していた。おそらく数千。風景はすっかり塗り替わっていた。
「トンボは気楽でいいな」
斉藤がグラウンド整備用のトンボでコースをならしながら呟いた。
「そうか?」と中垣は自分が握っているトンボを眺める。
「おい。こいつ、トンボが好きだってよ」
「なに? よし。じゃ、グラウンド整備は斉藤に任せようぜ」と藤井が乗る。二人はそろって斉藤にトンボを押しつけた。
「このトンボじゃねぇよ。わかんだろう!」
斉藤はムキになって怒った。わかってるよとばかりに藤井はため息で応えた。右へならえで中垣も真似た。
「おいおい、おかしいおかしい。おれ、間違ってないよな?」
藤井と中垣は黙ってトンボを握り直すと、斉藤から離れていった。
「無視すんなよぉ……」
途方に暮れた斉藤の声がグラウンドにむなしくこぼれた。
その様子を見ていた北澤が小さく笑った。
「あいつはいい奴だな」とおれを見て言う。おれにはただのお人好しにしか見えない。
合宿初日の練習メニューはビルドアップだった。通常の千メートル×四に一セットを上乗せ。計五セットで二十キロ。わずか四千メートルの違いだが、負担の重さと圧力は数字以上に大きい。
ただ、それだけならまだよかった。多少の負荷増は覚悟している。想定内。
「中垣と大村はAグループに入れ」
この坂本(さかもっ)ちゃんの一言は想定外だった。
この合宿はかなりハードになる。ついて行けないかもしれない。そして「絶対に遅れるな」の意味がこの時わかった。
ふたつのグループのあいだは高い壁で隔てられていた。こちら側の水は温い。少なくとも、我慢できない熱さではない。だから先輩に遅れるなと言われた時も、ロードはともかく、トラックはなんとかなると高をくくっていた。しかしこうなると話は違ってくる。五セットどころか、一セット目から試練だ。しかも中垣(アホ)と一緒。誰の仕業かは明白だ。わざわざおれを連れ出して釘を刺した意味が、泥水を吸うスポンジのように納得できた。もちろん坂本(さかもっ)ちゃんも一枚噛んでるはずだ。無謀な計画。横暴な試練。
駅伝を目指す上でBグループの底上げは必須。それはわかる。Aグループは五人。駒が足りない。とりあえずBグループでほんの少し速い中垣を格上げ。そこも妥協しよう。問題は中垣(アホ)が抜けたBグループだ。おれと藤井のあいだには競争原理が成立しにくい。いつかの雨のロードではっきりしている。あの二人は気づいているに違いない。相手は藤井でもよかったはずだ。でも、そうするとBグループはまとまらなくなる。中垣はまんまと術中にはまって有頂天だ。あんなアホになれたらどんなに幸せだろう。
タイム設定は千メートル四分から二十秒刻み。四回アップして再び四分のペース。これまでのBグループより二十秒ずつ速い。最後の千メートルは三分フラット。そこでついてけるかがポイント。千五百換算で四分三十秒ペース。千五百は中三の春以来走ってないが、当時のタイムは五分をやっと切るくらいだった。あれから一年ちょっと。果たして練習で三分のペースを作りつつ、ビルドアップで二十キロを走りきれるかどうか―。憂鬱を通り越して気持ちが悪くなってきた。
四時を過ぎても夏の陽射しはまだまだ強い。たっぷりと陽を浴びたグラウンドには、まだむっとした熱気が残っている。
スタートはAグループから。興田、原田、和泉、鹿沼、北澤、中垣、そしておれ。二列縦隊で先頭の二人が一セット分のペース責任を負う。最初の先頭はおれと中垣だった。
斉藤がトラックの内側からにこにこ顔でこっちを見ている。他人事みたいな顔をしている。Bグループだって楽ではない。わかってるんだろうか。一瞬、思ったがすぐ忘れた。こっちにそんな余裕はない。
練習にビルドアップを取り入れた当初はペース配分に戸惑った。一周ごとにペースの微調整を強いられた。それがいまではほぼ無修正で周回を重ねられる。
最初の千メートルを設定タイムで通過して、ペースを切り替える。一周につき五秒のペースアップ。三分四十秒ならまだ余力がある。さらに一段階アップして三分二十秒になったとき、いつもとは少し違うスピード感覚を意識した。これまではここが最速ラップ。ここからもう一段ギヤが上がる。いつもと違うその感覚は、心理面の影響が大きい。
そして最初のトップスピードがやってきた。ここでのペースはほぼ全力。ポジションは中垣が内でおれは外。中垣はおれに遅れはとれないと思っているはずだ。ぐいぐいと前に押して出る。三分ペースの一周目最後の直線、ラップを読み上げる野口先輩のか細い声が、今日はやけに大きく聞こえる。四十六秒で通過した。
「遅れてるぞ!」とおれの背後で和泉先輩の声が飛んだ。低いトーンにまったく乱れがない。
二百五十メートルトラックで三分は一周四十五秒のラップ。帳尻合わせは意味がない。平均したラップを刻む必要がある。そんなことはわかってる。
内側で中垣がペースを上げた。必然、上げざるを得ない。思う壺。和泉先輩と北澤が描いたシナリオに抗う術はない。
なんとか一秒落ちを穴埋めして、最初の最速区間をぴったり三分でしのいだ。
がくんとペースが落ちると、普段以上に四分のペースが楽に思えた。ここでおれと中垣は下がった。同時に内と外も入れ替わる。今度はおれが内。中垣が外。おれの意志というよりは中垣の意地。自ら内のスペースを空けて、おれを促す。おれより楽をしたと思われるのが不愉快なのだろう。わずか一人分のスペース。それは見た目以上に大きい。
再びペースが上がってゆくと、徐々にまたプレッシャーが増してくる。一度ペースを経験している分だけ真っ暗闇に突っ込んでゆく不安はない。ただ、それも気休めだ。最後尾は興田先輩が一人で担当している。少しでも遅れると尻を燃やされる。
とにかく遅れずやりきれるかどうか―。約束したつもりはないが、すでに枷となって組み込まれている。
二セット目をしのぐ。三セット目は再び外。ここもしのいだ。そして四セット目。再び先頭の順番が回ってくる。今度はおれが内。気持ちは楽だが、万が一にも中垣より先に脱落できない。その気力だけで乗り切った。
最後は和泉先輩と北澤の受け持ちだった。この二人は計ったようなラップを刻む。周回ごとの微調整すら必要ない。その様は嫌みなくらいだ。
いつの間にか陽は傾き、暑さは和らいでいる。身体から汗が出なくなっている。肌の表面が塩で白っぽくかさついていた。読み上げられるラップに、ただただ追い立てられてゆく。
きっかり二十秒ペースが上がる。最初の千メートルでは呼吸を整え、気分をリフレッシュしなければならない。この最終セットはうまくいった気がしない。
