第3話
「お」
「おおっ」
『彼女』がこちらを振り返って、いたずらっぽくにんまりと笑った。
駆け寄ってくる。
背中の半分まで届くほどの黒髪に透けるような白い布地のワンピース。僕の半分ほどの背丈。
「こんにちは。いい天気ですねっ!」
「うーん、虫取り?」
持っているものから当たりをつけてみる。虫取り網を片手に、虫かごを白くて細い手首にぶら下げている。硬いプラスチックを長時間ぶら下げていたからか、ほんのりと赤い輪っかが出来ていた。
「残念。正解は魚釣りでした」
「それでどうやって魚を釣り上げると?」
いつから魚は虫取り網で釣れるものになったんだろうか。生物樹の進化とは真っ向から対立する『彼女』の思考に少しばかりの頭痛を覚える。
「お魚さんも自由に空を飛びたいときもあるんですよ。あいきゃんふらいだってしたいんです」
「それは些か自由の定義に偏りが見受けられるね」
「もちろん美味しく食べますから、お魚さんの魂は永遠に自由です。リリースなんてしてあげません」
「急なサイコパス」
怖いですか、と『彼女』は真っ平らな胸を張る。
どうかな、と僕は応える。
いくら頭のおかしいサイコパスだって、相手は女子小学生だ。たしか、十歳とか言っていたから四年生だったかしら。
うーん、謎だなぁ。
「さあ、生きましょう!」
「ニュアンスの違いが顕著である」
「案外間違ってませんよね?」
「確かに……いや、でもなぁ……」
虫取り……いや、魚釣りだったか。
川が近くにあったかどうか。
靴紐を結び直すために屈む。アリがとことこと一匹、僕の靴をよじ登ろうとしている。
「本当に、お前は……」
「お前ゆーな、あなたの名前を『オマエ』にするぞ」
なんと。
女子小学生様は肩を怒らせて、その割に顔はとても楽しそうに笑っていた。
「──大野結、っていう名前があるんですけどっ! ここって実はテスト範囲?」
久しぶりに故郷に帰ってきた。
十年前に同じクラスだった女子高生(故人)が、なぜか女子小学生になっていた。
何を言っているのか分からないって?
うん。僕も何がなんやら分からないんだ。
白くて細い腕が僕の腕に巻きついてくる。まるで深海に住まうタコのようだった。ぬくい温度が細くて薄い身体から伝わってくる。
そのままずんずんと人の確認も取らないで進んでいく。
「今の時間帯は平日の午前中。普通の小学生は学校に行くものだと思っていたんだけどね」
「のんのん。わたしを大衆に迎合した人間だと捉えてもらっては困りますね。いつでもどこでも、ワタクシ大野はおんりーわんですので」
小学生大野は、高校生大野が辛うじて保持していた『常識』というスパイスを入れ忘れたカレーのようだった。具体的には思考に深みが足りない。つまりバカであり、後先を考えない。
「反社会的思想だ」
「ハンシャ! それも一理? いや、半理? とにかく! 海! 行きましょうっ!」
「川はともかく、この街に海はないんだよなぁ」
ここから海まで県境を越える必要がある。平日の午前中。通常の人間、それも、ニートになったばかりの僕にそんな覚悟があるわけもない。
「じゃあ図書館行きましょう」
「なぜ?」
「知識の海です。大洋ですよ」
「そっち方面か」
「予想外ポイントは何点ですか?」
得意げなお顔をキラキラと晒す大野だった。
まつげが長い。瞳はまるで透明な水晶のよう。整った顔立ちにここまで微笑みかけられれば、心臓も跳ねて仕方のないというものだ。
今、思うに、僕は大野が好きだったのかもしれない。……もちろん、目の前で綺麗なバカ面を晒している大野(小学生)ではなく、ちゃんと手足の伸びきった大野(高校生)のほうが。僕は断じてそっちの趣味を持ってなどいない。多分ね。
新しい暮らしというのは、綿あめに似ていると思う。
回せば回すほど大きくカラフルに膨らんで、幸せになっていく。
そうして、回せば回すほど重くなって、やがて耐えきれずに地面にぽたりと落ちるのだ。地面に落ちた綿あめは、綿あめとしての存在価値を失って、色の付いた砂糖水になっていく。黒々としたアリが集まって、持ち去って、やがてまっさらな棒だけが残る。
