第9話 姉との邂逅

「姉さん、少し離れ──」


「や! お仕事で疲れたお姉ちゃんはいっくんを補給しないと死んじゃうの!」


 それは毎日聞いているから知っている。


 だけど更科さんが困った顔をしているのだ。


 何せいつも通り手洗いうがいを済ませて最初にするのが俺へのダイブ。


「姉さんは人が居ても変わらないんだね」


「今日は特に疲れたの。だから今日は『姉さん』じゃないの」


「わかった。今日もありがとう『お姉ちゃん』」


 俺はそう言って姉さんの頭を撫でる。


 姉さんは特に疲れた日には甘やかさないと駄目なようで『姉さん』ではなく、昔の呼び方である『お姉ちゃん』にしないと疲れが取れないらしい。


「お姉ちゃん大好きだよ」


「えへぇ、いっくんから大好きって言ってもらったぁ。これで明日からも頑張れるよぉ」


「ちょい、明日も仕事行く気なの?」


 俺が聞くと姉さんはビクッと反応したが、すぐに俺を強く抱きしめて誤魔化そうとする。


 姉さんはなんの仕事をしてるのか教えてはくれないけど、休みが少ない。


 少ないと言うよりかは定休日がない。


 基本は土日休みだけど、今日のように仕事の時もあるし、稀に平日に休みの時もある。


「姉さん?」


「い、今は繁忙期なの。それに明日はすぐに帰れるからほとんど仕事じゃないよ」


「たとえ半日だとしても仕事は仕事でしょ?」


 俺が姉さんの目をまっすぐ見て言うと、スっと目を逸らされた。


(そういうことね)


