シーバート公爵家令嬢は川縁で移動式屋台カフェに出会う。

 王都の川の流れが緩やかとなり、木々に一つも枯葉がなくなった冬。


 まだ薄く朝日が差し込む川べりにはほとんど人はいないが、転落防止用の鉄柵に両肘を突き、白いため息を吐く、身なりのいい女性がいた。


 場違いなほど高価な装いのあまり、実は近くを通りすがった酔っぱらいさえも何事かと驚いて逃げ去ってしまったのだが、憂いに満ちた表情の彼女はそんなことはまったく知らない。


 ダチョウの羽が一本ついた唾広の紫の帽子に、すっかり冬用になった厚手のツイード生地のドレス、首元に狐のファーがついた濃紺のロングコート、ボタンで留めた脚絆を巻いたエナメルヒール。豪奢な金の巻き毛は手入れが行き届いており、腕のいい髪結の技術を持った使用人がいる良家の出だと一目で分かる。


 しかし、悲しいかな、腫れた左頬の白粉は崩れ、真っ赤な口紅も顎まで引きずられていた。飛び抜けてまつ毛の長い両まぶたは伏し目がちで、普段ならその伏し目から少し水色の瞳を覗かせるだけで男は放っておかないだろう美女だ。


 彼女の名前は、テオドラ。肩書きも含めればシーバート公爵家令嬢テオドラであり、父のシーバート公爵にとっては遅くに生まれた初めての女の子ということで大変溺愛されて育った、と有名な彼女ももう十八歳だった。


 昨日からある大きなサロンに参加して、その類稀なる美しさと聡明さで上流階級を賑わせたテオドラだったが、つい先ほどフラれたばかりだ。


 否、それは正確ではない。


 テオドラはかすれた声でつぶやいた。


「……何よ、既婚者だなんて聞いていなかったわ」


 鉄柵にもたれて、テオドラは盛大なため息を真下の川へと吐き出した。


 彼女の沈痛で憂鬱な気持ちは、いくら白い吐息に乗せて吐き出しても消え失せはしない。


 そこへ、一人の男性がやってきた。


「探しましたよ、お嬢様」


 微笑みを貼りつけ慣れた顔で、シルクハットに簡易燕尾服の紳士が現れ、テオドラの隣の鉄柵に背をもたせかけた。あまりにもその表情が偽物くさすぎて、若いのか歳を取っているのかよく分からない。


 ただ、テオドラはシルクハットの男性がやってきても、顔ひとつ上げなかった。


「お父上は顔面蒼白でお嬢様の捜索を命じられまして、今頃お屋敷で一睡もできずに狼狽えておいでですよ。さ、戻りましょう」


 そのくらいのこと、テオドラも予想はついているし、それを分かった上でここにいる。


 テオドラは、また小さくため息を吐いた。


「はあ。それ以外に言うことはある?」

「いえ、特には。もし何か言伝があれば、お伝えいたしますが? もちろん、なるべく早めにご帰宅なさると約束していただければの話です」

「そう、じゃあお父様にはこう伝えておいて。『お父様の可愛いテアは正午までに帰ります。婚約者との顔合わせもちゃんと出席します』と」


 テオドラの父シーバート公爵にとっては、娘のテオドラが王都のどこにいようともすぐに手勢を派遣して確保できる。まさに今、テオドラの隣にいるシルクハットの男性がこんなところにいるテオドラを見つけ出したことがその証明だ。振るえる権力なら当代ピカイチで、軍や警察にいるテオドラの兄たちも総動員すれば、たとえ縁もゆかりもない貴族の別宅のクローゼットの中に隠れていようとあっさり見つけてしまえるだろう。


 それでも、シーバート公爵は愛娘テオドラが目の届くところにいなければ気が済まない。溺愛にもほどがあるが、それは愛ゆえなのだとテオドラは知っているから邪険にはしない——つい昨日まで勝手に父から婚約者を押し付けられたと憤慨して、「絶対会わない」と意地を張っていたとしても、だ。


