第6話 八月

   1


 夏休みの練習は夕方からの約二時間。中身は普段と同じ。炎天下を避けた時間割りだ。他の運動部は昼間に練習しているのか、あるいは完全に休みのどちらかだ。グラウンドはいつも貸し切りだった。

 変化といえば、夏休みに入って新しい練習メニューが加わった。ビルドアップだ。千メートル単位で少しずつペースアップしていき、四回アップしたあとに再び最初のペースに戻る。四千メートルを一セットにして、四セット十六キロ。インターバル走の要素も加わった変則ビルドアップ。

 メンバーはふたつに分けられた。速いグループと遅いグループ。速いほうは興田、原田、和泉、鹿沼の各先輩に北澤を加えた五人。それ以外は遅いグループ。速いほうのタイム設定は四分から二十秒刻みで三分ジャストまでタイムが上がる。遅いほうは四分二十秒から二十秒刻み。三千メートルでちょうど一分の差になる。この時点で速いグループとはトラック約一周分の差になる。わずか二百五十メートルとはいえ、トラック一周分の重みは夏休み前の一件で思い知らされている。遅いグループに入るのは複雑な気分だった。きつい練習はしたくないのに悔しい。不本意な気分。面倒くさい感情。

 そしていわゆるこのBグループのなかで、中垣だけがあからさまに閉口の態度を示した。自分はAでも十分やれるつもりらしい。身の程知らず。Aグループに行きたければ、力で証明するしかない。

 実際、初めてのビルドアップはBグループでもかなりきつかった。二セット目までは楽にいけたが、残り半分はペース・チェンジの度にプレッシャーを感じた。設定タイムから遅れれば、練習効果は半減する。たとえペースダウンしたところで追いついても、次のペースアップで必ずそのツケを支払う羽目になる。

 ビルドアップによって練習の質に幅ができたことはたしかだ。中学時代も含め、これまでは試合以外でラップを意識することなどなかった。この練習にはペース感を養う効果もありそうだ。

 それにしても―。

 入学当初に比べて練習の質が急速に高まっている。夏合宿も創部以来今年でまだ二度目のことらしい。気のせいではないだろう。おれたち八期の入部を境にして、練習内容の底上げは確実に進行している。その証拠かのように、花岡先輩は完全に消えた。この手の話題にもっとも厳しいのが中垣だ。

「練習がきつくてやめたに違いねぇ」

 この時ばかりはおれも同じ考えだった。もちろん部活をやめたからといって、台無しの未来が待ち構えているわけではない。やめたいならやめたらいい。やめて得る利もある。おれが中学でバスケットをやめて得た教訓のひとつだ。




   2


 八月以降、三勤一休で進んできた練習は、合宿前に一段落がついた。お盆前。夏休み最後の三連休。合宿を前に体調を整えさせる思惑だろうが、そうはいかない。夏休みは練習を中心に回っているわけではない。おれたちはこの休みを使って江ノ島へ出掛けることにした。

 七人全員参加。部活を離れて全員一緒に動くのは初めてだ。最初で最後かもしれない。

 もちろん藤井の提案だ。

 みんなで遊びに行こう―。

 春当初ならあり得なかった。それが意外とすんなり決まった。理由はいくつかあるが、一番の理由は丸坊主になったせいだろう。七人には奇妙な連帯感が育ちつつあった。井上(バクダン)だけは最後まで渋っていたが、最後は藤井が切り札を使って引きずり込んだ。この七人になぜか青井菜幹と遠見了子の女子短距離の二人が加わって、合わせて九人という奇妙な取り合わせになった。




   3


 その朝、藤井は嬉々としてエンジンに火を入れた。大学に通う姉のホンダCB250RS-ZR。赤白のホンダカラーをまとった限定バージョン。

 キック一発でエンジンはダダダンと空気を叩いた。

 当日は朝から三十度を超える真夏日。九人は三つのグループに分かれて現地で落ち合う手はずだった。大村と斉藤が小田急組で、藤井と井上を除く五人が国鉄組。そしてバイク組が二人。この藤井の切り札で井上は落ちた。

