婚約破棄された令嬢の前に現れたのは、移動式屋台カフェ。

ルーシャオ

マレフツカ伯爵令嬢フランチェスカは出会った。移動式カフェに。

 とある王都の夜、秋風が吹いて銀杏が色づきはじめた秋のことだった。


 川辺のベンチで、結い上げた金髪を乱したマレフツカ伯爵令嬢フランチェスカは、刺繍入りのシルクハンカチで涙を拭きながらぐずぐずと泣いていた。貴族令嬢のプライドにかけて、大声で喚いて泣いたりしない。しかし、今この状況さえも彼女にとってはプライドがズタボロだった。


「うぅぅ〜……ありえませんわ、私が悪女だなんて……!」


 心にしこたまダメージを負ったフランチェスカは、無関心を装って道行く人々さえも呪いたくてしょうがない。泣いているレディがいるのに慰めにも来ないなんて、それでも殿方の端くれなのかしら! と罵りたい気持ちを何とか踏ん張って抑えている。


 そもそも今の状況、泣いている貴族令嬢フランチェスカに声をかけては面倒ごとに巻き込まれる、と一般的には考えつくものだ。わざわざ声をかけてくるのは屋敷に送り届けての謝礼目当ての不届者か、身代金目的の誘拐を企む犯罪者くらいなもので、胸ぐりの開いた屋内用ドレスを着たフランチェスカにとってはここにいること自体が間違っている。


 しかし、どうしようもない。ずびずび鼻が垂れるのを湿ったシルクハンカチで拭いて、ふとフランチェスカは顔を上げた。


 チリンチリン、と自転車の甲高い鈴の音が耳に届いたのだ。まだまだ自転車が発明されて間もない現在、珍しいと思わず視線を見回し、その鈴の音の持ち主を探す。


 すると、滑り込んでくるかのように、颯爽とフランチェスカの前に現れた。


 それは、自転車で押すタイプのコンパクトな水色の屋台だ。折りたたみ式の木製カウンターが前方と両側面に、自転車の前輪上、カゴ部分には炭か何かで熱源があり、その上に網と金属製の優雅な口のポットが鎖で固定されている。


 カウンター下の二つの前輪を隠す水色の看板には見事なカリグラフィで描かれた文字が踊り、メニュー表らしき木版もあった。肝心の乗り手は自転車のブレーキを踏み、重々しい移動式屋台を揺らして自転車の車輪止めを蹴った。


 ぽかん、とフランチェスカははしたなくも呆然として、その人物を見た。


 金縁の丸眼鏡にリゾート帰りのようなカンカン帽キャノチエ、刈り上げた短髪は暗い色で、黒か茶色だ。ライトブラウンのチェック柄フランネルシャツを腕まくりして、アスコットタイのようなふくらんだ水色のチーフを首に巻いている。この王都では珍しい鉱山労働者のジーンズパンツと、同じ生地で作ったエプロンを着け、靴は——飴色の牛革のサンダルだ。