綿あめの棒は、空虚で、味もしなければカラフルでもないけれど、それは唯一固くてリアルなものである。
新しい暮らしには、そんな空虚さがほんのちょびっと芯にあると、僕は思っている。……変だろうか。
「うんうん、とーっても変です、寂しい人です!」
騒がしい声が割り込んでくる。耳がガンガンする。
「思考を盗聴するのは止めなさい」
「あらま。遠くをなんかぼんやりと見つめていたので言ってみただけですが、図星でしたか?」
「……別に」
けけけ、と大野は悪魔のように唇を歪ませた。女子小学生とは思えない表情だった。
そう、女子小学生とは一般的に思うよりもだいぶ賢いものだとほんの数日前に気がついた。
僕が小学生の頃なんて、カブトムシを追いかけ回したり、女子のスカートをめくったり……いや、条例に引っかかるのか、今それをやれば。
とにかく無鉄砲で生きていたわけで。それに比べて大野といえば……女子小学生というレッテルに猛然と喧嘩を売る彼女は正しく世界の敵であった。それもまた、全力で生きている範疇に入るのだろうか。
「楽しいですねー! レッツゴー! 海へー!」
白の裏地と透明なビニール素材の中に黄色の星のシールが散りばめられたサンダルを自転車のカゴに勝手に放り込んで、大野は僕の肩に顎をのせる。
白いうなじに小さなつむじ。さらりと首筋に触れる黒髪をぼんやりと見る。
「僕は炎天下の中、どうして君を乗せてまで自転車をこがないといけないのか分からないけどね」
「青春っすよ?」
「便利を通り越して、記号になっている言葉だ」
「でもお好きでしょう、青春」
「……ごもっともで、青春っん!」
ギアを上げて力一杯ペタルを踏み込む。
二人乗りである。れっきとした悪いことだ。法に照らし合わせれば道路交通法違反となることだろうか。
それに、乗っているのは二十九歳の成人男性と十歳の女子小学生である。
兄妹と詐称するのも、親子とするにも微妙な年齢差。絶望的に顔のパーツは似通っていない。
色々と世間の目がある。胃が痛くなりそうだ。
軽自動車は論外だった。連れ込めば完全に社会から抹消される予感がする。
僕はギリギリラインで綱渡りしていた。真下は剣山であり、大野は空の彼方からこちらを覗き込む巨人として、息をふうふうと吹きかけてくる。
プトレマイオス図のイメージだ。全方位おっさんのところを大野に差し替えればいい。
自転車はあぜ道をゆっくりと進んでいく。背中にねっとりとした体温を感じる。正直暑苦しい。汗で湿ってるし。
「なあ、大野」
「なあに、お兄ちゃん?」
甘えるような声が耳元で囁かれる。……お兄ちゃん、なんて。いつから僕は大野の兄になったのか。ちょっとドキマギしてしまったじゃないか。
顔をずらして大野を見ると、肌色の足指が僕の脇腹を抉った。
「いっ!?」
「ほらほら、前向いてください、危ないですよ」
ぐりぐりしてくる足をはたき落として、僕は前を見据えた。
「うっさいわ、ボケ」
セミの声が輪唱している。
地面から昇ってくる水蒸気が陽炎を作って、道がゆらゆらと揺れている。
「ふむ。今、ちょっぴり素が出ましたよね? ぷにっと?」
「……僕は人間相手、いつでも紳士的な態度を心がけておりますよ」
「まあ、ワタクシが人間じゃないみたいな口ぶり、失礼しちゃう」
「普通の人間は、人間社会に迎合しているものなんだよ。人間は社会的な生き物だ。つまり君は学校に行くべきだ」
何が面白いのかケラケラと笑っている。足は僕の背中をぐるんぐるんとなぞっている。くすぐったい。
「じゃーあ、わたしって、生物学にかけると何に分類されるんでしょうかね。社会から外れた人間の分類されるべき場所は?」
……。はぁ。
一つ、息を吐いた。
こんな大野だが、時折強く胸を抉ってくる。
「……さあね」
その言葉を発した瞬間、酷く冷え込む感覚に襲われた。まるで、炎天下のあぜ道が一瞬にして南極の深海に様変わりしたかのようだった。
真っ暗な深海を、落ちていく。落ちていく。