 藤井は期末試験終了後から教習所へ通い始めた。そこから一ヶ月で中型二輪免許の教程を卒業した。部活のある日も、雨の降る日も厭わず、精力的に通い続けた。藤井が江ノ島までバイクで行くこと。それが井上の取引条件だった。そして免許証が交付されたのは昨日。ぎりぎりのタイミングだった。

 空冷四サイクル単気筒のロードスポーツ。細身のダイヤモンドフレームに角形のヘッドライト。タンクやウィンカー、メーター周りなど、全体的に角張った押し出し感が強い。藤井の姉が大学の入学祝いで頭金を出してもらい、三十六回払いで購入したバイクだ。野太い単気筒のエンジン音は、女性にはそぐわない取り合わせだが、藤井の姉はそれを軽々と乗りこなす身長と体力を備えていた。

 藤井が井上の店前にCBを横付けにすると、その音で井上がのそりと家から出てきた。井上モータース。井上の家はバイク屋を経営している。

「よぉ」の一言すらない。ただ、普段の仏頂面から珍しく険しさが消えている。

 井上はCBの横に座り込み、タンクの下に載っているエンジンをひとしきり眺めた。

「買ってどれくらいだ?」

「一年ちょっとかな」

「きれいに手入れしてるな」

 井上はチェーンの汚れを確認し、タイヤの減り具合やメーターの走行距離などをチェックした。

「メンテは店とおれ任せだけどな」

 その声を背中で聞きながら、井上は店のガレージからRZを引っ張り出した。

「おぉ、ホンモノのRZだ。すっげーな」

 藤井は興奮気味にRZに顔を寄せた。白いボディに赤いストライプの入ったシンプルなカラーリング。ボディのデザインはまさしくレーサーそのもののイメージだった。保安部品を外してフルカウルをまとえば、そのままサーキットを走れそうなスタイル。発売以来の人気でなかなか手に入らないモデルだ。

「ゆっくり行く。事故ったらシャレにならねぇからな」

 井上にしてはめったにない饒舌ぶりだった。

 普段ならあり得ないが、ここでは井上が主導権を握った。藤井が前を走り、井上がそのペースに合わせて追走した。

 夏の国道134号線は平日土日の別なく激しい渋滞に見舞われる。必然、バイクは路肩をすり抜けるようにして渋滞を交わしてゆく。だが、井上はすり抜けを許さなかった。車と同じペースで渋滞にはまる。

「おい。路肩、走らねぇのか?」

 藤井はヘルメットのバイザーを持ち上げて叫んだ。井上はバイザー越しにチラリと藤井に視線を向けただけだった。藤井はため息をついた。逆らってバイクを路肩に進めたら、Uターンして帰りかねない。

 これは遅刻だな、と藤井は腹をくくった。

 結局、江ノ島に着いたときには、約束から一時間近くが過ぎていた。待ち合わせの江ノ島駅前では、夜野が一人で待っていた。

「悪ぃ悪ぃ。道混んでてさ」と藤井はさして悪びれたふうもなく謝った。夜野はただ首を横に振って応えた。

「他の奴らは?」

「先に行ってるよ」

「お前一人でずっと待ってたのか?」

 遅刻を棚に上げて、瞬間的に腹が立った

「うん、交代でね。おれは二番目」

「二番目? 最初は?」

「中垣」

「へーえ、よくあいつがそんな役引き受けたな」

「ジャンケンで負けたんだよ」

「……なーるほどな」

「かなり怒ってるよ」

「ま、大丈夫。心配すんなって」

 藤井は飄々と答えて夜野の肩を叩いた。そしてその一方でホッとしていた。自分がそんなふうに感じたのは、夜野がクラスであまりうまくいってないと耳にしたからかもしれない。少なくとも部活内ではそんな兆候は欠片もない。藤井は自分のばかばかしい思いを振り払った。

