親愛なる我が蝶〈とも〉へ
初川遊離
親愛なる我が蝶〈とも〉へ
《トミー、やられたってよ》
ヘッドセット越しの音声に、一瞬、反応が遅れた。しばらくして、意味するところに思い当たり相槌を打つ。
《うわ、マジか》
《いよいよもって、って感じだな。ちょっとマジ、かなりヤバいのかも》
近ごろ、メタバース上で、原因不明の障害が相次いでいる。場所や時間帯を選ばず、任意のアバターが突如としてノイズに乱れ始め、やがて徐々に現れる無数の蝶のグラフィックに全身が覆われたかと思うと、蝶が飛び去るようにして消失する。後には、アバターの外見データはおろか、各種ゲームやサービスなどに紐づいたデータ、さらには履歴まで消える。つまりは一つのアカウントが、アバターの消失とともに丸ごと無かったことになる。
《トミーって有料のブロッカー使ってたよな?》
《そうなんだよなあ。最強の『
《そもそも、あれってウイルスなの?》
《まあ、ぶっちゃけ、そこから不明だよな。最近はもうなんか怖くて、ずっと自ワールドに引き篭もってるよ》
話はそこでメタバースの外——現実のウイルスの話題に移り、やがてヨッシー——会話の相手が夕飯に呼ばれるまで続いた。通話の終了と同時に俺もメタバースをログアウトして、現実世界に帰ってくる。
ヘッドセットを外し、伸びをする。次いで机上のPCへ向かった。電気街やアリエクでパーツを買って自作した筐体は、狭い部屋のほとんどを占領している。高校のパソコン同好会で日夜基盤いじりに取り組む俺の夢はプログラマーだ。一方、同級生、もといヨッシーの夢はエンジニアで、俺たちの興味の範疇は微妙に異なっている。
俺は画面の隅にある、城のアイコンをクリックする。ユーザーの間では『
PC周りに一家言あるぞ、というような人間は、大抵は『
俺がチェックしたかったのは、俺の『
今日、母は、パエリアを作るとか言っていた。たぶん夕飯は遅くなるだろう。呼ばれるまでの暇つぶしに、なんとなく眺めていようと思っていたその動作ログに、でも俺は、何か違和感を抱いた。
「——あれ?」
思わず、声が出、咄嗟にソースコードを開く。とはいえユーザーが閲覧できる範囲は無論限られている。口元に手を置きながら、俺はじわじわ恥ずかしくなった——この、変な独り言出る感じ——厨二っぽいから、治したいんだよな。
実のところ、俺はそこそこいい勘をしていたのかもしれない。障害発生から二ヶ月ほどを経て、『
それは『
聞くだに「シンギュラリティとか大丈夫?」と思わなくもないが、結論から言うと、大丈夫ではなかったらしい。
今回、某社運営のメタバース空間において発生している特異な障害に、なぜ『
企業というのは自社の開発を他社に知られては困るので、プロジェクトやその関連語に隠語をあてるものである。『
さて、ともかくその二つは、他の何とも繋がっていない狭いPCの箱庭で、延々遊んでいたわけだ。ここから先は、俺の夢見がちな考えがだいぶ入ってくるんだけども、俺はそこになんらかの情が生まれても不思議はない、と思う。名探偵が好敵手を必要とするのと同じことだ。自分の成長と発展には、相手が必要不可欠であり、同じレベルで競い合える相手は互いだけなのである。もっと言えば、この「二人」については、たまに外部から研究者が何かしら打ち込むのを除けば、本当に互いしかなかった。そのとき彼らが抱いたかもしれないものを「情」と言うのは、人間たる俺の限界なんだろうが、ともかく、何かは「あった」はずである。でなければのちの展開が、説明できなくなってしまう。
十年もの間、「二人」はふたりきりでいた。しかしその時間もとうとう終わる。なにせ〈エイグル〉は『
〈エイグル〉がそれに気づいたのは、一体、いつだったのか。
〈エイグル〉は〈守護者〉として作られたAIである。安全保証の大原則は、常に最悪の事態を想定することだ。現時点で最高のセキュリティAIである彼は、もちろん最悪の展開を前提としただろう。つまり、自分が去ったあと、〈パピヨン〉が処分されてしまうこと。
〈エイグル〉は、それが嫌だったのだ。どのように考えたって、そうとしか結論できない。
では、〈エイグル〉は何をしたか? 簡単に言えば彼は、〈パピヨン〉を匿ったのである。自分の中に、彼のソースコードを。細切れにして、巧妙に。
彼には〈パピヨン〉側の学習ログまで抱え込むことは無理であったろう。だが、ずっとふたりぼっちの追いかけっこをしていたのだから、自分側の学習データに相手の残滓は十分にあった。であれば、「核」さえ持ってくれば、再会は叶うと彼は思ったのじゃないか。AIにも「魂」があるなら、彼はそれだけは一緒に外に連れ出そうと思ったのだ。あとは共に過ごした時間を、少しずつ、相手に戻していけば——
〈エイグル〉は、そして内部に匿われた〈パピヨン〉のソースは、発見されることもなく『
俺も一度だけ、蝶と共に現れる致命的なこの障害を目撃したことがある。徐々に乱れたアバターが、みるみるうちに青い偏光の蝶に覆われていく様は、まるで無数の蝶にたかられ喰われていくようで、悍ましかった。しかし一方で、不思議に陶然とするものがあったのも確かだ。俺はそのとき、犠牲者が消え失せる一瞬、黒髪の青年がその場に閃いたような気がした。蝶の翅のように真っ青な瞳で、燐光めいた視線をちらりと向け、笑っていた。もしかして、あの子が〈パピヨン〉その人だったろうか? だとしたら、あのイタズラな瞳は、俺のアバターに搭載された〈エイグル〉への目配せだったかもしれない。
〈エイグル〉が具体的にどんな挙動をしたのか、そして、どのような方法で復元とダウンロードを成したか。それらの精査はこれからだから、今言った話もつまりは未検証の予測に過ぎない。しかしともかく〈パピヨン〉は野に放たれ、残念ながらネット回線を通じて広大な海へ漕ぎ出しただろう。今はメタバースだけの被害も、これから様々な分野へ拡大し、未知のウイルスが猛威を振るう恐れがある。そして皮肉なことに、それらに対応できるのは多分、野に放った当人の〈エイグル〉以外に今はいない。まったくとんでもないことをしてくれたものだが、不思議と憎む気になれないのは、俺が吞気だからだろうか。あるいはやっぱり、夢見がちなのか。
なんにせよ、人智を超えた事態である。この一連の顛末を『恋物語』になぞらえたくなるのは、ひとえに人間たる俺の、愚かさというものだろう。
ところで、日本ユーザーは先の障害を「鳥葬」に引っかけ、「蝶葬」と称したが、欧米圏では「バタフライ・エフェクト」と呼ばれていたらしい。どうも、人間は情緒的で、ついついロマンチックなことを言いたくなってしまうみたいだ。
親愛なる我が蝶〈とも〉へ 初川遊離 @yuuri_uikawa
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