大切だったはずのもの、そうであると認められなかったものを置き去りにして、ただ落ちていく。
──上司からの叱責、満員電車の息苦しさ、恋人からこちらに向けられる冷たい視線……通知が鳴り止まないスマートフォン。
背中がこわばった。
「じゃあっ、わたしが決めちゃってもいいってことですか? いいですよねぇ?」
大野の楽しげな声が聞こえて、ふと、戻ってくる。
一気に汗が噴き出した。遠ざかっていたセミの声がまた聞こえ始める。
「哲学者にでもなるつもり?」
「それも悪くはないですねー、でも、ダメです。もっと遠くに目を向けないと、世界は壊せません」
「うん?」
「んしょっとっ!」
大野が僕の背中に手をついて、自転車の上で立ち上がった。……ち、ちょっと待てっ! バランスが。
ふらつく自転車を尻目に、大野はそのままポーズを決める。
「わたしはあ! 自由な女だあ!!!!」
タイタニック的なポーズだった。
「待て待て待て、落ちる落ちる落ちるから!!」
やはり、大野は頭がやられている。
僕は自転車を止めて、倒れてくる大野を身体を使って受け止めた。細い身体からは想像できないほど重さ。
人の重み。なし崩しに倒れた僕は、打ちつけた全身の痛みに抗議するように吠える。
「ああああああっ!? いってぇ!!」
「いい鳴き声っすねぇ!」
腕に収まって傷一つついていない大野は、けたたましく笑っていた。
「自転車壊れるじゃねぇか、ふざけんなよっ!?」
「わたしはですね」
拳を振り上げて怒鳴る傍ら、大野は心底楽しそうに空を見上げている。
腕が真っ直ぐと真上に伸ばされる。人差し指も同じように。
「あそこに行きたいんです」
青が広がっている。神様が置き忘れたのか、雲は一つもない。
「空なんてちゃっちいもんじゃなくて、もっともーっと向こうに行きたいんです。ライトさん二人組なんて過去の人物にしちゃいます」
「……夢はNASAの宇宙飛行士?」
「いえ、やっぱりここは全宇宙の支配者です。みんな奴隷にしちゃいます。ぶっちゃけラスボス目指してるんで。夢は大きくないと!」
「そうかそうか、頑張れよ」
近頃の小学生はどんな思考回路をしているのか。そろそろ教育委員会に苦情の一つでも入れるべきやもしれん。
「あなたの腕の中って快適ですね。ここに住んでもいいですか?」
「プロポーズには答えられません。あいにく、僕は肩と腰が死にそうなんです。助けてください」
それどころか全身の骨が砕けそうだ。つーかマジ痛ぇ。
「痛いの痛いの飛んでいけ〜」
「……それは子供にだけ効果のあるヒールなんで」
「歳を取るって、いいことあります?」
大野は時折、やけに鋭い。
腕から下ろしてやると、大野は犬のように素早く足を動かして僕の背後に回り込む。
そしてぺたぺたと背中を触ってくる。
「大丈夫です。病院メンテは必要ありません」
「詫び石が欲しいところだな」
「じゃあ、わたしとおてて繋ぎましょう」
なぜ身内でもない小学生と手を繋がなければならないんだ。それになぜ報酬気味なのか。
「セロトニンちゃんが泣いてますよ? しくしく」
「泣かせとけ泣かせとけ」
「でも、おててはやっぱりもらっときます」
細い手指を絡めてくる。
同じ人間の手なのに、こんなに細くて小さい……人類の神秘を目の前で開帳されるような気分だった。
「デートっていうのは、相手をドキドキさせなきゃいけないんです。あなたが努力するのは義務なんですっ」
これはデートだったのか。知らなかった。
知らないことを知ると、人間は少しだけ以前より賢くなる。そして、同時に退屈になってしまう。
倒れている自転車に駆け寄っていく。引っ張られるままに、僕もよたよたと引きずられていく。
「……おもりはいつからデートという意味を内包するようになったのかね」
「半世紀ほど前からです」
「嘘こけ」
実のところ、大野に引っ張られるままめちゃくちゃやるというのも、まあ悪くなかった。
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