 バイクは江ノ島のヨットハーバー脇にある駐車場に置いた。江ノ島大橋の袂にはバイクや自転車が波打つように並んでいたが、井上はイタズラを嫌った。その分だけさらに夜野を待たせることになった。藤井はその駄賃にマウンテンデューを奢った。

 夜野の案内で東浜の海岸に下りた。

「あいつら、もう泳いでんのか?」と藤井は訊いた。

「だと思うよ」

「中垣と大村はうまくやってるか?」

「平気だよ。斉藤がいるし」

 そんな二人のやりとりにも井上は我関せずだった。聞いてさえいないようだ。

「それにしても見事なハゲだな」と藤井は話題を変えた。横を歩く井上の頭に視線を移す。

「お前だってハゲだろう」と井上の反応は過敏に早い。

「しかしよかったなぁ。爆弾が無事撤去されて。なぁ」と藤井は夜野を振り返った。

「うん。そうだね」

「乗るんじゃねぇよ!」

 井上は厳しい顔で夜野を睨んだ。

「ご…ごめん……」と夜野は反射的に答えていた。それを聞いて、藤井は笑いながら夜野の肩を叩いた。

「バカ、本気にすんなよ」

「あ…うん……」と夜野は恥ずかしげにうなずいた。

「本気で言ってるぞ」と井上が低い声で言う。藤井はふうんという感じで井上を見た。まともにつきあう気はない。おそらく言った井上もそう思っている。

「陣地はどこだ?」

 砂浜には所狭しとビニールシートが敷かれ、ビーチパラソルがそこここに傘を開いている。歩くことさえそれらを縫いつつだった。

「ほら、そこだよ」と先頭を歩く夜野が指さした先に、水着姿の遠見了子がいた。

 了子は真っ赤なビキニの上に薄手の白い前ボタンシャツを羽織り、セルロイドのサングラスをかけてシートに寝そべっていた。普段はポニーテイルにまとめている髪を下ろした姿がやけに大人びて見える。

