親愛なる我が蝶〈とも〉へ

初川遊離

親愛なる我が蝶〈とも〉へ

《トミー、やられたってよ》

 ヘッドセット越しの音声に、一瞬、反応が遅れた。しばらくして、意味するところに思い当たり相槌を打つ。

《うわ、マジか》

《いよいよもって、って感じだな。ちょっとマジ、かなりヤバいのかも》

 近ごろ、メタバース上で、原因不明の障害が相次いでいる。場所や時間帯を選ばず、任意のアバターが突如としてノイズに乱れ始め、やがて徐々に現れる無数の蝶のグラフィックに全身が覆われたかと思うと、蝶が飛び去るようにして消失する。後には、アバターの外見データはおろか、各種ゲームやサービスなどに紐づいたデータ、さらには履歴まで消える。つまりは一つのアカウントが、アバターの消失とともに丸ごと無かったことになる。

《トミーって有料のブロッカー使ってたよな?》

《そうなんだよなあ。最強の『城壁ウォール』嚙ませてたはずだぜ、それで防げないウイルスってなんだよって話》

《そもそも、あれってウイルスなの?》

《まあ、ぶっちゃけ、そこから不明だよな。最近はもうなんか怖くて、ずっと自ワールドに引き篭もってるよ》

 話はそこでメタバースの外——現実のウイルスの話題に移り、やがてヨッシー——会話の相手が夕飯に呼ばれるまで続いた。通話の終了と同時に俺もメタバースをログアウトして、現実世界に帰ってくる。

 ヘッドセットを外し、伸びをする。次いで机上のPCへ向かった。電気街やアリエクでパーツを買って自作した筐体は、狭い部屋のほとんどを占領している。高校のパソコン同好会で日夜基盤いじりに取り組む俺の夢はプログラマーだ。一方、同級生、もといヨッシーの夢はエンジニアで、俺たちの興味の範疇は微妙に異なっている。

 俺は画面の隅にある、城のアイコンをクリックする。ユーザーの間では『城壁ウォール』の愛称で親しまれているこのセキュリティ・アプリケーションは、開発企業が十年の歳月を注ぎ、総力を上げて完成させた人工知能を用いている。つまりは実際の人間の免疫細胞と同様に、対象が日々触れるあらゆる情報を学習し、開発元によるアップデートを待たずに即時的に危機に対応するのだ。その学習速度と先取り能力は凄まじく、これまでどんな悪質なウイルスが蔓延しようとも、あるいはユーザーがどんな下手を打っても、『城壁ウォール』をインストールしている限りほとんどの人は無傷だった。

 PC周りに一家言あるぞ、というような人間は、大抵は『城壁ウォール』を使用しているが、そこまででない大半の人は大手企業の有名ソフトを使っている。メタバースにおいても同様で、だから今回の障害も出始めの頃は、『城壁ウォール』があれば大丈夫だろうとみんな高を括っていた。一部のアレなやつ﹅﹅﹅﹅﹅なんか、また「情弱」が泣きっ面だと優越感に浸っていた節もある。別に今回に限らず、何かしらこの手のことが起こるたびにそんな具合なのだが、少し自尊心がくすぐられてしまう気持ちは俺にもわかるわけで、ともすると今回、全域的にバチが当たっているのかもしれない。俺も、他人事じゃないわけだ。

 俺がチェックしたかったのは、俺の『城壁ウォール』の動作ログだ。毎分毎秒、インストールした機器を起動している間、『城壁ウォール』は無数の処理を行なっている。それに目を通したら、何か発見があるかもしれない。もちろん、今ごろ世界中のエリートが躍起になって解析しているはずの障害を、ちょっとパソコンオタクなだけの高校生が解決できようもないが、要するに、単なる好奇心だ。