だが、結果としてこの危機感はいい方向に作用した。長距離をやっていると時々訪れるタイミング。多くはレースの最中。まれに練習で経験する場合もある。あと一周で諦めよう、あと半周で諦めようという気持ちが、脱落を先送りしてゆく。ラップが次のサイクルに入ったときにも、あと一周我慢しようと思う気持ちが次の一周につながる。そしてもう一周いけそうだという流れに転じてゆく。隣には中垣がしぶとく食らいついている。最終セットはおれが外に回る順番だが、中垣は頑として譲らなかった。意地の張り合いで消耗するわけにはいかない。それで最終セットもおれは内を走っている。少なくとも中垣が脱落しないうちは負けられない。中垣(アホ)に触発されてなんとかついて行けている。いささか不本意ながら、認めざるを得ない。
「よーし、最後はフリー!」
唐突に坂本ちゃんの声が飛んだ。
前にいた四人がぐんと加速する。それがどれくらいのペースに相当するのかわからない。通常でも二十秒アップするわけだが、フリーとなれば話は別だ。たとえ三分ペースでも集団はばらける。そして競争という要素が割り込んでくる。
今日のビルドアップで常に殿を走っていた興田先輩が外から楽々とおれたちを追い抜いてゆく。二分台のペースに飛び込んでゆく光景が、目の前でありありと展開しているように見えた。
どうにもならん―。
「おい! 離れるな!!」
そう思った瞬間、前をゆく和泉先輩の声が刺すように飛んできた。
同じように置いてけぼりを食らった中垣が即座に反応した。
「ほら! どうした大村!」
ホームストレッチから坂本ちゃんの声まで飛んでくる。
紛れもない。タイムトライアルだ。しかも三分は最低ノルマ。
おれは心のうちで毒突きながらペースを上げた。
長い千メートルだった。さすがに二人の三年生はじりじりと後続を引き離してゆく。北澤が追いかけ、直後に鹿沼先輩がいた。和泉先輩はさらにその後ろ。おれたちに並んで外側を併走し、たびたび怒鳴り声を発する。明らかな意図。坂本(さかもつ)ちゃんの容認。
あるいは最後の千メートル、坂本ちゃんはおれと中垣がペースを保てないと思ったか―。フリーにして和泉先輩をぴったり張り付かせて強引に頑張らせる。恐喝に近い手口。
最後の一周はへとへとだった。時計は設定から三秒遅れ。
おれと中垣はほとんどなだれ込むようにゴールした。ゴールラインではわずかに中垣(アホ)が前だった。
気分が悪い―。
ちなみに和泉先輩は最後の一周でおれたちをちぎり捨てた。二分台のラップを刻んで悠々とゴールに飛び込んだ。それもまた不愉快だった。
ともかく終わった。一日目。まだ初日かと思うと絶望的な気分になった。
3
練習のあとはグラウンドのそばにある旅館に直行した。ここで風呂と晩飯。宿舎にも台所はあるが、自炊をする時間はない。人もいない。近くには大きな食堂もなく、風呂にいたってはそもそも宿舎にもない。長距離陣はグラウンドの用具置き場に併設されたシャワーで済ませていたが、短距離は旅館の大浴場を使ったらしい。そこそこ年季の入った日本家屋。どこか公営宿舎のような臭いも漂う。畳敷きの座敷に折りたたみ式の長テーブルを並べて黙々と食べる。まだ初日だというのに、どの顔も疲労困憊の表情だった。もっとも、食欲はその影響を微塵も受けない。斉藤などは明らかに食い過ぎだった。
「お前、よくそんなに食えるな」
おれは隣で食っている斉藤をまじまじと見た。チョッパゲと名付けられた弾丸のかすった痕は、丸刈りからほぼ一ヶ月が経過してなお、その痕跡をくっきり地肌にとどめている。
「おう」と斉藤はこともなげに三杯目の丼飯をかき込みながら答えた。
おれはため息をついて箸を置いた。
帰りは三々五々、終わった者から順次引き上げる。おれは北澤とともに旅館を出た。さすがにもうひとっ走りとは言うまい。
「先輩が感心してたぜ」と月を見上げながら北澤は言った。ほぼ満月に近い真円がぽっかり浮かんでいる。ほとんど街灯のない田舎道が今夜は明るい。そのせいで空に散らばる星の数はそれほど多くない。
「なにが」とおれは訊いた。感心させるような出来事がまったく思い浮かばない。
「今日の練習さ」と意外なことを言う。
「嫌みだろ?」
「本気さ。まさか最後までついてこれると思ってなかったんだろ」
「自分で言ったんじゃねぇか。最後はタイムも落ちたし」
それには答えず、北澤はただにやにやしていた。おれは舌打ちした。
「台本書いたのはお前か」
「提案はしたさ。決めたのは先生だ」
「余計なことを……」
「お前と中垣にはもっとやってもらわなきゃ困る」
「藤井でよかっただろうによ」
「速さの問題じゃない」
「競わせるには格好の組み合わせだからな」
北澤は満足げにうなずいた。
「藤井にはいまの形が合ってる」
「なんで」
「藤井は気が良すぎる。もっとどん欲になって欲しいんだ。お前らがAグループにきて変わってくるといいんだけどな」
「悪党だな……」
おれの想像とは少し違っていたが、あいつだってそれほど諦めのいい男ではない。憤りを感じていないわけがない。
「あいつには言うなよ」
おれは黙って天を仰いだ。こいつの手のひらで踊らされているのが気にくわない。
「二年後の駅伝はおれとお前と中垣で一、三、四区を埋める」
「気が早すぎるぜ」とおれは鼻で笑った。
「全国狙うにはいまからやらなきゃ間に合わない」
「いまからだって間に合わねぇよ」
「そう。そこだ」
ふいに北澤はおれを指さした。
「まず、その意識を変えてもらう」
「出来るかね?」とおれは他人事のように言った。
「出来なきゃおれの負けだ」
おれの意識を変えられるか否か、そんなことまでこいつは背負うつもりらしい。こと駅伝となると、北澤はことのほか熱い。なにがこうも北澤を熱くさせるのか、おれにはさっぱりわからなかった。
おそらく北澤なら来年のインターハイは射程圏。個人に徹すれば、それは手の届く場所にある。強い奴と走りたいならトラックで勝負すればいい。駅伝なんかにこだわって、遅い奴に足を引っ張られることもあるまいに。
まぁ、どう説いても無駄だ。わかっているから黙っていた。
「おれが一人でなに言ったってダメだ。でも、お前と中垣と三人で同じ意志を固めれば、あとの四人はついてくる」
「壮大だな」
「たいしたことじゃない」
北澤は簡単に請け合う。だが、おれは全国どころか、関東だって難しいと思っている。
「いったいおれをどうしたいんだ?」と北澤に訊いた。
「いまは中垣に勝つことだけ考えていればいいさ」
北澤は自信ありげに言い切った。つまりそれだけでおれの気持ちが自ずと北澤と同じ方向を向くらしい。まるで魔法だ。
「中垣には黙ってろよ。あいつは強情だから、知ったら絶対にへそを曲げる」
たしかにそうだろうよ。なにせアホなんだから。
思うに、こいつは根っからのプロデューサーなのだろう。陸上を個人競技とはとらえていない。そしておれみたいな奴を取り込むことが、チームをまとめる一番の近道と考えている。藤井に黙っていること。中垣(アホ)に黙っていること。こんな調子でおれへの秘密も誰かにしているかもしれない。
ともかく、おれは自分のやれることをやる。北澤の意志に関係なく。