 もう意地を張る理由がなくなったテオドラは、父の要求に応える気になった。それについて、シルクハットの男性は深入りせず、ただ頷くだけだ。


「承知しました。そうそう、これは独り言ですが」

「何?」

「昨晩のトレント侯爵の件ですが、もし意趣返しを考えておいでであれば、お父上にご相談なさってはどうでしょう?」


 そこで初めて、テオドラは顔をわずかに動かして、シルクハットの男性を睨みつけた。


「いらないわ。余計なお世話よ」

「それは失礼を。では、またのちほど」


 そう言って、シルクハットの男性はすたすたと帰っていった。


 男性の気配が消えたところで、テオドラはまた川へと視線を戻し、陽光が当たりはじめた河岸の緩やかな流れを見つめる。


 目の前の川はさして水質が綺麗でもないが、ゴミがないだけ他の川よりずっとマシだった。遠くの石造りの橋に灯っていたガス灯はすでに消え、対岸にある船着場はもう少しすれば陸に揚げている観光遊覧用の舟を川に浮かべ、漕ぎ手たちも集まるだろう。


 人目を引かないようそれまでにここを離れて、家に帰るかどこかで時間を潰すかして、テオドラは気持ちを切り替えなくてはならない。


 だが、そんな気分にはなれそうもない、とテオドラは自分でもよく分かっていた。


 ところが、その気分を弾き飛ばすような、甲高い鈴の音が聞こえた。


 リンリン、リリンリン。


 ハッとして、テオドラは音のした方向へと振り向く。こんなところで鈴の音なんて、と驚き、そして音の出所をその目で見て、さらに仰天した。


 テオドラの十歩ほど後ろに、自転車が止まっていた。


 それも、移動式の屋台を乗せた自転車という、テオドラは見たこともない乗り物だ。自転車は新聞の挿絵などで目にしたことがあるものの、自転車の前輪上に水色の箱型の屋台が乗っている。しかも、前方と両側面には折りたたみ式の小さな木製カウンターが備え付けられていた。屋台の中にはまるで私こそが屋台の主人とばかりに金属製の優雅な口のポットが鎮座していて、本物の屋台の主人である乗り手は——金縁の丸眼鏡のサングラスにリゾート帰りのようなカンカン帽キャノチエ、という出で立ちの男性だった。胡散臭さでは、さっきのシルクハットの男性といい勝負だ。テオドラは呆然としていたが、前輪横にある水色の看板に描かれた見事なカリグラフィの文字に目を惹かれた。


「『カフェ・ド・カグラザカ』……?」


 聞いたこともない響きの店名に、テオドラは自然と興味を持つ。元々好奇心旺盛な性分ゆえに、メニュー表らしき木版にも次々と目を通していく。


「ラテにエスプレッソ、ココアも? この屋台でできるの?」


 すると、屋台の主人であろう男性は、ほんの少しだけ上機嫌そうに答えた。


「できますよ。何か淹れましょうか?」


 ベージュのピーコートの袖をまくり、男性は左側面のカウンターをひょいと持ち上げて簡単なテーブルを作った。


 テオドラは移動式屋台のそばにやってきて、化粧が崩れた顔のことなど忘れて無邪気に注文する。


「じゃあ、コーヒーでおすすめはある?」

「んー、濃いのと薄いの、お好みは?」

「そうね、薄いほうが飲みやすくていいかしら」

「ミルクは?」

「いらないわ。あ、でも、砂糖はひとつ入れてちょうだい。それと小腹が空いたんだけれど、何か摘めるものはある?」

「さっきできたばかりのオペラケーキ……の試作品でよければ」

「試作品? 何それ、どんなもの?」


 先ほどまでの陰鬱な気分はどこへやら、テオドラは目を爛々と輝かせて、屋台の中にある引き出しから取り出されたホーロー製ケースをじっと見つめていた。


 カウンターの上に置かれた長方形の白いホーロー製ケースは、同じく水色のホーロー製の蓋を備えていて、男性の手が蓋をかぱっと開けると——。


「まあ、かわいらしい! おもちゃみたいだわ!」


 感嘆の声を上げたテオドラは、思わず手が伸びそうになって、慌てて指先を引っ込めた。


 長方形のケースの中には、小さな格子状に分けられた一面漆黒のケーキが並んでいたのだ。とろっとろの真っ黒なチョコレートソースと金箔がかかったサイコロのようなケーキ、それに小さな小さなケーキ同士がくっつかないよう間に細い紐状のマシュマロが詰められている。それがまたファンシーでかわいらしく、テオドラは顔をほころばせた。