 フランチェスカは鼻水が垂れていることに気付いて慌てて拭き、何だか胡散臭い自転車の乗り手の男性が近づいてきたので警戒して身を引いた。


 男性は、やれやれと肩をすくめてフランチェスカに話しかけてくる。


「お嬢さん、こんな寒いのにどうしたんだい? そのドレス、舞踏会帰り? 馬車やお目付役は?」


 普段なら、フランチェスカはこんな男に話しかけられても無視しただろう。自分は歴史あるマレフツカ伯爵家の娘、平民の胡散臭い男となんて口を聞きたくないわ、と。


 しかし、傷心のフランチェスカは、そんな見栄体裁よりも、慰めてほしかった。


「……舞踏会のホールから飛び出してきてしまいましたの」

「寒くない?」

「寒いですわ。羽織るものだってないし、でも」

「取りに戻りたくもないし、誰にも会いたくない、と」

「……ええ」


 男性は屋台のカウンターを開け、しまってあった厚紙製のメニューをフランチェスカのもとへ持ってきた。五つほどのドリンクメニューを見せて、指差す。


「まずは温まらないとな。何を飲む?」

「私、お金など持っていませんわ」

「当たり前だよ、貴族のお嬢さんが自分で持つわけがない。いいから、一つサービスだ。何が好きだい? 紅茶? それともコーヒー? ホットチョコレートなんかは?」


 軽い口調で勧められると、何だかそれに従ってもいいような気がする。


 フランチェスカは、さすがにもう態度を固くする意味はないと悟り、男性のサービス精神に甘えることにした。


「では、ホットチョコレートを」

「はいよ。少し待っててくれ」


 男性は足取り軽く屋台に戻った、と思ったら、すぐに取って返してきた。ふわり、と綿の房付きテーブルクロスを半分に折って、フランチェスカの肩にかける。


「テーブルクロスで申し訳ないが、それ以上外で肌を晒すのはレディの沽券に関わるだろ? 今だけ羽織っておきな」

「……ええ、ありがとう」

「どういたしまして」


 何事もなかったかのように男性は身を翻し、屋台の下部に設えた棚を開けて注文の品を作りはじめた。


「砂糖は?」

「たくさん」

「いいねぇ。やっぱチョコレートは甘くないとな。疲れも何も吹っ飛ぶってもんだよ」


 パタン、カチャン、ここが外であることを忘れるかのような、カフェの音が聞こえる。


 たっぷりのココアの粉に香辛料、それから砂糖。屋台の上部にある金網の上に載った金属製のポットがシュー、とお湯の沸騰を知らせる。その横に小さなホーローのミルクパンが並び、棚から出てきた生クリームが端っこで温められていた。


 男性は慣れた手つきで、分厚い陶器のカップに粉を混ぜ、少量のお湯を注ぎ、スプーンでよく練ってから生クリームで少しずつ溶いていく。ようやくチョコレートの香りがフランチェスカのもとまで届いてきた。


 出来上がりを待つフランチェスカは、ふと、屋台の下部外側にある看板の文字を読んだ。


「カフェ・ド・カグラザカ?」


 聞いたことのない単語だ。フランチェスカの知識の中に『カグラザカ』なんてものはない。地名、人名、どこの国の言葉だろうか。男性の名前や故郷の言葉かもしれない。ということは、男性はこの国の出身ではないのだろうか。


 そんなことを考えていると、すっかり涙も鼻水も引っ込んだことにフランチェスカは気付いた。同時に、寒空に飛び出してきた後悔も顔を覗かせてくる。


 フランチェスカには、貴族令嬢としてあるまじき行いをした自覚はある。どうやっても明日からサロンの笑い物だろうし、今頃従者たちは大慌てで自分を探し回っていると思うと少し申し訳ない気分にもなる。まさか仕える家の娘を放ったらかして帰るわけにもいかず、見つからなかったら、犯罪に巻き込まれていたら、なんて考えると本気で心配しているだろう。


 はあ、とフランチェスカは夜空へとため息を吐いた。うっすらと雲が棚引き、夜にもかかわらずろくに星は見えない。時折吹く風は肌寒いし、テーブルクロスの暖かさが本当にありがたい。子どものころのように、家に帰って暖炉の前でナイトローブに包まって、はちみつたっぷりのホットミルクを飲んでゆっくりしたい——でも、もう自分は子どもではないのだ、とフランチェスカは現実に立ち返った。


 ちょうど、フランチェスカの前に注文のホットチョコレートが差し出される。


 男性は笑顔で、フランチェスカの手にカップを握らせた。


「熱いから気をつけて」

「え、ああ、ありがとう。いただくわ」


 少し冷まされているホットチョコレート、カップを両手で持つとちょうどいい温度だ。冷えてきていた手指がじんわりと温まる。


 フランチェスカは、香り立つホットチョコレートへ顔を近づける。シナモンとわずかにジンジャーの匂いも混ざって、とろみづいた赤茶色の液体は舌に乗ると甘味と濃厚な生クリームの踊るような調和で楽しませてくる。一口、また一口とフランチェスカはゆっくり、小さく飲む。


 フランチェスカの細い喉が、胃が温かな飲み物を受け入れて、体の中からポカポカとしてくる。思わず、フランチェスカは笑みをこぼしていた。美味しいと、嬉しくなっていた。


 フランチェスカが見上げれば、男性は自分用の飲み物を用意していた。いつの間にかエスプレッソマシンが火にかけられ、湯気を吹き出している。手のひらに収まるようなエスプレッソカップに角砂糖が二つも入れられ、ついに吹き出したエスプレッソマシンから黒い液体が注がれる。