4
起床、六時。
眠い。
近くの神社まで揃ってだらだら散歩をする。その境内でラジオ体操。朝のラジオ体操なんて小学校のとき以来だ。懐かしいなんてこれっぽっちも思わない。ただただ、今日も暑くなりそうだと思っていた。
昨晩の旅館で朝食をやっつける。それから午後の練習時間までは大掃除だった。昼寝ができるとは思っていなかったが、掃除は予想外だった。窓ふき、すす払い、便所掃除はもちろん、庭の草むしりや畳干し、垣根の修繕まで、全員が手分けをして作業に当たった。昼は弁当。朝飯の旅館から運んできたやつだ。割り箸の袋に旅館の名前が入っていた。掃除は練習に向かう三時近くまで続いた。
「疲れた……。くたくただ……」
グラウンドまでの道中で、早くも斉藤が弱音を吐いた。夏至から二ヶ月が過ぎたというのに、この時間、まだまだ陽は高い。厳しい陽射しの中を、おれたちはまるで強制労働に向かう囚人のように歩いた。
グラウンドには昨日と同じトンボが飛び交っていた。蝉の声を聞きながらグラウンド整備。そして二日目の練習が始まった。
「よーし、準備が出来たらロードに出るぞ」と威勢のいい坂本(さかもっ)ちゃんの声。ベルーガを見たときから覚悟はしていた。それでもおれは隣にいる藤井と思わず苦い顔を見合わせた。
今回はベルーガとともにワゴン車が帯同する。運転は松岡先生。担当は短距離だが、最近はほとんど練習に顔を出さない。来年の春で定年を迎えるせいかもしれない。丸顔の柔和な顔立ちでいつもにこにこしている。怒った顔はちょっと想像がつかないほどだ。今日も昼前に到着して、今夜一晩泊まって明日には帰るらしい。長距離のロード練習を手伝うために来たようなものだ。
ワゴン車の役割は言わずもがな。ついて行けなくなったら乗せられる。
乗れば楽になる。でも、乗せられたくはない。余計な自尊心。邪魔な虚栄心。そして陸上を続ける限りどちらも捨てられないもの。
長距離陣十二人のうち、三分の二くらいがうなだれるようにグラウンドを出た。花岡先輩はこの合宿にも不参加だ。ここまで夏休み全休。いまや話題にもならない。もう顔を見ることはないのかもしれない。
「さぁ、いこう!」
ベルーガにまたがって、先生が声を張り上げた。
「心配すんな。死んだらあれに乗りゃいいんだから」
斉藤の表情があまりに憂鬱そうで、思わずおれは気休めを言った。
「素直に乗れれば苦労はねぇだろ」と斉藤は少し不愉快そうに答えた。
「おう。お前にもそういう気持ちが出てきたか。チョッパゲ」
後ろで聞いていた中垣が斉藤の頭に手刀を入れた。斉藤はやられっぱなしのまま、余裕のない表情で振り返った。アホにつきあう体力すら惜しいとみえる。
「ま、がんばんべ!」
中垣の隣からクラゲのような笑顔で藤井が言った。斉藤はくじけかかったため息で応えた。
グラウンドから公道に出る。興田、原田の両巨頭を先頭に、のそっと走り始める。経験者の二人でさえこの調子だ。憂鬱の色がありあり。否応なしに不安は募る。そんな中で、北澤と和泉先輩だけはいつも通りだった。動揺の色は皆無。無敵。脳神経の一部が欠損しているのかもしれない。北澤なんて初コースにわくわくしている感じすらある。コースの過酷さに疑いの余地はない。あるいは想像以上かもしれない。いつものコースなら距離も特徴もすべて頭に入っている。道順も含めて戸惑うところはない。しかし、ここにはなにもない。すべて白紙。どこにどんな勾配の坂があって、どれくらいの距離を走るのか。ペースも含めて見当がつかない。
走り始めは緩い上り坂。草食動物の背中を思わせるくらいなだらかだ。ただ、その終わりが見えない。どこまでもだらだらと続きそうだ。おのずと入りのペースはスローになった。
「もう少しペース上げていいぞ」と後ろからベルーガのエンジン音とともに坂本ちゃんの声が聞こえてくる。
ペースがわずかに上がった。
三、四十分走ったところで欄干が見えてきた。川かと思ったら、眼下は線路だった。その先には高速道路。昨日の護送に使われた中央高速に違いない。その高架下をくぐり抜ける。さらにもうひとつ別の線路が出現すると、早くも経路はおぼろげになってきた。いかにも雰囲気のあるローカル線。架線のない単線。いったいどこへ通じる鉄道なのか想像もつかない。
若干ペースは上がったものの、流れはまだ緩い。脱落者なし。距離は十キロ手前だろう。じとっとした汗が肌の表面ににじみ出てくる。陽の動きは遅く、気温も湿度も高い。
「おい、帰り道わかるか?」
隣で斉藤が囁く。スタートしてからかれこれ一時間。昨日の二十キロを考えるとまだ半分手前か。
「さぁ」
素っ気ないおれの返事にため息だけが返ってきた。そもそも覚えても意味がない。ついて行けなくなったら、ワゴン車に収監される。それだけだ。
「ほら、夜野どうした?!」と背中で坂本(さかもっ)ちゃんの声がした。振り返ると夜野が一人ぽつんと五メートルほど遅れている。
ペースは相変わらず速くない。夜野も春に比べたら力をつけている。遅れは気持ちの問題かもしれない。体力より精神への負荷が強い。
それから数分。夜野が最初の脱落者になった。
「ようし、少しペース上げていこうか」
地の底から閻魔の声。ペースが上がる。
ほどなく柔和な草食動物が肉食の鋭い牙をちらつかせるようになる。坂が少しずつ勾配を増してゆく。その牙は少しずつ確実に心肺機能に打撃を加えてゆく。
道はいつの間にかワインディング・ロードに入っていた。片側一車線のローカル道。車の交通はほとんどない。西からの陽射しが真夏の緑とアスファルトにオレンジ色の光線を浴びせている。ようやく頂きにたどり着いたかと思うと、カーブの先には次の坂が待ち受けている。新しい坂が現れるたびに、精神を包む皮が一枚一枚むしられてゆく気分だった。この連続する坂の途中で、さらに長倉先輩と斉藤がすべての皮を剥ぎ取られた。スピリットは食い尽くされた。
「よーし。いいぞー、井上。その調子だー」
井上が生き残っているのは意外だった。この場面での井上は刺激的な存在だった。井上(バクダン)より先には脱落できない―。嫌が応にもそういう意識が働く。
やがて、ようやく先生から新たな指示が出る。坂半ばにして角を曲がると、その先に下り坂が現れた。走り始めてから、かれこれ九十分―。いやもっとか。九人が生き残った。今度は一転して下り。急勾配になる。
「よし、少し歩こうか」
初めて手綱が緩んだ。
ここまで徐々に刻んできた標高を一気に下ってゆく坂は、脚への負担が大きい。合宿に来て故障を持ち帰っては元も子もない。おれはほっと息をついた。意外だったのは、北澤や和泉先輩まで安堵しているように見えたことだ。少しは人間らしいところもあるらしい。
歩いている最中は誰も口を開かなかった。あのやかましい中垣でさえ、朴念仁のように黙りこくって歩いている。