「へーえ。かっこいいじゃん」と藤井が言いかけた目の前を横切って、日焼けした若い男が二人、まっすぐ了子に向かって歩いていった。

「ねぇ、ひとり?」と片方が了子に声をかけた。ビキニパンツにムキムキの筋肉質体型。長髪で真っ黒に焼けている。

「そう見える?」

 了子は気軽に返した。

「一緒に遊ばない? 男二人じゃつまんなくてさー」

「そうねぇ……」と了子はサングラスの奥で笑顔を作った。

「おなか空いてない? まだならごちそうするよ」ともう一人が言う。

「そうねぇ……」

「な、行こうよ」

「どうする?」とふいに了子はビキニパンツの背後に顔を向けた。

「おごってくれんならつきあうよ」

 藤井は臆することなく答えた。

 ぎくりと振り返った二人の背後に、三人の坊主頭が立っていた。

「チ、ガキか……」

 片方が舌打ち混じりにつぶやいた。

 藤井の横で井上が鋭い睨みを浴びせている。

 二人の男は顔を見合わせて肩をすくめると、消え入るようにモザイク模様の人波に紛れていった。

「おれたちがいるの知っててからかっただろ?」と藤井はサングラスの奥をのぞき込むように、じろりと了子を見下ろした。

 藤井と了子は同じ中学出身だった。もちろん部活も三年間一緒。三年の時にはクラスまで同じだった。こういう人を食った遊びをする傾向は中学時代からあった。

「悪い?」

「かわいくね……」

 藤井は苦り切った顔で舌打ちした。

「北澤たちは?」

「決まってるじゃない」と了子は海のほうにサングラスの視線を向けた。

「ボート借りてったから少し沖のほうかもね」

「で、お前はなにしてんだよ」

「荷物番」

「お前が?」と言ってから、ははぁアレか、と思い当たる。自ら進んで荷物番を買うような性格ではない。

 その顔がおもむろに砂を浴びた。藤井は「わっ」と顔を背けた。

「なに考えてんのよ。違うわよ」と了子は先回りして答えた。

「早く行きなさいよ!」

「行かないのか?」

「行かないわよ!」

「ふーん、珍しいな」

 藤井は納得がいかない。

「ばーか。ねぇ、夜野くん、悪いけど海行く前に飲み物買ってきてくれる?」

「お前さぁ、夜野をパシリに使うのやめろよな」

「いいじゃない。じゃあ、誰が荷物番するのよ」

「いいよ、いってくるよ。なにがいいの?」

「炭酸入ってなければなんでも」

「ふっ。ガキだな」

「あんたらうるさいわよ。早く行っちゃいなさいよ!」

 了子は追い払うように藤井と井上に砂を飛ばした。

「夜野、こっからまっすぐ沖に出たとこ目指してこいよ」

「うん。追いかけるよ」と夜野はうなずいた。

「おれはなにも言ってねぇのによ……」

 煽りで砂をかぶった井上は、納得のいかない表情でたった一言呟いた。


 沖では斉藤明が大げさなため息をついていた。

 青空を仰ぎ見る。

 空はカッと暑い陽射しにまみれていた。凪いだ海にヨット。水平線には積乱雲が天を突いている。こんなにも夏らしい海まできて、なんでこいつらはいつもこうなんだ―、と思う。

 レンタルしたゴムボートには青井菜幹が一人転がって昼寝をしていた。了子の派手なビキニと違い、濃いブルーに細いボーダーラインの入った地味なワンピース。にもかかわらず、菜幹が着ると水着はにわかに存在感を主張し、華やいだ色を醸し出す。華美な水着よりもむしろ際だつようだった。その菜幹の脇では、北澤もボートのヘリに身を預けて寝ていた。リラックスというよりむしろ腑抜けに近い。