 オペラケーキ、本来ほろ苦のコーヒー風味のケーキは、大人向けだ。なのに親指サイズのミニチュアとなっては、その精密さと愛おしさに、テオドラのうっとりとしたため息は今までとはまったく異なる意味合いになってしまう。


「はあ……これをあなたが作ったの?」

「まあね、屋台でひょいと摘める新しいお菓子にと思って」

「すごいわ。我が家のお抱えパティシエだってこんな発想はできないわ」

「ははっ、大絶賛は食べてからにしてくれ。ほら、フォーク」


 すっと差し出された二又の銀のフォークもまた、テオドラにとっては未知の、それでいて愛らしいものだ。カトラリーの中でも一番小さなカクテルフォークよりもさらに細く、小さい。


 触れれば折れてしまいそうな銀のフォークを右手で受け取り、テオドラは慎重にオペラケーキの隅っこのひとつを選んで刺し、そっと持ち上げて口へと運ぶ。


 得体の知れない人物の、得体の知れない屋台の、得体の知れない料理であることなど、もはやテオドラにはどうでもいい。貴族として外食は信頼できる料理人のものしか口にすべきではないのだが、そんな堅苦しい常識よりもテオドラの好奇心は勝ってしまった。


「んー! 甘くて美味しい……それに、ほろ苦い!」


 間違いなく、今テオドラが口にしたものは、オペラケーキだった。小さくても、しっかりと重厚なバタークリームとガナッシュがいくつもの層を作り、スポンジケーキにたっぷり染み込んだコーヒーシロップがチョコレートソースとタッグを組んで、甘さの中の苦さが絶妙なアクセントとなっている。


 さらに、ご満悦のテオドラの前へと白磁のコーヒーカップが置かれ、なみなみと注がれた焦茶色の液体が、湯気立つ水面にテオドラのぼやけた輪郭を映し出す。ほぼ反射的にテオドラの左手はコーヒーカップの持ち手へと伸び、オペラケーキの甘い甘い滋味で満たされた舌にほどよい苦味を流し込む。カフェインを主張しすぎず、さりとて余韻の甘さを綺麗さっぱり消し去っていく、テオドラの注文どおりの薄めのコーヒーだ。


 味わい尽くして飲み込んで、テオドラは思わず、ほうとため息を吐いた。


「あぁ、美味しい。幸せだわ」


 その言葉に、男性は得意げだった。


「こちらこそ、ごちそうさま。そんなに褒めて味わってくれるなんて、こっちも作った甲斐があったよ」


 あまりの満足具合に、テオドラはにっこりと微笑んで応えた。見知らぬ男性へ心から微笑みかけるなど、初めてのことかもしれない。そのくらい、この瞬間のテオドラは心から幸せだった。


 とはいえ、いつまでも幸せは続かない。それに、テオドラもそろそろ自分の顔のひどいさまに手を入れなければならなかった。


「ふう、嫌だわ、コーヒーに顔が映ると現実に戻されてしまう。これを何とかしないと」

「化粧落としはさすがにないな。温かいおしぼりでよければあるんだが」

「それでいいわ。洗って返すから、いただける?」

「はいよ」


 男性はコーヒーを淹れた残りのお湯を、屋台の引き出しから取り出したタオル地の布二枚にかけ、手が触れられるくらいに冷めるまで待ってから絞ってテオドラへと渡す。


 顔面の化粧をすべて落とし切ることはできないが、口紅と白粉くらいは何とか拭き取れる。テオドラは素早く全体を一枚目のおしぼりで拭き取り、二枚目のおしぼりでおおよそ見苦しくない程度に拭き取った。元々が際立って美しい顔立ちということもあって、素嬪すっぴんそのものである。それを自覚しているテオドラは、化粧なんかなくても表を歩いたって恥ずかしくはない。ただ、貴族令嬢として、人前に出る際には化粧をすることが常識、義務、マナーとまで言われているからあえて顔中にわざわざ塗りたくっているだけのことだ。


 テオドラはコーヒーカップの残った水面に顔を映し、うん、と少しはマシになった顔に納得した。すっきりした顔には、寒気が直接触れて引き締まる。オペラケーキの幸せだけでは拭いきれなかった無意識の嫌な気持ちも、反射的に体が寒さに反応したおかげでどこかに吹っ飛んでしまった。