「すぐって帰りが早いだけでしょ、出るのは?」


「明日だよ」


「つまり日が変わる頃ね」


 姉さんの顔が九十度横を向く。


 俺はため息をつきながら姉さんを強く抱く。


「俺が心配してるのは知ってる?」


「うん」


「また姉さんが倒れたりしたら、わかってるよね?」


「うん」


 姉さんは前に仕事のし過ぎで倒れたことがある。


 その時は学校を休んで付きっきりの看病をした。


 そんなのは当たり前だからいいのだけど、それから仕事に行く姉さんを見送るのが辛くなった。


「俺の為でもあるから強く言えないけどさ、次に姉さんが倒れたら心配で泣くからね」


「それはやだな。泣いてるいっくんを慰めるのはしたいけど、泣いてる理由にはなりたくないや」


 俺は姉さんと暮らし始めてから泣いていない。


 昔はよく泣いて姉さんに慰めてもらっていたけど。


「俺が泣いてる時だけは姉さん優しかったよね」


「黒歴史を思い出させないで。可愛いいっくんを構うのが恥ずかしかっただけなの」


 昔の姉さんを一言で表すなら『ドライな人』だ。


 今の天真爛漫な天使な姿ではなく、もっとクールでかっこいい感じだった。


「姉さんはほんとに可愛くなったよね。昔の姉さんもかっこよくて好きだったけど、今の姉さんも好き」


 どこかのストーカーが一目惚れするのもわかる。


 わかるが絶対に会わせたりはしない。


「いっくんいっくん、お姉ちゃんとのお楽しみを邪魔してごめんなさいなんだけど、本題に入らないと。ゆーちゃんがさっきから色んな顔して疲れてる」


 光莉に言われて本気で姉さんとの世界に入っていたのを思い出す。


「最初は覚えてたんだけど、久しぶりの姉さん中毒が」


「大丈夫だよ、いつものことだから」


 光莉が何かを諦めたような目で俺を見る。


 確かに光莉のこともたまに忘れて姉さんと二人の世界に入ることはあるけど、あくまで週六ぐらいだ。


 稀に二週連続1位とかもあるから正確に言うと月のほとんどは姉さんとの世界に入り込むが。


「姉さんが可愛いから」


「いっくんがお姉ちゃんのせいにする。いっくんだって昔は可愛かったのに、今じゃこんなにかっこよくなっちゃって」


「長くなるから終わり! お姉ちゃんもいっくんから下りるの」


 光莉が姉さんを俺から引き剥がす。


 今生の別れみたいな表情をされて胸が痛む。


 でも正直助かった。


 こうでもしないと俺が姉さんと離れるのは数時間後になる。


「お姉ちゃんは私のお膝の上に居なさい」


「ひーちゃんの小姑! でもひーちゃんも好きだから許すー」


 姉さんはそう言って光莉に抱きつく。


「膝の上は悪手だった。圧死する」


 今、光莉の顔は見えない。


 抱きつかれているから当たり前なのだけど、横がも何も見えない。


 姉さんの豊潤な果実によって全てを覆われているから。


 光莉もあるようだけど、その光莉が嫉妬するぐらいに姉さんはすごい。


「光莉、部屋行くか?」


「いっくんに誘われてるみたいで嬉しいけど、我慢する」


「別に更科さんなら大丈夫だと思うぞ?」


「誘惑しないでよ。せっかく我慢してるんだから」


 光莉は今、理性と戦っている。


 普段だったら俺しかいないから姉さんとじゃれあっているが、更科さんの前ということがあって恥じらいがあるようだ。


「じゃあ今のうちに紹介するか」


「更科さん現実逃避してない?」


「してるよ? だからまずはどうやったらこっちに戻ってくるかを考えないとな」


 更科さんは固まって動かない。


 姉さんの可愛さに感情がオーバーヒートしたのかもしれない。


「いっくんが考えてるのは絶対に違うから。普通に揺するとかすればいいよ」


 それなら簡単だけど、姉さんの可愛さにやられたのではないのならどうしたのだろうか。


「更科さん大丈夫?」


「……あ、はい。ちょっと仲の良さに当てられたのと、光莉さんが普通でびっくりしちゃって」


「確かに普段と違うよね。あれはあれで可愛いんだけど」


 多分光莉は止まることのない俺と姉さんのストッパーになってくれている。


 きっと光莉が居ないと食事も、最悪睡眠もしないで姉さんと話してしまう。


 だから光莉には本当に感謝している。


「姉さんの健康の為にも俺が自重しないとなんだけどな」


「ほんとに仲良しだね」


「これまでもこれからもずっと大切な人だよ」


 姉さんが居なければ俺は生きていけない。


 保護者という意味でもあるけど、多分姉さんが居ないとメンタル的にも生きてはいけなくなる。


 だから俺に出来る範囲では姉さんを守りたい。


 まぁ姉さんは俺の助けなんかなくても平気な人ではあるけど。


「そういえば紹介するんだった。俺の大切な人、十華とうか姉さん。他の説明っている?」


 姉さん程わかりやすい人もそうそういないから俺が説明するようなことはない気がする。


「外でもこの感じ?」


「いや、外では『可愛い』から『綺麗』にシフトチェンジするかな。そこは更科さんと似てるね」


 更科さんの今の姿は『可愛い』だけど、学校での姿は『綺麗』だと思う。


 学校での更科さんをあまり知らないけど。


「顔赤いよ、大丈夫?」


「これは決して氷見君に照れたんじゃないんだからね、氷見君の隣ですごいことしてるから」


「すごい?」


 俺の隣では姉さんが光莉に絡みつくように抱きつき、光莉の顔を優しい手つきで撫で回している。


 だけどこれはいつもの光景で顔を赤くするようなことではない。


「これぐらいで顔を赤くしてたらこの先耐えられないよ?」


「これ以上何があるの……」


「大丈夫、脱ぎ出したら俺の部屋に退避するから」


 さすがにそれは更科さんには刺激が強い。


「嘘が現実になりそう。……氷見君のお部屋?」


「行きたい?」


「……変な意味はないよ? ちょっと見てみたいなーってだけで」


 更科さんが言い訳をするみたいに言う。


 別に見られて困るものでもないからいいのだけど。


「じゃあ行く?」


「うん」


 俺は立ち上がり、二人の世界に入っている姉さんと光莉を置いて、更科さんと一緒に自分の部屋に向かった。

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