 風向きが変わり、濃ゆいコーヒー豆の焙煎の香りがフランチェスカのほうへと流れてきた。男性はティースプーンでエスプレッソをかき混ぜ、溶けていない砂糖がガリガリと音を立てている。


 コーヒーに浸った砂糖をティースプーンで味わっている男性を見ていると、行儀が悪い、と思わなくもなかった。ただ、世間ではそう飲むものだし、自分も飲んでみたいと思った。フランチェスカはそう自分の心がほぐれてきたことを実感して、ついにはこう漏らした。


「婚約者に、婚約破棄を突きつけられたの」


 カップの中に残るホットチョコレートを見つめるフランチェスカは、意外にも落ち着いて振り返ることができていた。つい先ほどの衝撃の出来事をやっと直視して、何が起きたのかを語ることでもう一度確かめようという気になったのだ。


 男性はエスプレッソカップを手に、フランチェスカの前へやってきた。


「隣、座っても?」

「ええ。ごめんなさい、やっぱりこんなこと話すなんて」

「それで、お嬢さんはそれだけのことをしたのかい?」

「していないわ! 神に誓って!」


 フランチェスカはムキになって叫ぶ。


 はっとして、フランチェスカは気まずそうに顔を下げた。男性は気にせず隣に座り、ざりざりと砂糖をティースプーンでかき出して食べている。


 婚約破棄という不名誉、今でも怒りが湧かないわけではない。しかし、何があったのか、しっかりと考えなくてはならないのだ。貴族令嬢としての意地、プライドがフランチェスカの口を動かした。


「相手はセレーズ侯爵家の次男マクシミリアンで、舞踏会のホールの入り口で私へこう言ったの。「お前の悪事はもう我慢ならない、僕の従姉妹のウラノー子爵家令嬢フェリシアがすべて教えてくれたぞ」って」


 フランチェスカは、グッと奥歯を噛み締めた。そうでもしなければ、思い起こされた怒りに振り回されそうだったからだ。


「マックスの隣には、そのフェリシアがいたわ。あの勝ち誇った顔、私を見下す目、それを見て私はすぐに察したわ。フェリシアがあらぬ噂をマックスへ吹き込んだのだ、って。でも、弁解の機会など与えられなかった。マックスは婚約破棄を公衆の面前で宣言するし、私を悪人だの悪女だの散々罵って……私は耐えられなくなって、無我夢中で逃げ出したの」


 ほんの一時間前の出来事が、遠い昔にしでかしたことのようにフランチェスカには思えた。もう変えられない過去であるかのように、フランチェスカは悪女であると言い切った婚約者マクシミリアンとフェリシアの叱責がまるで正しいかのように錯覚してしまっていた。


 男性は、フランチェスカが膝に乗せていたハンカチを指差す。


「お嬢さんの家は……そのハンカチの紋章を見るに、マレフツカ伯爵家かい?」

「分かるの?」

「客商売なんだ、そのくらい分かるさ。王国東のゆう、数々の勇士を輩出した名家。その名と家柄の確かさくらい、誰だって知ってるよ」


 あら、とフランチェスカは少しだけ喜ぶ。舞踏会での出来事は、誇りとする家柄さえも否定されていたように感じたが、それはあまりにも主観的な誤解だったのだと気付いた。


 そのため、フランチェスカはその出来事をしっかりと分析するのだ、とばかりに思いつくことを次々と言葉に表す。


「フェリシアは横恋慕したけれど、それはきっとマックスが野蛮な東の田舎貴族と結婚なんて嫌だからとフェリシアの企みに乗ったのよ。そうでなければ、あんなに事が上手く運ぶものですか。だから、私は……何も知らずにのこのこ出ていって、馬鹿にされ、傷ついて、こんなところで寒さに身を縮こまらせている間抜けな女よ。泣いたってどうにもならないのに、涙が止まらなかったの」


 今はもう止まったけれど、と言って、フランチェスカはホットチョコレートに口をつけた。そのまま一気に飲み干し、男性が差し出してきた手にカップを返した。


 婚約者に気に入られようと、一生懸命、貴族令嬢としてのプライドにかけて賢しげに振る舞っていた自分が馬鹿みたいで、今度は別の意味で泣きたくなってくるのを必死で我慢する。