 そっちはいい―、と斉藤は思う。

 問題は大村と中垣だった。

 海に入ってから一言も交わさないうちはまだよかった。ところが些細なきっかけからまたやり合いになった。

「おい北澤、浜まで競争しようぜ」と中垣は遠くに見える浜に視線を向けて言った。

 北澤はその腑抜けの表情を申し訳程度に傾けた。

「バーカ、水泳でお前と勝負なんてするもんか」とまるでやる気がない。

 中垣はちっと舌打ちすると、その対象を斉藤に向けた。

「おい斉藤(チョッパゲ)、やろうぜ。もしお前が勝ったらコーラ奢ってやるよ」

「おれ、泳ぐの苦手でさ。浜にたどり着く前に土左衛門」

「ちぇ、どいつもこいつもよー」と最後に大村を見てため息をつく。

「格下相手に勝っても張り合いねーしな……」

「なに?」

 大村も相手にするつもりはなかったが、絡まれたら黙ってはいられない性格だった。

「口だけは達者だな。口だけは」と大村はやり返した。

「なんだと?」

 二人がにらみ合う脇で、斉藤は空を仰いだ。

 どうせこうなるんだ―、と思う。

「じゃあ、どっちが速いかやってみろよ……」と斉藤は力のない声で提案した。

「上等だ」と二人の声が揃った。それがまた揃って気にくわない。

「北澤、やらないか?」と中垣はもう一度北澤を誘った。

「やらない」

 北澤は素っ気なくいなした。

「こいつ、小学校までスイミングスクールに通っててさ」と北澤は斉藤につぶやいた。

「へーえ。大村もそうみたいだぜ」

 それを聞いて中垣と大村は針のような視線をぶつけ合った。

「じゃ、ここから浜にいる遠見のとこまで行って戻ってこいよ。おれたちここで待ってるからさ。はい、スタート」

 斉藤は投げやり気味に手を叩いた。

 二人は虚を突かれた感じになったが、わずかに早く反応したのは大村だった。ワンテンポ遅れて中垣がクロールで追いかけてゆく。

「やれやれ……」

 斉藤はあきれ顔でがむしゃらに泳いでゆく二人の後ろ姿を眺めた。

「よくやるわねぇ」

 それまで眠るように息を潜めていた菜幹が口を開いた。

「お前らズルいよな。二人して死んだふりしちゃってさぁ」

「だって斉藤くんあしらい方うまいじゃない」

「おれはつきあったろ」と北澤はちょっと不満げだった。

「もういいよ……」

 斉藤もつまらない愚痴を続けるつもりはなかった。

「でも、大村くんってあぁいう人なのね。ちょっと意外」

「意外か?」と北澤が訊く。

「だって、中垣とあんなふうにやり合う人ってあんまり見たことないから」

「あの二人は似た者同士だよ」

「そうなの?」

「そうでなかったらこんな混んでる海であんなバカな競争はしない」

 北澤はうなずきながら答えた。

「バカだよなぁ」

 そう言って、斉藤は大きなあくびをひとつした。


 井上裕次は藤井とともにひたすら沖を目指していた。足はまだ砂に付く。冷たい砂地がひやりと足裏に心地よかった。人の密度は沖に向かって希薄になるが、北澤たちの姿は見あたらない。

 井上は海のなかをふわりふわりと歩きながら、後悔し始めていた。

 なんだっておれがこんなところで海水浴なんて―。

 そぐわない場所にいる自分を、別の自分があざ笑っているように思えた。ソロ・ツーリングにでも出掛けていれば、今ごろは誰に気兼ねするでもなく、気持ちのいい時間を満喫していたはずだ。駐車場に停めたRZは一日潮にまみれる。泳ぐのだって苦手の部類だ。

 まったく締まらねぇ休みだ。帰ったら洗車しねぇとな―。

 井上の気持ちは早くも帰ったあとの作業に向かっていた。

「おい」と藤井の声がして、井上は重たい首をひねった。

「あれ、中垣と大村じゃないか?」

 見ると、正面から水しぶきをまき散らして二人の男が泳いでくるのが見える。のどかな海水浴客を蹴散らしながら、クロールで向かってくる。

「バカが……」と井上は呟いた。紛れもなく中垣と大村だった。

 二人は激しい争いを続けながら、井上と藤井の鼻先をかすめるように泳ぎ去ってゆく。まるで気づいていないかのようだった。

「おい、北澤たちはどこだ?」

「てめぇらで探せ!」

 かろうじて中垣の声が聞こえた。

「やれやれ……」

「バカにはつきあいきれねぇ」

 呆れた表情をみせる藤井の横を、井上は淡々と沖に向かって進んだ。少なくともここより手前にはいないとわかった。

「おーい、置いていくなよー」と藤井はあとを追うように続いた。


 浜では夜野と了子がサマーシートに座って喧噪の海を眺めていた。

 夜野は了子に頼まれた無炭酸の缶ジュースを手渡すと、すぐに藤井と井上を追いかけるつもりだった。着ていたTシャツとジーンズを脱ぐと、太腿や上半身の各部位を薄く筋肉がまとっていた。

「女の子一人、ここに放っていく気?」

 夜野は眉毛を八の字に寄せて、あからさまに困った表情を浮かべた。

「わかった。いいわよ。いってらっしゃい」と了子はサングラス越しに手を払った。

 夜野はますます途方に暮れた。

 二人きりでいったい何を話せばいいのか―。

 見当もつかない。結局は気まずくなるだけに思えた。

 それでも夜野は海に出ることをあきらめて、了子と同じビニールシートの端に腰を下ろした。了子との間には微妙な隙間ができた。その距離が夜野の気持ちを如実に表していた。了子はなにも言わなかった。そして案の定、話題がない。

「ねぇ」

 先に口を開いたのは了子のほうだった。

「練習楽しい?」

 ふいの質問に夜野は困惑した。

 楽しいか―?