しばらく急な坂を下ってゆくと、その勾配が少しずつ緩やかになってきた。歩き始めて十分くらいは経っただろうか。距離にしておよそ一キロ。
「よーし、そろそろ行こうか!」
再び地獄の釜がふたを開いた。
走り始めはもっとも力を要する。肉体とともに気持ちのギヤも入れ直さなければならない。
十分前より体が重くなった気がする。意識の問題。ゆるんだ気持ちを張り直す。手間取るれば流れに乗り損ねて溺れ死ぬ。
井上(バクダン)がペースを取り戻せずに脱落した。歩いた分だけ回復しているはずなのに、走り始めてみると思うように体が動かない。井上(バクダン)は粘度の高い油をぶち込まれたエンジンみたいに、もっさりと重たいまま力尽きた。
一方、ペースは下り坂に合わせて自然と上がってゆく。
次に遅れ始めたのがおれだ。集団から一メートルでも後れると、たちどころに前をゆく和泉先輩の鋭い睨みが飛んでくる。その都度、おれはわずか一メートルの遅れを取り戻すために顔を歪ませた。そもそもおれは下り坂が苦手だった。下りだからといって、すべてのランナーがスピードに乗って走れるわけではない。そんな加減速が幾度か繰り返されて、さすがにもう厳しいと観念したとき、行く手に踏切が見えてきた。
鳴れ、と念じると、絶妙のタイミングで踏切が鳴り始めた。集団のスピードがそろりとゆるみ、踏切の前で全員の脚が止まった。
遮断機はない。一面の緑を裂いて、細い単線軌道をクリーム色とオレンジの染め分け車輌がのそのそと走ってくるのが見える。
立ち止まってみると、存外、息の入りは早い。遅れの原因は足腰と腕の筋肉だ。心肺機能そのものがへばったわけではない。
「小海線だな」
誰に言うでもなく、鹿沼先輩が言った。
「先輩、知ってるんすか?」と藤井。
「バカ、それくらい誰でもわかるだろ」
「まさか」と藤井が隣にいるおれを見た。
「コウミ線だろ。常識だ」
嘘をついた。名前を聞くのも初めてだった。
「嘘コケよ……」
斉藤と違ってさすがに騙されない。
風を残して列車が過ぎてゆく。一輌きりの車輌は空気を運んでいた。
踏切の音が消えると、再び川の水はゆるりと流れ始めた。ここでワゴンにいた四人が再び隊列に戻った。線路をひとつ越えて、ゴールが近づいたことを実感する。ほんの少し気持ちが軽くなる。太陽の光も時間を追ってその威力を弱め、時おり山の風が涼しく坊主頭をなでてゆく。やがて中央高速の高架をくぐり、ふたつ目の線路をわたった。周囲の景色が見覚えのある雰囲気に戻ってきた。
グラウンドに帰ってくる頃には空が群青色に変わっていた。短距離陣は引き上げたあと。グラウンドは寂しいくらいがらんとしていた。
二日目が終わった。
まだ半分にも満たない。
昨日と同じようにシャワーを浴びて、旅館に寄って晩飯を食う。宿舎に戻ってみると、大部屋にビートルズが流れていた。藤井が持ってきたラジカセだ。ここにある文明は電気と水道だけ。あとは皆無といっていい。藤井のラジカセはいわば文明の象徴みたいな存在だった。
ア・ロング・アンド・ワインディング・ロード―。
まだまだ先は長い。
5
三日目は昨日と同じように始まった。
蝉の声とラジオ体操。昨日と同じ空。
夏が過ぎゆく。
練習の行方を考えると気分は重い。
徐々に増してゆく筋肉痛は、その都度ハンデとなってのしかかってくる。昨日のロードでも後半はかなり脚にきていた。一晩寝ても疲れは抜けない。むしろ鎖を巻かれたような重さを感じる。あの坂道は想像以上のダメージを土産に置いていったようだ。
さすがにもう大掃除はない。ただ、夕方まで自由になるとも思えない。
案の定、十時過ぎになって招集命令が下った。部員全員が揃って出発。練習の準備を整えてのことだから、どこへ向かうにせよ、そのまま練習に突入する流れだ。
道中は俯きがちな部員の顔が目立つ。騒がしいのは数えるほど。長距離では藤井と中垣だけだ。こいつらだけは行きのバスからずっと元気だ。中垣はヒトよりサルに近いからまぁわかる。だが、藤井のタフさはいったいどこからやってくるのか。
「死ぬ……。絶対死ぬ……」
どこへ行くとも知れず、黙々と歩きながら斉藤の呟きが聞こえてくる。
「死なねぇよ。絶対死なないに全部」
返事はない。返す気力もないようだ。
たどり着いた場所はサントリーの工場だった。なんと、このクソ暑いさなかに工場見学をするらしい。
ふたつの四角錐の屋根を渡り廊下でつないだシンボリックな建物が、深い緑を突き破っている。ここにはウイスキーの蒸留所や博物館があるらしい。
ガイドの案内で蒸留所を見学して歩く。酒に興味はない。去年斉藤の部屋で飲んだビールだって、うまいとは思わなかった。だが、一部の部員には尋常ならざる興味をもって受け入れられた。その食いつきようは授業や練習の比ではない。斉藤は道中の死にかけた表情とは別人だった。はつらつとした表情に満ちている。
昼飯のテーブルは蒸留所併設のレストランだった。この時、先生たちがテーブルにウイスキーのグラスを乗せた。しっかり確認した。これで今日のメニューからロードの線は消えた。おれたちは黙ってうなずき合う。奇妙な連帯感だ。
なぜ合宿のメニューに蒸留所見学が組まれたのかは謎だ。ただ、この工場を出たところで、松岡先生は我々と別れてひとり帰路についた。遠くからおれたちに振った手に力が感じられず、その時の光景が蝉時雨とともになぜか焼き付いた。
練習はいつもより早く始まった。まだ三時過ぎ。陽は高い。
今日のメニューは一万メートルのロング(L)・スロー(S)・ディスタンス(D)と五千メートルのタイムトライアルを二本。昨日も二十キロ以上は走ったはずだから、これで三日連続の二十キロ超。経験のない試練だ。朝練との合計距離とはわけが違う。思った通りロードではなかったが、これはこれで相当にきつい。問題は二本のトライアルだ。千五百二本や五千一本は経験済みだが、五千二本は相当の覚悟がいる。どれだけ余力を残してトライアルに入れるか―。余計な計算が意識に割り込んでくる。
ともかく最初の一万メートルは全員が揃って走り切った。もちろん、ダメージは個々まちまちだ。余力は残しておきたいが、本番前のリハーサルで遅れるわけにはいかない。
「夜野には負けたくねぇなぁ。できれば井上(バクダン)にも」
トライアルに入るまでのインターバルは十分。各(おのおの)が自分のスタイルで準備を整える。おれと斉藤はトラックの内側をゆっくり歩いていた。車にたとえれば、エンジンをかけっぱなしの状態。座り込んだら二度とエンジンは回らない気がしていた。実際、誰も座ってない。おれは斉藤に誘われて一緒に歩き始めたが、ほとんどは一人でコンセントレーションを高めている。そして歩き始めるや斉藤がそんなことを言った。おれに宣言して、自らを奮い立たせる腹だ。そういう性格だ。