「マックスのために、いろんなことをしたわ。身分不相応に近づいてくる子女を追い払ったり、舞踏会用の燕尾服の仕立て費用を立て替えたり、彼の兵役の代役に兄を送ったり……」

「まあ、貴族ともなれば、婚約者の体面を保つことも必要だからな」

「それでも私はよかったの。マックスは、決していい人じゃなかったわ。でも、好きだった。親が決めた婚約でもこの人なら、って思うくらい。この人のためなら、体を張って守ってあげようと決めていた、はずなのに」


 なのに——どうしてだろう。


 フランチェスカは不思議だった。今はもう、すっかりそんな気持ちはかけらも残っておらず、好きだったはずのマクシミリアンの顔は朧げになりつつあった。あんなに好意を募らせ毎日想っていた相手が、今となっては魔法が解けたかのように何とも思わない。


 エスプレッソを飲み干した男性が、を指摘した。


「そうか。お嬢さんは失恋しちまったわけだ」


 きょとんとして、フランチェスカは一瞬呆けて、それから得心がいったかのように頷いた。


「そう……そうね。失恋、そんなもの、ロマンス小説の中だけだと思っていたわ」


 貴族にとって、結婚は義務だ。恋愛は娯楽で、お目付け役の許す相手とおしゃべりして、ダンスを踊って、はいさよなら。恋焦がれるなんてみっともない、次はもっと身分が高くてハンサムで素敵な殿方を紹介してもらいましょ。それが貴族の恋というものだった。


 だから、フランチェスカは自分の『好き』は恋であるなどとは思わなかった。しかし、いつの間にか貴族が、娯楽が、なんて考え方から抜け出して、マクシミリアンに恋をして、尽くしていたのだ。


 それがすっかり無駄になり、捨てられて、何もかもマクシミリアンのことがどうでもよくなった。人によっては追い縋ったりするかもしれないが、フランチェスカは振られてなお心を寄せるような性質たちではなかったようだった。


 涙が引っ込み、失恋を受け入れつつあるフランチェスカを見て、男性は安心したように席を立つ。


「なら、やることはシンプルだ。たくさん泣いて、たくさん食って、たくさん寝ろ。そうすれば、いつの間にかどうでもよくなる。傷心中なんだから、お嬢さんには十分な休みが必要さ」


 男性が屋台に空の二つのカップを戻して帰ってくると、その手には小型のシルクサシェが現れていた。ラベンダー色のそれはぷくぷく丸く、中に入っているものが香るとフランチェスカはその正体に気付いた。


「あら、可愛い、ポプリ?」

「南の特産地から届いたラベンダーとオイルをたっぷり詰め込んだ、特製ポプリだ。これを枕元に置いて眠れば、リラックスしてぐっすりだ。さ、ホットチョコレートを飲んだら、元の世界に持って帰りな」


 ポプリをフランチェスカの手に握らせて、男性は自転車の車輪止めを蹴って解除した。


 屋台の折りたたみ式木製カウンターは畳まれて、ポットは固定される。男性はハンドルを握り、屋台の乗った自転車を押す。


「じゃあな、お嬢さん。次はいい男を捕まえろよ」


 そう言って、男性は自転車に乗り込み、あっという間にどこかへ去っていった。


 ベンチに一人残されたフランチェスカは、「あ、テーブルクロス……」とつぶやいたが、もう男性と屋台はどこにもいない。


 まもなく、マレフツカ伯爵家の従者たちがフランチェスカを見つけて走ってきた。


 泣き出しそうになっている従者たちをなだめて、フランチェスカはとりあえず、屋敷に帰ろう、それからだ、と心に決めた。


 すっかり、フランチェスカの心は前へと向きはじめていた。





 それから一週間ほど経った、あるサロンでの一幕。


 淑女たちは扇子を広げ、ティーカップを温め、おしゃべりに興じる。


「ねえ、聞いた? フランチェスカ様が、王太子殿下にプロポーズされたって!」

「あの婚約破棄事件のとき、王太子殿下が見ていらしたそうよ。それでフランチェスカ様が飛び出していったあと、マクシミリアンとフェリシアを烈火のごとくお怒りになって叱責なさって、自らフランチェスカ様を探しに出向かれたの」