 テオドラは、男性へ感謝を述べる。


「あなたのおかげで、嫌なことがすっかり消し飛んでしまったわ。ありがとう」


 男性は素直に、そして気遣いの言葉を添えて応じる。


「どういたしまして。人生は嫌なことばかりなんだ、たまには幸せになったっていいさ」

「ふふ、そうね。でも」


 気分が一新した今、もう一度テオドラは『嫌なこと』を思い出そうという気になった。今なら、ただあの場から逃げるしかなかった情けない自分を、きちんと受け止められる気がしたからだ。


 テオドラは一言一言区切って、我が身に降りかかった出来事を端的にまとめてみた。


「将来を夢見た相手が、なんとか親を説得して婚約を結ぼうとしたはずだったのに、昨日の夜のサロンで既婚者だったと明らかにされた上、その人の妻に泥棒と罵られてビンタされちゃった」


 テオドラはそう言うと、どうしても出そうになるため息を、どうにか呑み込んだ。


 ——あれはちょうど、日付が変わって今日になったころのことだった。





 テオドラは、知己であるグーデルマン伯爵夫人のお屋敷で開かれるサロンに招待されていた。王都でも有数の規模を誇るグーデルマン伯爵夫人のサロンには、テオドラももはや常連となっていることもあって、情報収集と気晴らしにと出向いたのだ。


 最近、めっきりつれなくなった恋人——トレント侯爵エルキュールのせいで、テオドラは毎日が退屈だった。父からは婚約者のリストや肖像画を散々見せられ、友人知人の屋敷に遊びに行こうにも皆が皆もう結婚して子どもを持っているせいで邪魔になる。テオドラの周囲は子煩悩が多く、まるで父のようだと余計に裂ける原因となっていたのだ。


 仕方なしに、テオドラは王都各地のサロンに出席していたのだが、いちいちそれも父へ報告しなくてはならないし、もし報告しなかったとしてもサロンの主催者が伝えてしまう。とにかく父の圧力から逃げることばかり考えて、無事時間潰しに潜り込めるサロンがあればそれでよく、逐一どのサロンに誰が来るかまで調べようとは思わなかったのだ。


 だから、サロンの主催者であるグーデルマン伯爵夫人にとっても、青天の霹靂だっただろう。


 王宮にも引けを取らない特大シャンデリアが照らす大ホールに、多くのテーブルとソファが並べられ、貴族の紳士淑女だけでなく各界の著名人までもが集まっていた。給仕が忙しなく銀のトレイに酒とつまみを載せて運び、大演説をする哲学者もいれば、葉巻を燻らせ談話に耽る老紳士たち、それに恰幅の良いマダムたちが噂話に花を咲かせる。その中でもテオドラは一等若いレディだが、知識階級のいつもの顔ぶればかりで話に耳を傾けるだけで楽しいし、見知ったおじさまおばさまたちは美しいものの少し変わり者のテオドラへ人生の先達としていつでも熱のこもったアドバイスをしてくる。