速さの序列はある日突然決まるわけではない。けれど、ある日を境にして鮮明に表層化する。この夏の練習はそのきっかけをはらんでいた。ひとたび序列が決すると、すぐにまた逆転とはなかなかいかない。こと長距離に限っていえば、メンタル面のウエイトは競技時間が長い分だけほかの種目より高いかもしれない。中学時代の経験が斉藤にその意識をいっそう強くさせるのだろう。
その不安はおれにも当てはまる。いまは中垣や藤井と差のないレベル。これが秋にどうなるか。そのきっかけは今日訪れるかもしれない。
さらにやっかいなのはグループ分けの部分だ。おれも中垣(アホ)も藤井には負けられない。この枷は重い。井上(バクダン)とて油断はならない。おそらく春から一番速くなっているのは井上だ。斉藤は負けたくないと言ったが、おそらく勝てないだろう。たぶん、斉藤自身もわかっている。
「きっとあいつらも思ってるな」
少し離れたところにいる井上(バクダン)と夜野を見やりながら、おれは違う言葉で斉藤を煽った。斉藤は途方に暮れたように天を仰ぐと、おれを置き去りにして走り始めた。腕時計に目をやると、スタート二分前だった。
「お前も意地が悪いな」
ふいに背中で声がした。振り返ると北澤がいた。
「なーに言ってんだよ」
お前ほどじゃない。
その時、スタート地点で坂本(さかもっ)ちゃんから集合の合図がかかった。
ほどなく、十二人がスタートラインに並んだ。全員が横一列に並ぶスペースはない。六人ずつ二列。並びは自然に決まった。前列内から二人の三年生と、和泉、鹿沼の二年生二人、その隣に北澤と中垣。残りの六人が後列の配置につく。おれは後列の一番外側だった。おれの前に中垣、そして斜め前に北澤の背中があった。おれはこの位置についた時点で北澤マークに決めた。いまの力で最後までいける可能性はゼロ。それでも、せめて三千までは離れずにいきたい。
スタートラインの脇で、野口先輩が雷管を握っている。長距離の練習で雷管を使うのは珍しい。先生はこれを重要なトライアルに位置づけているのかもしれない。
パンと雷管がグラウンドの空気を震わせた。
真っ先に中垣がインコースへ切れ込んでゆく。さすがアホ。上級生にもまったく頓着がない。藤井も二番手を取りに行った。
暑さとの戦い。そして各々が意識するライバルとの戦い。自分が意識する相手はおそらく向こうでも感じている。中垣と藤井のダッシュはその最初の駆け引きに思えた。
北澤は予想通りの動きをした。隣からスタートした和泉先輩の斜め後ろにつける。和泉先輩の真後ろに鹿沼先輩が入り、和泉先輩自身は前をゆく興田先輩と原田先輩を追う格好。流れの中心は二人の三年生だった。おれは北澤の背中を意識しつつ、鹿沼先輩の背後につけた。おれの後ろには井上(バクダン)がいる。おそらくマークの対象はおれ。その意識を背中に感じる。
ともかく、おれはトップ・グループに戦いを挑んでいる。もし井上(バクダン)がそこまで計算しているなら、井上にも負けるかもしれない。
一周一周がすべて正念場だった。二本目は考えないことにした。余力を残してついて行ける相手ではない。
中垣と藤井は二人で競るような形で飛ばしている。一時は集団の先頭にいる興田先輩から十メートル以上も先行する形になった。むろん不安はない。必ずバテる。バテなければ、先輩たちがバテるように動くはず。問題はその仕掛けについて行けるかだ。
早く下がってこい―。
おれは念じるような思いで、どうにか集団のケツにぶら下がっていた。前が早めにバテれば、おそらくその分だけペースの上がるタイミングは遅くなる。先輩たちが二本目を意識すれば、うまくすると四千までこのペースが続くかもしれない。
中垣と藤井のペースは二千メートルの手前あたりから鈍り始めた。先行する二人との差が詰まってゆく。
十周を終えたところで集団がつながった。それでも興田先輩は容易に中垣たちを抜かない。二人の後ろにぴったりついて、全体のペースが少しゆるんだ。おれは両腕をおろして筋肉の強ばりを解いた。
これで一息つける。
そう思った瞬間、和泉先輩がちらりと後ろを振り返った。北澤を確認し、そしてコーナーで鹿沼先輩の後ろを走るおれにも目を合わせた。
はっと思ったときにはもう先輩はギヤを変えていた。北澤が寸分違わぬタイミングで和泉先輩を追随する。興田先輩と原田先輩の反応も早い。ワンテンポ遅れて鹿沼先輩が続き、中垣と藤井は一瞬にして五人に抜き去られた。
おれだけが気後れした。一瞬の迷いがあった。ここで一気にペースを上げたら、最後までもたない。
「ほれ! どうした大村!!」
予期しないところから声が飛んできた。坂本(さかもっ)ちゃんだ。トラックの内側から鋭い檄が飛んでくる。
おれは反射的にギアを上げていた。おれの後ろ数メートルの圏内で我慢していた井上(バクダン)の足音がすっと遠のいた。
中垣と藤井を抜く。
抜くときは一気に抜く。相手のやる気をへし折るつもりで抜く。でも、今日の決意はそれほど強固ではなかった。抜かれた五人と違い、対抗意識もある。背後には井上も控えている。井上には一瞬たりとも抜かせまいとする意地があるだろう。中垣と藤井は粘っこくおれの背後に張り付いてきた。
ここからは和泉先輩が集団を引っ張る形になった。ペースは一段階上がった。ただ、激流ではない。まるでおれに合わせるかのようにコントロールされた流れ。離させず、さりとて楽もさせない。限界値の水位が首元に向かってぐんぐん上がってくる。
ともかく三千までは乗り切った。そしてここから周回遅れが出始める。夜野の力不足は明白。故障がちの長倉先輩も走り込み不足。
四千を過ぎる。さらにペースが上がる。二人の三年生と北澤がきちんと反応した。鹿沼先輩は余力がない。四人の後ろをようやく追いかけている。おれはついて行けなかった。中垣と藤井にいたっては前半の飛ばしすぎがたたっている。おれのの後ろで少しづつ靴音が遠くなっている。とはいえ、こっちも楽ではない。筋肉痛が脚を引っ張り始めている。
残り千を切っている。ここで弱気は見せられない。へばっていると悟られたらひっくり返される。前半で無駄に消耗している二人には負けられない。その敗北は完全な実力差につながる。ひたすら前だけに意識を集中した。鹿沼先輩が少しずつ遅れ始めている。格好の目標。
残り三周を切る。おれはバックストレッチで先輩との差を一気に詰めた。その背後に張り付く。さらに前の四人はずっと先にいる。その差はこの瞬間にも刻々と開いている。
息は上がっている。ここでスパートをかけられたらついて行く術はない。それでも鹿沼先輩ならこの場面で厳しい仕掛けはしないはず。可能性は低いと思った。おれは体中に散らばった小さな力をかき集め、自らに負荷をかけ続けた。最後の一周になっても抜こうとは思わなかった。
しかし先輩のペースがいっこうに変わらない。
つい、その気になった。外側から並びかける。そこでようやく鹿沼先輩がスパートした。最後まで競り合う形。ゴールラインでは先輩が身体半分前だった。