「いや……。おれなんてついていくのがやっとだし」

 少なくとも練習を楽しいと思ったことはない。

「じゃ、なんでやってるの?」と了子はさらに追及してくる。

 なぜ、毎日毎日つらいとわかっているのに走るのか―。

 夜野は自問した。答えは出てこない。出るはずがない。たしかに北澤の一件はある。でも、それはきっかけに過ぎない。理由にはならない。

「……わからない」

「ふうん」と了子はたいして期待もしていなかったように、気のない相づちを打った。

「あんたたちって変よね」と了子は続けた。

「なにが?」

「入学してからもう四ヶ月でしょ。普通は何人かやめてるものよ。特に長距離なんて」

「……考えたこともなかったな」

「とりたてて連帯感があるようにも見えないし。仲が悪いのだっているでしょ?」

「そうだね」

 夜野は初めてちょっと笑顔になる自分を意識した。

「短距離なんてもう半分以上やめてるのよ」

 たしかに今年陸上部に入部した一年は、全部で二十一人いた。そのうち短距離の男子は九人もいたのに、いま残っているのは三人だけだ。女子も五人いたが、すでに菜幹と了子以外はやめた。

「バカねぇ。中学でも入学してすぐやめる子っていたでしょ?」

「もちろんいたけど、中学と高校じゃ―」

「同(おんな)じよ」と了子は夜野の言葉を遮るように断言した。

「部活の選択を誤ったら華の高校生活は台無しよ」

 高校は中学の延長ではない。新しい場所には新しい環境がある。そこまで聞いて、夜野にも了子の言わんとするところが見えてきた。

「やめるつもり?」

「まだ、決めたわけじゃないけどね」

「どうして?!」と夜野の声は自分でもびっくりするくらい強い口調になった。

「そ……そんなの決まってるわ」

 夜野の勢いに気圧されて、了子は揺れる心情を露わにした。これまで了子に強気なイメージしか感じていなかった夜野は、そんな了子にどきりとした。

「ここじゃ一番になれないのよ」と了子は言った。

「べつにインターハイや国体で一番になりたいとか、そんな大きなことは考えてないの。でも、自分の周りにいる人間には負けたくない」

 夜野に返す言葉はなかった。

 遠見了子は一番になれない―。

 つまり、青井菜幹に勝てないことが我慢ならないのだ。その相手が身近にいることに絶望している。激しい感情。夜野には理解できない感情。有り体に言って、夜野は北澤に勝ちたいなんて一度も考えたことがなかった。諦めている部分もある。しかしそれ以上に、夜野は結果をそれほど重く考えていなかった。結果よりも過程。速くなりたい気持ちはある。その気持ちに向かう姿勢が、のちのちきっと役に立つ。了子とは意識の根本が異なっていた。

「負けて悔しいと思ったことはないの?」

 いっこうに話のかみ合わない相手に、了子はサングラス越しの視線をきつく夜野に向けた。

「……考えても仕方がないよ」

 夜野は少し考えてからそう答えた。嘘のない答え。自分は遅い。いちいちこだわっていたら、際限のない自己嫌悪に陥る。

 了子は当てが外れたように、大きなため息をついた。

 いったい彼女は自分になにを期待していたのだろう―。

 夜野には疑問だけが残った。

 その時、正面の海からひしめき合う水着のあいだを割るようにして、二人の男が走ってくる姿が見えた。平和な夏の海水浴場の空気を、ふたつの火の玉が競い合うように切り裂いてくる。