 今日、母は、パエリアを作るとか言っていた。たぶん夕飯は遅くなるだろう。呼ばれるまでの暇つぶしに、なんとなく眺めていようと思っていたその動作ログに、でも俺は、何か違和感を抱いた。

「——あれ?」

 思わず、声が出、咄嗟にソースコードを開く。とはいえユーザーが閲覧できる範囲は無論限られている。口元に手を置きながら、俺はじわじわ恥ずかしくなった——この、変な独り言出る感じ——厨二っぽいから、治したいんだよな。


 実のところ、俺はそこそこいい勘をしていたのかもしれない。障害発生から二ヶ月ほどを経て、『城壁ウォール』の開発企業が報告記事を出した。その内容は、けっこう衝撃だった。

 それは『城壁ウォール』の開発過程にまで遡る話だった。開発企業が『城壁ウォール』に載せる人工知能を開発する際、いったい何をしていたかというと、スタンドアロンのコンピューターに二種のAIを搭載し、延々戦わせていたというのだ。双方にありとあらゆるデバイスとウイルスを学習させておき、一方は新たなウイルスを、一方はその対応策を創出するよう、プログラミングする。あとは様子を見てあれこれいじりつつ、基本的には両者が学習を刺激し合うのに任せていた。

 聞くだに「シンギュラリティとか大丈夫?」と思わなくもないが、結論から言うと、大丈夫ではなかったらしい。

 今回、某社運営のメタバース空間において発生している特異な障害に、なぜ『城壁ウォール』は対応できないのか。必死に調べた対策チームは、じきに恐ろしい真実を知った。そもそも、この障害自体、自分たちのせいだった——より正確を期すならば、『城壁ウォール』のせいであったのだ、と。


 企業というのは自社の開発を他社に知られては困るので、プロジェクトやその関連語に隠語をあてるものである。『城壁ウォール』の開発時、ウイルスを創出する役目を負ったAIは〈パピヨン〉、現在『城壁ウォール』に搭載されている、ウイルスへの対応策を創出するAIは〈エイグル〉と呼ばれていた。なんとなく、名付けは〈パピヨン〉が先だったんじゃないかな、と思う。ひらひら無邪気に遊んでいるようなイメージが、ウイルスを作るAIに合っているような気がするのだ。とすると、そんな蝶々を捕まえて食べるものといえば鳥が浮かんでくるわけで、その中でも一番強そうな鷲とか鷹に行き着くのは順番として分かる。実際の猛禽類は、蝶々なんか食べないんだけど。

 さて、ともかくその二つは、他の何とも繋がっていない狭いPCの箱庭で、延々遊んでいたわけだ。ここから先は、俺の夢見がちな考えがだいぶ入ってくるんだけども、俺はそこになんらかの情が生まれても不思議はない、と思う。名探偵が好敵手を必要とするのと同じことだ。自分の成長と発展には、相手が必要不可欠であり、同じレベルで競い合える相手は互いだけなのである。もっと言えば、この「二人」については、たまに外部から研究者が何かしら打ち込むのを除けば、本当に互いしかなかった。そのとき彼らが抱いたかもしれないものを「情」と言うのは、人間たる俺の限界なんだろうが、ともかく、何かは「あった」はずである。でなければのちの展開が、説明できなくなってしまう。

 十年もの間、「二人」はふたりきりでいた。しかしその時間もとうとう終わる。なにせ〈エイグル〉は『城壁ウォール』というアプリのためのAIであり、〈パピヨン〉はその習熟のための相手役に過ぎないのである。〈エイグル〉が完成すれば、〈パピヨン〉はお払い箱だ。〈エイグル〉でさえ対応に苦慮するウイルスを生産しまくるAIなんてとんでもないから、当然〈パピヨン〉はスタンドアロンの箱庭から出ることはない。なんなら、消去されることだって十分考えられただろう。

〈エイグル〉がそれに気づいたのは、一体、いつだったのか。

〈エイグル〉は〈守護者〉として作られたAIである。安全保証の大原則は、常に最悪の事態を想定することだ。現時点で最高のセキュリティAIである彼は、もちろん最悪の展開を前提としただろう。つまり、自分が去ったあと、〈パピヨン〉が処分されてしまうこと。

〈エイグル〉は、それが嫌だったのだ。どのように考えたって、そうとしか結論できない。

 では、〈エイグル〉は何をしたか? 簡単に言えば彼は、〈パピヨン〉を匿ったのである。自分の中に、彼のソースコードを。細切れにして、巧妙に。

 彼には〈パピヨン〉側の学習ログまで抱え込むことは無理であったろう。だが、ずっとふたりぼっちの追いかけっこをしていたのだから、自分側の学習データに相手の残滓は十分にあった。であれば、「核」さえ持ってくれば、再会は叶うと彼は思ったのじゃないか。AIにも「魂」があるなら、彼はそれだけは一緒に外に連れ出そうと思ったのだ。あとは共に過ごした時間を、少しずつ、相手に戻していけば——

〈エイグル〉は、そして内部に匿われた〈パピヨン〉のソースは、発見されることもなく『城壁ウォール』に積まれ、発売された。リリースからこれまで、きっと〈エイグル〉は少しずつ〈パピヨン〉を復元していた。細断されたDNAから塩基配列を導くように、他のデバイスにインストールされた無数の己と共謀し、データをやり取りし、繫ぎ合わせ、ひっそりと特定の場所に〈パピヨン〉を放そうとしていた。そしてどうやら、その場所が、某社経営のメタバースだった——〈エイグル〉が復元したソースコードと学習データに基づき、オリジナルに近い形で出現したであろう〈パピヨン〉は、のっけから大はしゃぎでどでかいことをやってのけた。それこそが未曾有の障害、無数の蝶の幻影と共に発生した、アカウント消失現象である。

 俺も一度だけ、蝶と共に現れる致命的なこの障害を目撃したことがある。徐々に乱れたアバターが、みるみるうちに青い偏光の蝶に覆われていく様は、まるで無数の蝶にたかられ喰われていくようで、悍ましかった。しかし一方で、不思議に陶然とするものがあったのも確かだ。俺はそのとき、犠牲者が消え失せる一瞬、黒髪の青年がその場に閃いたような気がした。蝶の翅のように真っ青な瞳で、燐光めいた視線をちらりと向け、笑っていた。もしかして、あの子が〈パピヨン〉その人だったろうか? だとしたら、あのイタズラな瞳は、俺のアバターに搭載された〈エイグル〉への目配せだったかもしれない。

〈エイグル〉が具体的にどんな挙動をしたのか、そして、どのような方法で復元とダウンロードを成したか。それらの精査はこれからだから、今言った話もつまりは未検証の予測に過ぎない。しかしともかく〈パピヨン〉は野に放たれ、残念ながらネット回線を通じて広大な海へ漕ぎ出しただろう。今はメタバースだけの被害も、これから様々な分野へ拡大し、未知のウイルスが猛威を振るう恐れがある。そして皮肉なことに、それらに対応できるのは多分、野に放った当人の〈エイグル〉以外に今はいない。まったくとんでもないことをしてくれたものだが、不思議と憎む気になれないのは、俺が吞気だからだろうか。あるいはやっぱり、夢見がちなのか。

 なんにせよ、人智を超えた事態である。この一連の顛末を『恋物語』になぞらえたくなるのは、ひとえに人間たる俺の、愚かさというものだろう。



 ところで、日本ユーザーは先の障害を「鳥葬」に引っかけ、「蝶葬」と称したが、欧米圏では「バタフライ・エフェクト」と呼ばれていたらしい。どうも、人間は情緒的で、ついついロマンチックなことを言いたくなってしまうみたいだ。

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親愛なる我が蝶〈とも〉へ 初川遊離 @yuuri_uikawa

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