驚いたことに、そのすぐ後ろに中垣が猛然と追い込んできていた。アホにもほどがある。ペース配分さえ意識すれば、もっと速く走れるだろうに。しかしこの武器はやはり怖い。もし最後までだらだら走っていたら、ゴール前で抜かれていただろう。藤井は完全に突き放されていた。
そしてもう一本。
余力はない。この暑さに加え、大腿部を締め付ける筋肉痛が気持ちまで萎ませる。ここでもインターバルは十分。座り込めば、身体全体の機能が活動を停止しそうだった。ただ漫然とトラックの内側を歩き回って時間をやり過ごす。寡黙な十分はあっという間に過ぎ去った。
スタートラインの並びは一本目から微妙に変化した。中垣が後列に下がった。藤井も下がった。今回も藤井は中垣をマークする作戦のようだ。余った前列にはおれが押し出された。
「スタートから行くぞ」
隣で北澤が呟くように言った。
おれはため息をついた。ついてこいと言わんばかりだ。従う義務はないが無視できない。ハナから消極的にいった挙げ句にぐずぐずになれば、かろうじて面目を保った一本目の価値まで失墜する。それを見越して言っているのが腹立たしい。
二度目の雷管が鳴った。
北澤がダッシュよく飛び出した。
このまま放っておいたら怒るだろうな―。地味に。きっとしばらくは口をきいてくれないだろう。この男は自分の野望にとことんどん欲だ。普通ならいやな野郎になるところだが、こいつの場合、気持ちが純粋すぎるから毒がない。結果として駅伝なんかにほとんど興味のなかったおれでさえ、心のどこかに十一月を置くようになっている。
やむを得ず続く。まるで一本目の中垣と藤井のコピーだ。
背後に和泉先輩が張り付き、それに興田、原田、鹿沼先輩が続く。中垣と藤井もすぐ直後にいるはずだ。背中に感じるプレッシャーがきつい。
一周目を四十五秒そこそこで通過した。かなり速い。千メートル三分、五千メートル十五分。ただ、一本目の中垣みたいな鉄砲玉ではない。北澤は二周目でペースを落とした。すでに隊列は縦長になっている。全員が最内の部分を一列縦隊で走る格好になった。おれにとってはそれでもまだ速い。
ただ、流れはできあがっていた。一本目と違うのは、全体の流れが速いことだ。前に北澤、後ろには和泉先輩が控えている。少しでも北澤から離れたら、背後で怒鳴り声が上がるに違いない。もはやペースも作戦もない。行けるところまで行って、潰れたらそれまでだ。腹をくくった。
三周目で早くも息が上がり始めて、北澤の背中が遠のきかける。すると背後にいる和泉先輩がわずかに走路の軸をずらして斜め後ろからおれの背中を押した。
「離れるな!」と罵声に近い声が飛んだ。
拷問だな、と思う。
最初の千を三分十秒で通過した。十五分五十秒のペース。当然、あり得ない。うちの部に十五分台で走れるランナーはいない。一本目の時計は十七分二十八秒。二十秒も速いラップになる。
速い―。
その意識が弱気につながる。
再び、先輩の手が背中を押す。
二千の時計、六分二十五秒。まだ速い。おそらく全員が追走にいっぱい。それでも興田、原田、和泉の三先輩は後半に動くだろう。ただ、このペースだとそれほど余力はないかもしれない。暑さのダメージが大きい。そう願いたい。その後ろに控える鹿沼先輩はいつもながらそつがない。よく言えば臨機応変。悪く言えば積極性に欠ける。自分からは動かないだろう。ペース自体も落ち始めている。
相手に中垣と藤井を考えたとき、いまの均衡は最善だった。たしかにきついが、リズムは一定。乱れがない。この状況では中垣も藤井もむやみに動けない。おそらく最初に動くのは和泉先輩だ。いまはおれのお守りにつきあっているだけだ。
三千メートルを九分五十秒で通過。中学時代のベストに近い。一本目はどれくらいで通過したっけ? 考えるのも億劫だった。脚も上がらなくなってきている。
おれはコーナーで後ろを振り返った。先輩たちの背後で中垣も藤井もまだがんばっている。この二人が残っている限り脱落は許されない。
とはいえ、絶対能力はいかんともしがたい。いくらがんばったって自転車はバイクに勝てない。カメがウサギに勝てるのは、ウサギが手を抜いた時だけ。自転車がバイクに勝てるのはガス欠の時だけだ。
限界が訪れた。四千を前にしておれはペースを保てなくなっていった。脚も腕もなめらかな動作を失った。関節に錆び付いた血液が流れ込んでいるような気分だ。
さすがに先輩もあきらめたのか、ぽんぽんと二度おれの背中を叩いた。そして楽々と外をまくって離れかけている北澤の背に追いすがってゆく。太刀打ちできない山。ことあるごとにそれを思い知らされる。
流れが一変した。
ついて行けないおれは外側からわっと抜き去られた。そこには中垣と藤井の姿もある。それを見てなお体は反応しない。気力だけではどうにもならない。意識が筋肉を突き動かすことはなかった。ただ、中垣にせよ藤井にせよ、中身はおれとさほど変わらない。勢いでおれを抜いても突き放す余力はない。要は抜かれたあとだ。踏みとどまればチャンスは残る。忍耐には解(ほど)ける境界線がある。その線を踏み越えた瞬間に、脚はゼンマイが切れたように動きを失ってしまう。
残り千メートルを切った。
先輩たちと北澤はすでにコーナーふたつ分先にいた。中垣と藤井はまだほんの数メートル前。おれはどうにか踏みとどまっていた。残り三分耐えれば終わる。奴らの背中を敵(かたき)のようににらみ付けて走った。
最後の一周で併走する中垣と藤井が競ってペースを上げた。おれも続こうとしたが、身体を接していない分だけ気持ちがついていかない。それでも中垣がアホみたいな瞬発力で藤井を突き放してくれれば、藤井くらいは逆転できるかもしれない。そう思っていたが、さすがの中垣(アホ)にも余力の持ち合わせはなかったようだ。競り合いが最後まで続いて、最後の直線でかろうじて藤井を振り切った。
おれは少し遅れた。遅れは五秒。
時計は十七分四十秒。後半の二千で七分五十秒かかった計算になる。千メートル三分五十五秒。大失速だ。全体の時計は一本目とさほど変わらないが、中身は大きく異なる。内容の濃さは判断できない。
負けた―。
それだけだ。
6
合宿四日目。
事実上の最終日。明日は帰り支度をして、昼前にはバスに乗る。
この日は始めて夕方までフリーになった。朝食が終わったあとは畳敷きの大部屋でごろごろと過ごした。動こうにも動けなかった。全身の筋肉が強ばり、わずかな動きにも筋肉の繊維が敏感に痛みを訴える。こんな感じで果たしてこなせるかどうか。すでに練習メニューは周知されている。トラック百二十周。締めにふさわしい拷問だ。
三万メートル。
未知の数字。
ただでさえ心許ない距離を、筋肉痛のハンデをおして走りきれるかどうか。不安とも重圧ともつかない憂鬱が、ぼんやりと頭を支配し続けた。
「その割にはずいぶん気持ちよさ気に寝てたじゃないか」
