バッカスは恋する乙女に微笑んで
国樹田 樹
微笑みは誰の手に
もし、本当にこの手にしたグラスに宿る神が居たなら、私は願う。
この一時を、明日は笑って話せるようにと。
***
「しーずーるーちゃーーーんっ!!!」
けたたましい、とでも言われそうな声をあげ、私は右横でウーロンハイをちびちび啜る後輩女子を抱きしめた。
「きゃー! 真紀先輩ったら、またですか!」
酔っ払い親父に襲われたよろしく、小柄なしずるちゃんが抱きつこうとする私の手を受け止め、そのまま柔い身体を抱きしめさせてくれる。
うーむ。やはり若い子はええのう。
しずるちゃんは可愛い。それはもう、社会現象化した某アイドルグループなんて比べ物にならないほどに。
漂白してるのかと言いたくなるほどの白い肌、黒目がでっかい潤んだお瞳にサラッサラのロングストレート。
どこの深窓の令嬢かと初対面で思ったけれど、私と同じく普通のOLさんである。
天と地ほどの差があるが。
私はといえば、胸張りたいわけじゃないがバリバリの黄色人種の肌色に、二重の割には薄めの目元。
梅雨ごろには毟り取りたくなる天然パーマな髪質は、朝セットするのが面倒で肩までしか伸ばせない。
神様って不公平だ。幼い頃から気付いてはいたけれど。
容姿は仕方ないとしても、せめて胸くらい与えてくれたっていいじゃないか。
私のぺたりとした大平原な胸が、しずるちゃんのふっかふかのお胸に当たって、二人の間に隙間を作る。やっぱり女子は胸だなぁと、切ないながらも思う。
いーなぁ巨乳。ロリ顔巨乳ってまじやばくないか。
若干セクハラ親父めいた感想を浮かべながら、ごろごろと猫が頬ずりするように、しずるちゃんにすりすりしていると、反対側、左隣にいた『ヤツ』が声を上げた。
「
人の襟首引っつかんで、まるで猫にするみたいに軽くぐいっと持ち上げられた。
扱いが雑過ぎやしないか、
女扱いされてないのは前々からだけど、ここまで意識されてなければもう完敗だ。
酒の熱が篭る目で、失礼な男を見上げた。作りの良い顔が目に入る。
ああもう。やっぱ良いなあ、コイツ。
不機嫌そうな顔に、私は酔っ払い特有のへらっとした笑顔を向けた。
「あによ東條ー。酔って何が悪いー。酒というものは、酔う為にあるのだよ!」
私の反論に、形の良い眉が一層顰められた。この呑んだくれめって暴言を吐かれる。
むう。人をまるでおっさんみたいに。
いや、やってたことはおっさんと変わりないのだが。
同じ企画部に所属している
同期だけど歳は二つ上の三十二歳。たった二歳ばかしなのに、年上だからとやたらにーちゃん面して構ってくれる。
撫で付けられた黒髪は艶やかで。
怒ったような瞳には少しの酒気が見えていて。
男に色気を感じたのなんてコイツが初めてだった。
薄めの奥二重に垂れ気味の目尻、怒ったように顰められた眉。
この顔が、すごく好き。
「とーじょーーのあほーーー。離せーっ。私からしずるちゃんを取るなー。私の癒しを返せー」
酒で呂律の回っていない口を動かしながら、私は未だ手を放さない東條にクレームを飛ばした。
この次にする行動を、しっかり計画しながら。
「うるせーぞ。
うむぅ。と言葉に詰まったフリをする。
私の可愛い可愛い後輩、佐伯しずるちゃんにはれっきとした彼氏がいる。
経理部長の香坂さんだ。嫉妬深いというか、しずるちゃんへの執着は傍から見ているこっちがびびるほど、彼女は溺愛されていた。
だってこの前釘刺されたもんね。「しずるは僕のですから」って。僕のって言ったんだよ? 私女だよ?
彼女と同姓の私にさえ嫉妬するほど、愛しちゃってるんだねぇ。
私はそれが……泣きたくなるほど、羨ましい。
む、とした顔で呆れたような目を私に向けるこの男に、いつの頃からか自分も同じほど愛されたいと、そう思って。
好きだと気付いたのはいつだったか。それすらもう覚えていないけれど。
さて、それではそろそろ、と頭を切り替える。
計画を達成しておきますか。
顔には一切出さず。自然に。
バレない様に。
「んもーーーしゃーーーない! うりゃっ!!」
「うっわっ!!」
一声上げて、身体を捻る。私の首根っこを掴んでいた東條の手を振りほどき、私はソイツに飛びついた。
感じた体温に、計画通りとほくそ笑む。
酔っ払いを続けながら、私は心で舌を出した。
「真紀っ! 俺は佐伯さんじゃねぇぞ……っ!!」
「なーによーう。なら東條がしずるちゃんの代わりになってよーう。私の癒しーーーっ」
「この酔っ払いがっ!」
飛びついた胸板の厚さに、心が弾み出すのを堪えながら、私は彼にもしずるちゃんにしたように顔をすりすりと擦り付けた。
頭の上で、「ばっ……な……このっ!」とか言葉になってない東條の声が上がっているけど、気にしない。ひたすらぎゅうぎゅうと子供が親に抱きつくみたいにしがみつく。
色気もなんにもないけれど、それでもいい。
だって今日しかないんだもの。今日しか。コイツに酔ったフリして触れられるのは。
「きゃー! 真紀先輩の抱きつき魔!!」
しずるちゃんが黄色い声をあげ、周囲からも笑い声が響く。
いいの。どうせ明日には忘れるんだから。
明日の朝には、覚えてないフリして逃げ切るんだから。
それしか企画部のお局が、同じく企画部のしかもエースの東條に抱きつく機会なんてないんだから。
明日からは、また男勝りな仕事女に戻るから。
気の良い女友達。
そんな位置づけが辛いと感じ出したのはいつからだったろう。
毎年行われる忘年会、新年会。
お酒が絡む場所で、あたしが発揮する酒癖は、もう社内でも有名な話。
『抱きつき魔』
後輩の女の子に、次々抱きついて「癒されるぅ~」とのたまう私の妙技。
ちゃんと相手は見極めて、仲良しの女子にしかやらないから、と黙認されていたけれど、今年だけは違った。
私は、今まで築き上げた「抱きつき魔」の名称を盾に、今日この一度だけ大好きな人の胸に抱かれる事を望んだ。
酒の勢い、酒の力。
ここまでくるのは長かった。
恋に積極的な人から言えば、馬鹿らしいと言われるのかもしれないけど別に気にしない。
たった一度抱きつくだけなんて、ささやか過ぎる願いじゃないか。
そんな小さな願いさえ、私には叶える事が難しいのだもの。
なんとでも言えばいい。臆病な私は、こんな姑息な手しか思い浮かばないのだから。
彼に想いを伝える事を、考えなかったわけじゃない。だけどやっぱり神様は不公平で、その気持ちを固める前に、東條にずっと想っている人がいることを私は知った。
長い片思いらしかった。
見目も良い、仕事もできる、少々おせっかいだけど良い奴で。そんな彼に想いを寄せられている人が羨ましくて仕方がなかった。
本当か嘘かは知らないが、今行われている春の新規プロジェクトの企画コンペで、彼は自分の案が通ったらその想い人に告白すると言ったそうだ。
それを聞いた時の私は、足元が崩れ落ちる気がした。
同期で、同じ部署のお局とエースと言う立場だったけれど、気安い関係だった。奴の企画が通った時に祝い酒と飲みに行き、落ちた時には反省会だと言って飲みに行った。
でも、その関係ももう終わりになるのだろう。
今回の企画案、ヤツのは通ってしまうから。
ほぼ確定だと言う話を、しずるちゃんの彼である香坂部長からちらりと漏れ聞いたから。
うちの企画部部長と幼馴染の人が言う言葉だから、間違いない。
ならばせめて。
伝えられなかったこの気持ちの最後の餞けとして、たった一度の抱擁を。
明日の朝にはまた、笑い話になる予定の一大決心。
だけど、そろそろ潮時かな。あまり長く東條に抱きついていたら、不思議に思われるかもしれないし。
だって普段は女の子にしかやらないもの。
今日はたまたま、ノリでやっただけ、そう思ってもらわないといけないから。
最後に一瞬だけ、ぎゅっと力を込めて抱きしめた。
「ん~~~やっぱし女の子がいいなぁ~~~」
なんて言いながら、名残惜しいけれど東條の胸から手を放す。
だけど、離したはずの手が、ぐいと後ろに引っ張られた。
……ふえ?
ぼすんと受け止められたのは、なぜか再び東條の胸の中で。
え―――?
「すいません。真紀のヤツ今日は早く酔っ払ってるみたいなんで、迷惑かけないうちに送ってきます」
私が酔うのなんていつもの事なのに、有無を言わさない雰囲気で東條が言葉を畳む。くっついた体に響くその声にドキリと鼓動が跳ねた。
周りの誰かが返事を返す前に東條に身体ごと引っ張り上げられ、彼は私のバッグを引っ掴み、宴会場から飛び出した。
なぜか私に向かってひらひらと、微笑みながら片手を振るしずるちゃんが、見えた。
……え。
……何これ。
予定が狂って混乱する私をよそに、東條は足早にタクシーに乗り込んだ。
彼が告げた行き先に驚いて、思わず東條の顔を凝視する。
見つめた瞳が返す視線に「なぜ」という言葉が掻き消えた。
窓ガラス越しに映りこんだ夜の夜景が、彼の目の中に閉じ込められていて。
掴んだままの掌が、じんわりと薄く汗を掻いた。
宴会場として使っていた店からほど近いホテルに、タクシーが走りつく。
「どうも」と一言だけ言って東條が支払いをさっさとすませ、私はまた握られたままの手を引っ張られてまるで引き摺られるみたいにしてそのホテルに入った。
なんで。どうして。
私と。
その意味がわからないわけじゃない。
だけど、理由がわからない。
混乱したまま、流されるまま、寝室まで連れて行かれて。
目の前にはキングサイズのメイキングされたベッドがあった。
「な、なん、で……」
「それ、聞くか?」
質問に返された質問に一層わけがわからなくなって、私はじりっと後ずさりした。
その途端、東條の片手がとんっと私の身体を軽く押す。
ぽすん、と浅い音を立てて私はベッドに倒れこんだ。
ちょっと待って。
ちょっと待って。
「ちょっと待ってっ!!」
「待つわけねーだろ」
ベッドの上でも尚後ずさる私に東條が覆い被さる様にして、その上に上がる。きしりと軋む音が静かな部屋に木霊した。
嫌なわけじゃない。だって好きだもの。だけどわからない理由に不安になる。
お酒の勢いでの一夜を望むほど、そこまで馬鹿じゃない。
そんなの相手にも自分にも後味が悪いだけだ。
だから、同じ酒の力でもこの胸に飛び込む程度で終わらせるつもりだったのに。
……なのに。
シーツに縫い付けられた身体は、私の本心がさせるのか抵抗という抵抗もできなくて。
首筋を辿る東條の吐息が、まるで麻酔みたいに四肢の力を抜いていく。
弱い抗議は、彼の口付けで消されてしまった。
「惚れた女を欲しがって、何が悪い」
唇をほんの一瞬離して呟かれたその言葉に、私は身も心も、蕩けて、落ちた―――――
***
泣かされて、啼かされた夜が明け、なおも私を抱きこんで離さない彼が放った言葉。
「今出してる企画案が通ったら、真紀に伝えるつもりだったんだ。結婚を前提に、俺と付き合ってくれって」
一気にかけ上がった体温に、私は思わず頭をシーツに突っ込んだ。
ああなんてこと。
東條の片思いの相手は、私だったのか。
私は、自分に嫉妬してたのか。
露ほども考えなかった真実に、混乱と嬉しさとが入り混じってぐちゃぐちゃで。
だけど確かに彼に愛された証が、今、自分の身体に刻まれていて。
じんわりと、込み上げる涙の雫と一緒に心が震えた。
そんな私の顔を引き出すように、東條がシーツを取っ払い、私の表情を露わにする。
大好きな、薄めの二重に垂れた瞳が、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「
フルネームで呼ばれたのはいつぶりだろうと、彼の顔に見蕩れながらぼうっと考える。
いつの間にかぎゅっと握られた掌は、まるで捕まっているみたいだと、思った。
「結婚を前提に、俺と付き合って下さい。いや、むしろ結婚を確定として、が正解だな」
告げられたとどめの言葉に。
「は、はい……っ!!」
精一杯の返事を返して。
そうして私は、今度は素面で、大好きな人に抱きついた。
手にしたグラスの中に宿る神。
バッカスの微笑みは、あの時私に向けられたのだろうか。
願わくば、恋する乙女全てに、バッカスの祝福があらんことを―――
<終>
バッカスは恋する乙女に微笑んで 国樹田 樹 @kunikida_ituki
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