 浜に上がった坊主頭が飛沫をあげてまっすぐ向かってくる。

「中垣と大村だ……」

 夜野の言葉に了子もその視線を追った。

 中垣がわずかに大村をリードしている。

 息せき切って、まず中垣が二人の前にたどり着いた。

「あんたたちなにしてんの?」と了子はやや軽蔑するような口調で訊いた。

「うるせー! お前らはなにやってんだ!!」

 中垣は苦しげな呼吸の隙間から絞り出すように怒鳴ると、止まることなく海へとって返した。すぐ先で大村とすれ違ったが、二人は目も合わせない。

 続いて大村が二人の前までやってきた。

 大村は両手を膝につくと、肩で息をしてしばし呼吸を整えた。

「バカじゃないの?! あんたら浮いてるわよ」

 了子は中垣に怒鳴られた怒りの矛先を大村に向けた。

 大村はちらりと顔を上げて、目の前に座っている二人を交互に見た。

「お前ら……、楽しそうだな」

「バ―」と了子が言い返そうとしたときには、もう大村は中垣を追い始めていた。

「二度と戻ってくんな! バカー!!」

 了子はその背中に礫のような怒鳴り声を浴びせた。その横で夜野はカッと顔が熱くなるのを感じていた。


 沖では貸しボートを中心に、ふたつ増えた坊主頭がクラゲのように漂っていた。夏の練習は着実に疲れを蓄積させ、ふとゆるんだ肉体にじわりとしみこんでくる。

「だるいなぁ……」と誰に言うでもなく、斉藤はつぶやいた。

「元気なバカもいるけどな」

 藤井は気怠そうに答えた。

「ただのアホだ」

 井上は誰にも聞こえないような声で呟いた。

「よーし。じゃ、もうちょっと出してみるか」

 そう言って藤井は緩慢な動作でボートの縁に手をかけた。

「出すって?」

 菜幹が怪訝な表情を浮かべて、寝そべったボートから体を持ち上げた。

「そりゃ、決まってるべ」

「百メートルくらいでいいか?」と意外にも北澤が乗ってきた。

「ま、そんなもんでいいだろ」

「こっちもきついしな」

 藤井の返事に斉藤も続いた。井上だけが小さく舌打ちした。もちろん、咎めるつもりは毛頭ない。ばかばかしいと思っただけだ。


 浜から再び海にとって返した中垣竜二は、ただひたすら沖に向かって泳いでいた。時計にして十秒は先行している感覚。気を抜けるリードではないが、自分もまだいっぱいではない。勝つ自信はあった。

 中垣は海水浴客のあいだを巧みに縫って泳ぎ続けた。クロールと平泳ぎを交互に使い分けながら、平泳ぎで先の先まで進路を見通し、描いた進路を一気にクロールで突き抜ける。後ろとの距離も平泳ぎの最中に測った。海に戻って最初に振り返ったときには、まだ大村の姿を目視できた。ただ、いまはもう目に入るのはレジャーを楽しむのどかな風景ばかりだった。競争相手はどこにも見あたらない。

 くそ―、と中垣は心の内で毒づいた。あのくそったれは油断ならない。楽に勝てるつもりでいると、どこでウサギの役を回されているか知れやしない。ともかく、相手の姿が見えない以上、がむしゃらに泳ぐしかない。

 それにしても、泳げども泳げどもいっこうにゴールが見えない。中垣は少し不安になり始めていた。もし、間違った方向に泳いでいたら一巻の終わりだ。あるいは奴の姿が見えないのもそのせいかもしれない。海水を掻く腕に不安が乗り移ってスピードが鈍る。

 と、その時、思っていたよりもずっと先の沖合いにゴムボートの姿を捉えた。四つの水しぶきを推進力にして、ボートは沖へ沖へと向かっている。

 瞬時にそこでなにが起こっているのかを理解した。

「おい! なにやってんだ!!」

 平泳ぎをしながら中垣は怒鳴った。

 一瞬、四つのうち三つのバタ足が止まった。声が届いたらしい。三人が一斉にこっちを振り向いた。藤井。斉藤。そして北澤。

「そこに止まってろ! バカ野郎ー!!」

 その声に三人は一斉に背を向けた。再び、四つの水しぶきが上がり始める。シカトしたのは井上に違いない。四つのバタ足は前にも増して高いしぶきをあげている。

「あいつらー……」

 中垣は思わず泳ぐ手を止めた。頭のなかで血がたぎっている。

 その時、ふいに十メートルほど先に坊主頭が浮上してきた。坊主頭は一瞬だけ後ろを振り返ってその距離を確認すると、目標に向かってクロールで泳ぎだした。その視界はボートに向かってまっすぐ開けている。