スタートラインで北澤が嫌みを言う。蝉の声がやけにうるさい。
さすがに今日の昼間は北澤も和泉先輩も声を掛けてこなかった。でも、おそらくこの二人は散歩に出掛けている。午前中に姿がなかった。
夕方、今日も長距離グループは少し早めの練習開始になった。短距離グループがようやくグラウンドに姿を現した頃、おれたちはそろりと三万メートルのスタートを切った。
最初の一万メートルまでは揃って走り、その先はフリーだった。千メートル五分のペースで一万メートル五十分。同じペースで走れば二時間二十分。だが、いまの体調ではペース落ちは確実だ。ペース落ちは問題ない。問題はどこまで落ちるかだ。三時間以内なら御の字。それとてけっこう厳しいハードルだ。
野口先輩が水道の蛇口から引っ張ってきたホースで、雨のようなシャワーをコースに撒いている。その下をくぐり抜けると、わずかに身体の体温が下がるようで心地よかった。シャワーが作るカーブの向こうに小さな虹が見える。昼間、十分に休息を取ったせいか、昨日に比べれば心身ともに幾分ゆとりがある。一万メートルまではペースも速くなかったので、ストレスもプレッシャーもさほど膨らまずに済んだ。
問題はその先。あからさまにピッチを上げる者はいなかった。距離に対する不安は全員共通。あの和泉先輩でさえ慎重だった。集団は多少縦長になったものの、完全にはバラけない。
「どうした! 和泉!!」
フリーになって二千メートルが平穏に流れたところで、坂本(さかもっ)ちゃんがハッパをかけた。先生が和泉先輩に活を入れるのは珍しい。初めて聞いた。その号令ひとつでに流れが変わった。和泉先輩も単純だ。それまで集団を先導していた興田先輩と原田先輩をぐいっと外側から交わして先頭に立つと、そのままのスピードを維持してペースを握った。むろん、先輩たちが漫然と見送るわけがない。決壊したダムのように集団は崩壊した。
こっちとしては「あぁ、行っちまった……」という気分だ。気後れ。不安。重圧。それでもペースは少し上がる。
北澤と中垣と藤井が先輩たちのすぐ後ろを追いかけてゆく。おれも遅れずについて行こうとするが、腿の筋肉が引きつるように脚を引っ張る。
呼吸はつらくない。まだ、いける。両の腿をむち打つように叩いた。ここで離れるわけにはいかない。振り返ると、すぐ後ろに井上(バクダン)がいた。北澤を追うどころか、後ろから尻を噛まれかねない状況だった。
おれは五メートルほど前を走っている藤井の背中を睨み続けた。この隙間を埋める作業はそう簡単ではない。一周につきコンマ五秒速く走れば、数周のうちに追いつける。しかしその差は詰まるどころか離れている。
七十周を過ぎたところで、先頭との差はすでに前よりも背中に迫っていた。相変わらず和泉先輩が流れを引っ張っている。そこに興田、原田の両先輩と北澤が続いて、この四人がグループを形成している。その後ろに鹿沼先輩、中垣、そして藤井と続く。ここはそれぞれ単走の形でピッチが上がらない。おれはといえば、終始井上の足音に脅迫され続けている。いつでも抜ける、と言わんばかりの気迫が伝わってくる。
八十周を迎える手前で先頭集団に追い抜かれた。周回遅れ。井上(バクダン)が動いたのはその直後だった。
井上は向こう正面の直線に入ったところで外側に進路をとると、三コーナーまでの直線で一気におれの前へ出た。
おそらく井上自身が拍子抜けしたはずだ。それくらいあっさりパッシングされた。おれは競り合わなかった。距離はまだ一万も残っている。相手が井上でも張り合う勇気がわいてこない。
トラックの外周部分では短距離グループがリレーの練習を始めていた。青井菜幹の笑顔が背中に飛んでゆく。普段ならまずそんな練習風景は目に入らない。集中力が散漫になっている。
「どうした大村! もっと前に行かんか!!」
ふいに坂本ちゃんの声が飛び込んできた。おれは反射的にエンジンをふかす。その勢いだけで井上を追い抜いた。
筋肉はスローダウンの訴えを脳に送り続けている。脚はまったく上がらない。余力があるのは呼吸だけだ。エンジンの性能にタイヤが負けている。それでもアクセルを踏み続ける。行けるところまで行くしかない。なぜか坂本(さかもつ)ちゃんの声にはその種の念力じみた力があるようだ。
井上はついてこれなかった。わずか数周前までの余裕がすっかりどこかへ奪い去られていた。不思議とは思わなかった。同じような経験は何度もしている。逆にここで競り込まれていたら、おれは苦しくなっただろう。その時点で競う面での三万メートルは終わっていたかもしれない。この合宿ではたびたび運が味方してくれる。生かし切りたいところだ。
ともかく井上はついてこれなかった。井上を置き去りにして、徐々に前をゆく藤井との差を詰めてゆく。自分が思っていたよりも走れていることに、正直、少し驚いていた。足は重たいままだが、踏み出してみると案外にも限界はまだ少し先の感じだ。
それまで離されつつあった藤井のケツに、おれは一周のうちに追いすがった。藤井が驚いたような目で後ろを振り返った。おれはペースを崩さず、藤井に並びかけていった。藤井もスピードを上げて容易には抜かせない。無理に抜く気はなかった。まだ先は長い。だが、結果としてペースは上がった。そのまま中垣を巻き込んでゆく。さらに先にいた鹿沼先輩まで吸収して、四人の集団が出来上がった。この時点で残り七千。
一度沼に脚を踏み入れたら、沈む前に次の一歩を踏み出すしかない。躊躇すれば、泥は容赦なく脚にからみつき、その粘りけのある重みで力を奪いにくる。
呼吸は急激に危うい方向に傾いた。いま誰かが仕掛ければ、きっとおれは置いていかれる。わかりきったことだ。その瞬間はあと数周のうちにやってくるかもしれない。
いずれにしても、おそらく中垣だ。
中垣(アホ)にはペースも流れも関係ない。その時点で行けると思ったら躊躇なく動く。たとえ余力がなくても動く。そうなったらおれは脱落するしかない。脆弱な体力。ひ弱な精神。
策はひとつしかない。先手を打ってバラす。バラけたあとは各個の余力次第だ。足りなければビリになる。壊した当人が殿になるのは最悪だ。それでも中垣(アホ)の主導でバラけるよりは可能性がある。
バックストレッチの入口でおれはペースを上げた。中垣と鹿沼先輩を一気に抜き去る。
この動きに中垣が乗ってきた。思惑通り。外側からかぶせたおれを内に入れまいとペースを上げてくる。藤井と鹿沼先輩はこの安易な誘いに同調しなかった。勝負所はまだ先。まっとうな判断。
おれと中垣で二人との差を広げてゆく。おれに合わせて、さらに中垣がペースアップする。さすがにきつい。呼吸よりも脚だ。腿が上がらない。それでもさらに一周同じペースでとばす。それだけで鹿沼先輩たちとの差が一気に五十メートルまで広がった。いかにペースが遅かったかの証明。セーブしていた証拠。そうでなければこんなちぎれ方はあり得ない。おれと中垣にできることは、先輩と藤井にもできる。この三万メートルを競うか否か。違いはそこだけだ。