「あの二人、でっちあげで婚約破棄しようとしたのでしょう? 従兄弟同士で恋仲になって、フランチェスカ様が邪魔になったからって……なんて見苦しいこと! ああ、恥ずかしい!」

「マレフツカ伯爵家には謝罪と違約金が入ったそうだし、王太子殿下の妃になるのならもう元婚約者なんてどうでもよくなっているでしょうね。しかも、マクシミリアンは兵役逃れの詐称をしていたそうだし、軍に連行されたみたいよ」

「あーあ、ご愁傷様ね。貴族の子弟が士官学校も通わずに軍に入ったって、ろくな目に遭わないでしょうに」


 すでに婚約破棄の一件は、マクシミリアンの失態として広く語り継がれていた。フェリシアはウラノー子爵に謹慎を言いつけられ、サロンで言い訳さえできない。


 一方で、フランチェスカは新たな婚約者と揃って、各地のサロンに招待されていた。


 今日もその一つのサロンにやってきて、人々の祝福を受けながら、王太子とともに満面の笑顔を振り撒く。


「あら、フランチェスカ様よ。王太子殿下とあんなに仲睦まじく」

「本当、お似合いね。あの袋は何かしら? 可愛らしいわ」


 フランチェスカの手元のバッグには、ラベンダー色の小さなシルクサシェが結ばれていた。


 やがてそれは『王太子妃愛用の小さなポプリ』として上流階級の間で流行するのだが、それはまだ先の話だ。






 銀杏の黄色い葉が落ちた公園のベンチに、一人の令嬢が俯いて座っていた。


 厚手のケープに仕立てのいいドレスブラウス、踝丈のサテンスカートと身なりはよく、どこか資産家の令嬢が習い事の帰りなのだろう、とばかりの風貌だが、どうにも落ち込んでいる様子だ。


 そんなとき、チリンチリン、と自転車の甲高い鈴の音が俯いた令嬢の耳に届き、彼女は顔を上げた。


 令嬢の目の前に現れたのは、移動式の屋台を乗せた自転車と、降りてくる乗り手の男性だ。金縁の丸眼鏡のサングラスにリゾート帰りのようなカンカン帽キャノチエ、刈り上げた短髪は黒だ。ライトブラウンのチェック柄フランネルシャツを腕まくりして、アスコットタイのようなふくらんだ水色のチーフを首に巻いている。ジーンズパンツと、同じ生地で作ったエプロンを着け、靴は飴色の牛革のサンダルだ。


 男性は令嬢に気付くと、声をかけた。


「どうした、お嬢さん。しかめっ面して、何かあったのかい?」


 すると、令嬢はプイッと子どもっぽく顔を背けた。しかし、その視線の先には、屋台の下部外側にある看板があった。


 令嬢は不思議な響きのそれを読む。


「カフェ・ド・カグラザカ?」


 令嬢が首を傾げている間にも、男性はさっさと屋台の折りたたみ式カウンターを広げ、水の入ったポットを金網の上に置いた。


「紅茶はどうだい? それとも、カフェラテ?」

「……ラテがいいわ。ラテアートはできる? 可愛いやつがいいわ」

「はいよ。ちょっと待ってな」


 令嬢は驚く。無茶振りをしたつもりなのに、男性はすでにミルクパンを取り出し、ラテのクリームを作りはじめている。


 まもなく、街角のカフェで出されても遜色ないカフェラテがやってきた。令嬢はそれを両手で受け取り、ハートが連なるラテアートに顔が思わず喜び、気色ばむ。


「何があったか知らないが、まずは温かいものを飲んで落ち着かないとな。美味しかったらなおよしだ、どうぞ」


 令嬢は少し怪しんでいたが、温かい飲み物の誘惑に勝てず、カフェラテを一口飲む。


 甘い甘いラテの、それでいてしっかりとコーヒーのコクとアクセントの苦味が口一杯に広がり、令嬢は男性へこう言った。


「美味しい!」

「そうか、そりゃよかった」


 男性は胡散臭いものの、美味しいものに釣られた令嬢は、俯いていた理由をポツポツと、ときに憤慨しながら語りはじめる。


 男性はエスプレッソ片手に、令嬢の話へと耳を傾けていた。




おしまい。

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