 やられた―。

 中垣の脳裏に許し難い言葉が浮かんだ。

 憤慨しても始まらない。中垣は全力でクロールを再開した。

 ひたすら泳ぐ。

 距離は少しずつ詰まってゆく。同時にボートとの距離も詰まってゆく。こうなると、むしろボートにはもっと先へ行ってほしい。

 電波塔の坂よりきつい戦いになった。海水を掻く腕が重い。腕の筋力不足は普段から感じている。水の抵抗が一層それを意識させた。上半身がうまく機能しなくなると、その推進力はみるみる鈍り、中垣の闘争心を根元から引っこ抜きにかかる。

 あんな野郎に負けるなんて―。

 頭に無念がにじむ。

 力尽きた。

 大村がゴールする姿を遠くに見ながら、中垣は平泳ぎに切り替えて重い体を推進させた。

 ゴールすると、大村はボートの縁につかまり、肩で呼吸を整えていた。

「はい、お疲れさーん」と斉藤の声。

「お前ら、絶対殺す……」

 中垣は恨めしげに毒づいた。

「まぁまぁ、怒るなって」と藤井の仲裁はまるで他人事のようだ。

「うー……」

 中垣もそれ以上詰め寄る気力がなかった。精根尽き果てたように呻くと、すうっと海に沈んでいった。

 その姿が浮上してこない。

「ちょっと、大丈夫なの?」

 菜幹が不安げに中垣の沈んだ海面をのぞき込んだ。すでに足のつく場所ではない。

 藤井と斉藤も顔を見合わせた。と、その時、斉藤が「あっ」と声をあげた。

「よせ、ばか!」と体をよじる。

「おい!!」と悲鳴のような叫びをあげた直後、中垣が海面に飛び出してきた。手には鮮やかなオレンジ色の布きれを握っている。その片手を青空に突き上げた。

「取ったぞー!!」

 斉藤の海パンだった。

「返せ、こら」と斉藤は中垣にすがりつく。

「パス!」とそのオレンジ色が藤井の手に渡った。

「オッケー。パース!」とそのパスが今度は井上に渡った。鮮やかなオレンジ色が井上の目の前でポチャリと海面に落ちた。井上は無言で人差し指の先に引っかけると、無造作に大村のほうへ放り出した。大村は疲れ切った表情で海面に漂う海パンを拾い上げた。

「でかした大村、よこせ」と今度は大村にすがりよる。

「よーし、よしよし。とってこいポーチ!」

 大村は力任せにその海パンを遠投した。

 思わず斉藤は肩を落とした。

「なんてことをするんだよ、お前は……。おれは犬か?」

 しかし落胆している暇はない。

「よし、競争だ!」と中垣が疲れもみせず、海パンに向かって泳ぎだすと、藤井もその争奪戦に参戦した。

「バカ野郎、渡してたまるか!!」

 斉藤も追いかけてゆく。尻は丸出し。

 三つの水しぶきが沖に向かって派手に舞い上がった。

「あの野郎は元気だな……」

 大村は誰に言うでもなく呟いた。もちろん中垣を指している。

「強がってるだけだ。負けたのがよほど悔しいのさ」と北澤が言った。

「今回はだまし討ちみたいなもんだ。実力とは関係ない」

 大村はきっぱり言った。後ろから追う展開になって、中垣が相手を見失っているのはわかっていた。大村は潜水で極力ロスのない進路を取って、障害物を避けながら泳ぐ中垣を追い抜いた。相手の位置を見失った中垣は気を抜いたはずだ。

「それでも負けは負けだ」

「意味ねぇよ」

 大村は静かになった海に仰向けになると、燦々と輝く太陽に手をかざした。

「でも大村くんもつきあいがいいわね。あんなバカの相手して」とボートから菜幹の声がした。

「まったくだ」

 大村は暑い夏空を見上げたまま、ぽつりと答えた。

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