「こんばんは、テオドラ。今日も美しいわね」

「ごきげんよう、おばさま。ここに来ると大変興味のあるお話ばかりが交わされていて、とても楽しいわ。知的好奇心が満たされる、というのかしら」

「あらあら、テオドラは頭がいいから、ゆくゆくはどこかの王妃殿下になってもおかしくないわね。我が国はだめよ、あんな女を見る目のない王太子にあなたはやれないわ」

「はっはっは! 王室批判かい? 私も混ぜてもらおうかな」

「ええ、どうぞ、パスヴィ公爵閣下。ここで反乱の企てでもいたしましょう、王太子殿下の浮気に泣かされた数々の令嬢のためにも」


 夜通し賑わい、よその舞踏会が終わって参加する者や、早めに切り上げる者もいて、サロンの人の出入りは午前〇時を回っても見受けられた。


 ホール奥にある金を散りばめた大きな柱時計が三度鳴って、少ししたころ。


 サロンの主催者であるグーデルマン伯爵夫人のもとに、茶髪の好青年がやってきたのだ。


「ごきげんよう。遅くなって申し訳ない、伯爵夫人」

「あら、トレント侯爵。来てくれるとは思わなかったわ」

「まさか、予定をやりくりしてようやくやってきましたよ。機嫌を直してください」


 グーデルマン伯爵夫人のいるソファ席のちょうど背後にいたテオドラは、聞き覚えのある声に心を弾ませて振り返る。


「久しぶり、エ——」


 もう半月以上会っていない恋人の声に、テオドラの待ち焦がれた心はただただ『会いたい』という気持ちばかりが先行していた。


「——え?」


 二十代半ばの好青年の顔は、テオドラにとって見慣れたものだった。


 しかし、その人物と片腕を組み、同伴者としてテオドラを不可解な表情で見てくる黒髪の妙齢の女性のことは、知らなかった。


 なぜ恋人の横に見知らぬ女性が、呆然としているテオドラへ、トレント侯爵エルキュールは素知らぬ顔で挨拶した。


「これはシーバート公爵家のテオドラ様。、私はエルキュール。そしてこちらがのセシリアです。先日、結婚したばかりなのでそう紹介するのは慣れておりませんが、どうかご寛恕を」


 エルキュールはセシリアを伴ってそつなくお辞儀をして、グーデルマン伯爵夫人への挨拶が終わると別のソファ席へと去っていった。挨拶回りに忙しい、とばかりだ。


 テオドラは、グーデルマン伯爵夫人が自分を心配そうに見ていることに気づき、誤魔化した。


「あ、ああ、違う方だったわ。失礼、間違えてしまったの」

「あら、そうなの。そういうこともあるわね」

「ええ、ごめんなさい。えっと……その」

「テオドラ……?」


 未だ戸惑いが残るテオドラを察してか、グーデルマン伯爵夫人は使用人を呼び、テオドラを休憩用の個室へと案内させた。


 それから二、三時間ほど、ランプひとつ灯った薄灯の部屋で、テオドラはソファに深く腰掛け、休むどころか自問自答を繰り返していた。あろうことか、テオドラは下手に頭脳明晰であるため、湧いてくる疑問に正確に答え、自身の気持ちを冷静に分析してしまう。


 つまるところ——自分はトレント侯爵エルキュールの遊び相手の一人に過ぎなかったのだ。この数ヶ月間恋人と浮かれていたのは自分だけ、そういえばいつも会うときは誰かの屋敷のパーティのときばかりで、恋人というよりも親しい友人程度の扱いだったのでは。だって、キスの一つもしていないのだから、そうだ、それはまあ、そうだろう。


 エルキュールはきちんと一線を見極めて、引き返せるときにさっさと引き返し、しばらく会っていなかったのはセシリアという女性との結婚のためだったからだ。


 そこまで考えれば、テオドラだってもう分かっている。自分が勝手にエルキュールへお熱を上げて、ちゃちな『恋人ごっこ』に浮かれ、どうにか婚約できないかと悩んでいたのは——すべて無駄だったのだ。馬鹿な一人相撲で、裏切られたと思っている。なんて愚かなのだろう。


 さらには、傷心のテオドラへ追い打ちをかけるような出来事まで起きた。


 午前三時を回ったころ、テオドラがいる休憩用の個室に、エルキュールの妻セシリアが乗り込んできたのだ。


 ノックもせず、扉を乱暴に開き、セシリアは黒髪を振り乱して叫びながらテオドラへと襲いかかる。


「この、泥棒! 私の婚約者を手に入れようとしていたなんて、なんて浅ましい! 公爵令嬢だかなんだか知らないけれど、エルキュールはもう私のもの! ざまぁみろよ!」


 セシリアの振りかぶった右手が、テオドラの左頬を打つ。テオドラは避けようとしてソファの背もたれに当たり、頬から唇までをセシリアの右手になぶられた。


 まもなくエルキュールを含めた男性たちがやってきてセシリアを取り押さえ、テオドラはそれ以上乱暴はされなかったのだが——テオドラはショックで居た堪れなくなり、衝動的に部屋を飛び出して、人目のあるグーデルマン伯爵夫人の屋敷からも逃げ出してしまったのだ。