おれは中垣の後ろに入った。状況は二対二の関係に変わった。当然、おれと中垣は苦しい。しかしこっちからケンカを仕掛けている以上、返り討ちには遭いたくない。その点では中垣も同じ考えのはずだ。合宿四日目。きついのはみんな一緒だ。気持ちで負けるな。それだけを繰り返し唱えて走った。
走り始めたときにはまだ高い場所から射すようにぎらついていた太陽も、いまは稜線の雲に隠れて夏の終わりの光を柔らかく落としている。スタートした時間がもうはるか昔のことに思える。喧しく鳴いていた蝉が沈黙し、赤とんぼが空中を漂っている。
百周を超えた。残り五千。ゴールを意識し始める。
ほどなく、三人の先輩たちと北澤がもう一度おれたちを抜いた。二周遅れ。固まりはばらけていた。個々の争いになっている。最初に興田先輩が行き、そのあとを和泉先輩。すぐ後ろを原田先輩が追走している。北澤は少し遅れ気味だった。四人の脚にももはや躍動感はない。それでもおれたちのそれとはウマとウシ。中垣もアクションを起こさなかった。アホにも限界があるらしい。
鹿沼先輩と藤井は半周後ろを膠着状態で走っていた。この様子なら追いつかれる心配はない。前では北澤が徐々に置き去りにされつつある。やはり三年生と和泉先輩の力は抜けている。いまのペースだと三周遅れもあり得る。あらがう余力はない。走りきること以上の目標はもはやない。
残り千五百で三周遅れになった。残り千で北澤にも三週遅れ。
最後の一周になっても走りは地味なままだった。おれも、そして中垣もまったくアクションを起こせなかった。おれは中垣の背後にいながら、ギアを切り替えられない。そのままの形でだらだらとゴールした。
結局、前の四人から三周以上も離された。藤井と鹿沼先輩も後方百メートルを保ったままゴール。藤井はともかく、鹿沼先輩は意外なほど淡泊だった。もともと長距離指向の人ではないから、ハナからこの距離で張り合う気はなかったのかもしれない。しかしおれにとってこの先着は収穫だった。長距離なら粘り方次第で鹿沼先輩に対抗できる。
いずれにしても、いまの能力と弱さがはっきり見えた。この合宿はそんなことばかりの四日間だった。
7
その夜は夏の終わりを思わせる涼しい風が吹いていた。松岡先生が軒下に吊していった青銅の風鈴が、りん、りん、と穏やかな音で夏の終わりを告げていた。
旅館で入浴と食事を済ませた青井菜幹は、一足早くまだ誰もいない部屋に戻ってきた。帰り道の自動販売機で普段は口にしないコーラを買った。
初めての合宿が終わった。
安堵感なのかな―、と菜幹は思いつつプルトップを引いた。
窓のそとで虫たちがさわさわと鳴いている。
菜幹は蚊取り線香に火をつけると、小さな縁側の窓を開けて、その軒に腰を下ろした。
縁側の前は小さな庭になっていて、その先はなだらかな傾斜を形作る林だった。うっそうと生い茂る木々の奥が真っ黒な闇に包まれている。
菜幹はほっと息をつき、コーラの缶に口をつけた。足と腕が心地よい筋肉痛にほてっていた。それはそのまま充実感という言葉に置き換えられる。
菜幹は目をつむり、風鈴と虫の音に耳を澄ました。
疲れからふっと意識が遠のきそうになる。
その時、背中でからりと襖の開く音がした。
「あぁ、やっぱり先に戻ってたんだ」
遠見了子だった。手にはやはりコーラの缶がある。
「うん。ちょっと疲れた」
「そうね。わたしも」
そう言って、了子は菜幹の隣に座った。
「なんだ、菜幹も買ってきたんだ」
菜幹は自分のコーラを顔の横に持ち上げた。
「普段は飲まないんだけどね」
「わたしなんて、この四日間毎日飲んでたわ」
了子はごくりと喉を鳴らしてコーラを流し込んだ。
「わたし、秋から幅跳びに転向するわ」
了子は唐突に言った。
「幅跳び?」
菜幹は少し驚いたように聞き返した。
「そう」
毅然とした了子の表情を見て、菜幹は瞬時に言おうとした言葉を呑み込んだ。
領南高校の女子陸上部員は六人しかいない。そのうちの一人が投擲競技専門で、もう一人が高飛び。短距離の専門は四人だけだった。了子が抜けると女子の短距離はリレーを組めなくなる。
「安心なさい。中心を幅跳びに移すだけだから」
了子は先回りするように答えた。
「うん」
どうして?とは菜幹も訊かない。
たぶんそれはわたしのせい―。それに気づかないほど鈍感ではない。
「ねぇ―」と了子がいかにも違う話題を切り出すように声のトーンを変えた。
「うん?」
「菜幹はさ、北澤のことが好きなんでしょ?」
思わず菜幹は息を飲んだ。
「な……なに言ってんのよ!」
「あら、違うの?」
菜幹は耳の後ろがかっと熱くなるのを感じた。
「そんなわけないでしょ」と声が小さくなる。
「じゃあ、いいわね」
「え? なにが?」
「決まってるじゃない」
菜幹はどう答えていいのかわからなくなった。了子が北澤を気にしているなんて、考えてもみなかった。ぼんやりとした視線が月明かりにほの暗く照らされた林の入口をさまよう。虫の声も風鈴の音も急に遠のいていく気がした。
わたしは北澤のことが好きなんだろうか―。
それは菜幹にとって初めての意識だった。そしてその感覚は目の前に広がる林のように暗い漆黒に閉ざされている。
「ウソよ」
「……え?」
「ウソに決まってるじゃない。本気にしないでよ。菜幹はホント、いい娘(こ)だね」
「バカにしてんの?」
菜幹は口をとがらせた。闇は一瞬のうちに霧散した。
「あら、褒めてるのよ」
「どうだか……」
菜幹はため息をついて、赤い缶に口をつけた。
「わたしね、夜野とつきあおうかと思ってるの」
さらりと言った了子の言葉に、菜幹は声を詰まらせた。
「意外?」
黙ったままの菜幹に了子は笑いかけた。
「……夜野くん?」
「意外よねぇ。やっぱり……」
了子は抱えた膝を落ち着きなさそうにふらふらと揺らした。
「言われたの?」
「まさか」
「じゃ、了子から?」
「まぁ。……そうね」
菜幹は先の言葉を継げなくなった。
沈黙のなかを、りー、りー、りーとスズムシの声が通り過ぎてゆく。りん、と風鈴が鳴る。と、襖の向こうがにわかに騒がしくなった。中垣たちがどやどやと引き上げてきたらしい。
「うるさい奴らが帰ってきたわね」と、それを機に了子は立ち上がった。
「あいつらには内緒よ」
菜幹は襖の向こうに出て行く了子を座ったままの姿勢で見送った。
かなわないな―、と思う。
走ることをのぞけば、了子には何ひとつ勝てない。了子は目の前にあるハードルをこともなげに跳び越えて、どんどん次の目標に向かってゆく。
菜幹は空に浮かぶ丸い月をぼんやりと見上げ、ふうっとため息をついた。月が「ダメね」と嘲笑しているような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます