冷たい海に甘い毒を
守宮 靄
最初で最後の
母様が南方の商人からまた妙なものを買った。球形をしたガラスの水槽にみっちりと詰まる、白いぐちゃぐちゃしたなにか。白い髪の毛のようなものが水の中でゆらゆらと動いていたから、ああこれはまだ生きているのだと知った。
「この世でいちばん強い毒」
「日の神に寵愛さるる春宮であれ海の深さには敵うまい」
「乾かして粉にし水に混ぜよ」
「これさえあれば私の娘が、私が」
薄暗い興奮を滲ませて隠そうともしない母様の呟きにも、一度も顔を見たことがない春宮の命にも興味がなかった。半透明の白いものは水槽の中で球形に圧し固められ、絹糸の束のような器官を窮屈そうに蠢かせている。みずみずしいその身体が水槽から引き摺り出され、干されて縮むさまを思うと、胸の下の方がすっと冷えるような気がした。この生き物はこんなふうにしてここに閉じ込められていていいものではないと思ったから。
私は水槽を抱えて塔を抜け出した。
流されるままに漂っていたら唐突に海が狭くなった。柄杓に掬われても救われはせず、水面から勢いよく引き上げられたときに腕の二、三本がぶちぶちぶちとちぎれていったが、その音を聞いたのは僕だけだっただろう。狭い柄杓の水ごと別の狭い器に移され窮屈な姿勢のまま身動きが取れなくなった僕を、鰭も鰓もない奇妙な風体の、濁った色をした陸の魚たちがかわるがわる覗き込んだ。
「こんな危ねえもん誰が欲しがるんだ?」
「知るか。×××の旦那がえらく血眼になって探してる、いい値になるんだからそれでいいだろ」
「じゃあ北方の酔狂な金持ちの道楽かな」
「だから知るかよ」
そのまま暗い場所に閉じ込められた僕は、光の一片も届かない海底の夢をみていた。
次に目覚めたとき、目の前には幾分か小さな陸の魚がいた。深海と同じ色の目が二つ並んで僕を映していた。その魚は太い腕を僕の器に巻きつけた。腕は波と同じリズムで僕を揺らしていく。
誰にも見つからずに海に面した岩場まで降りることができたのは奇跡と言っていい。水のいっぱい入った水槽は重く、両腕の感覚を鈍くぼかしていた。躓いてよろめいた私の腕から水槽が飛び出し、中身は月の光にきらめきながら弧を描く。
ばしゃりと水に叩きつけられたそれは揺らめきながら広がった。薄絹より透き通った傘から伸びるたおやかで完璧な曲線。刺繡のような繊細な模様が夜の海で白く淡く発光している。
心地よい揺れが途絶え、僕は器から追い出された。海中を漂っていたときのようなふわりとした感覚を味わったのも束の間、僕は岩壁のように固い海面に叩きつけられた。衝撃の余韻がじわじわ遠のいていくのを感じながら、僕のふるさとよりずっと冷たい海で腕を伸ばす。寒い。寒い。見上げれば、あの魚と目が合った。大きな瞳はやはり海の色だった。月の白い光を背負って、僕の腕より細く柔らかい器官のふちが真珠母色に光っている。
触れたい、と思った。
伸ばした腕がちょうど水面のところで、触れた。
雷のような衝撃が指先を貫いた。それが何より繊細に透き通る、名前も知らないこの生き物を初めて見たときの感覚にあまりにも似ていたから、痺れが指先から手のひらへ、痛みが腕から胸へ這い上がっても、これで良かったのだと思う。
重くなる瞼を閉じれば全身に鼓動が響き、波の音との境が消える。
見開かれた海色の瞳はいっそう輝いた。魚は二度、三度と痙攣し、ゆっくりと海に向かって倒れてくる。瞳は閉じられ、二度と僕を映してはくれない。寒さのため自分の腕の数もわからなくなっていく僕に、陸の魚が覆いかぶさる。触れたところだけが懐かしい海と同じ温度になったから、凍えてしまうまでこのままでいようと思った。
冷たい海に甘い毒を 守宮 靄 @yamomomoyan
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