 そして、行き着いた先は川縁で、鉄柵にもたれ、朝日を浴びていたのだった。





 それらの出来事を語り終えたテオドラは、伏し目がちにコーヒーの水面を眺めるばかりだ。


 男性は神妙にこう言った。


「なかなかヘヴィだな」

「そうよね。私、恋愛結婚がしたくて親の勧める婚約から逃げて、わがままたっぷり言って……この有り様。馬鹿みたいでしょう」


 自嘲気味に、テオドラは乾いた笑いを浮かべる。


 結局、すべてが無駄で、テオドラの幼稚な目論見は御破算というわけだ。貴族に恋愛結婚などありえない、そう言われることに反発していたことさえも、ただのわがままだ。


 そうしたことにすっかり得心がいってしまい、落ち込むばかりのテオドラへ、男性は少し悩んだのち、オペラケーキの入ったホーロー製ケースの蓋を閉じてから相槌を打つ。


「だが、恋愛みたいなものはできたんだろう?」

「うん、そうね。そうだわ、あれは多分、恋愛。ごっこが付くような幼稚なものだったとしても、きっとそう」

「なら、その思い出はいつか美化されて、歳を取ってからそんなこともあったなって言えるようになるさ」


 そうかもね、とテオドラは力なく笑ったままだ。コーヒーを飲み干し、カップをカウンターに置こうとしたそのとき——どん、とカウンターに先に置かれたのは、蓋付きのホーロー製ケースだ。


 テオドラが男性を見上げると、なんとも得意げな営業スマイルをしていた。


「さて、お嬢様が大人になった記念に、このオペラケーキをどうぞ」

「え? いいの?」

「試食してくれたお礼さ。お気に召したようだし、ケースごと持って帰ってゆっくり召し上がれ」


 そう言って、男性はホーロー製ケースをテオドラのほうへと押し出す。


 思わず両手で受け取ったテオドラは、自分でも驚くほど湧き上がってくる衝動のあまり、歓喜の声を上げた。


「やったぁ! ありがとう!」


 屈託なく、少女のようにお菓子をもらって喜ぶテオドラは、すぐさまシーバート公爵家屋敷へと小走りで帰っていった。


 帰って、オペラケーキを食べるのだ。その一心で、しかし、ほろ苦い経験は忘れずに。





 ちなみに、無事帰ってきた娘を前に、シーバート公爵はこう言った。


「いいのだ、婚約だって嫌だろうし、こんなことがあっては婚約などまた今度でいい! よく帰ってきた、テオドラ!」


 テオドラは感涙の父に呆れつつ、持って帰ってきたオペラケーキを食べて仲直りした。







 半年後、シーバート公爵家令嬢テオドラは、とある帝国の第一皇子ヴェルギルと恋に落ちた。


 国賓としてやってきたヴェルギルをもてなす晩餐会で、会を取り仕切るよう王命を受けたシーバート公爵がテオドラの発案で例のオペラケーキを再現して作って出したのだ。


 ちょうどテオドラは発案者としてサイコロのように四角く小さくなったオペラケーキについてヴェルギルへ説明し、その大役を終えたあと、彼に呼び止められた。


「君がこれを作ったのか? それは素晴らしい、食べやすくて、なおかつ極上の味わいを何度も味わえる。ぜひ、私にもう一度作ってもらえないか?」


 その場にいた貴族たちは、誰もが二人を讃える。


「ご覧になりまして? テオドラ様のあの上気したお顔、本当に恋する乙女のようで素敵! まるで絵画の一幕ね」

「異国風の彫りが深い顔立ちのヴェルギル殿下には並の女性では並び立てませんものね。本当、古いロマンスにある砂漠の国の王子と異国の王女のよう……羨ましいわ」

「やっぱりテオドラ様にお似合いなのは長身のしっかりした美形よ。何でしたかしら、どこかの侯爵閣下がテオドラ様へ粉をつけようとしたそうですけれど、身の程知らずで呆れてしまいましたもの」

「あら、トレント侯爵のこと? 今、離婚調停中よ。なんでも、大勢の情婦が押しかけてきて子どもの嫡出を認めるよう訴えを起こしたことで、どうせ侯爵家も弟君が継ぐのではないかしら」

「それよりも、ご覧になって! ほら、ヴェルギル殿下がテオドラ様のお手を取って!」


 こうして晩餐会は成功に終わり、貴族たちは新たなロマンスに熱中していく。


 ヴェルギルとテオドラを結びつけたオペラケーキの物語もレシピも、瞬く間に王国中に広まっていくのだった。




おしまい。

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婚約破棄された令嬢の前に現れたのは、移動式屋台カフェ。 ルーシャオ @aitetsu

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