初恋の声

@HRUKA

The Voice of My First Love

 類まれない聴覚を持って生まれた工藤小百合にとって、日常を快適に過ごすための耳栓は、必需品だ。

 幼い頃から音に敏感で、とりわけ突然鳴る大きな音には強い恐怖を感じてきた。運動会のピストル、雷の轟音、サイレン、工事現場など、この世界は有りとあらゆる騒音で溢れていて、小百合を悩ませていた。

 大人になり自分が「聴覚過敏」という感覚過敏症の一種を持っていることを知る。三十歳を過ぎた今でも、若者にしか聴こえないはずの「モスキート音」をしっかりキャッチできる、耳を持っていた。

 そんな小百合の特技は、一度聴いた声は二度と忘れないというものだった。営業職などでは一度会った人の名前と顔は忘れないという特技が武器になるものだが、その点でいうと彼女の特技は、日常生活や仕事場ですごく役に立つということもなかった。

 

 小百合が六歳の頃、彼女は幼馴染の濱田マリコの家で「初恋」に出逢った。

 マリコには八歳年上の腹違いの兄、海斗がいた。マリコの家に遊びに行くと、一際目立つ金色の頭をした海斗は、居間にあるレコードプレイヤーの前に寝そべり、なにやら外国の騒々しい音楽を永遠に聴いているようだった。

 マリコが言うには、彼は「ふりょー」で中学校を「とーこーきょひ」しているそうだ。小百合には何だかその言葉の響きが妙にカッコよく聴こえた。

 マリコと二人で近くの公園で散々遊んでから、彼女の家にお邪魔した。キッチンでマリコと麦茶をゴクゴク飲んでいると、居間から海斗が鳴らすレコードの音がしてきた。今日は珍しく日本語の歌のようだ。まるでガラス細工のような透き通った歌声は儚く繊細で、小百合の鼓膜を、優しく愛撫するように震わす。

 耳を澄ましているうちに、この綺麗なハイトーンボイスの持ち主が女性でないことに気付く。(こんなに美しい声をした男の人がいるなんて!)小百合はすっかりこの声に魅了され、生まれて初めての「胸のときめき」を覚えた。

「ホントにステキな歌声だよねえ」と、さっきから隣で、リスのようにセサミクッキーをポリポリ齧っているマリコに話しかけた。

「お兄ちゃん、この頃ずっとこの曲ばっかり聴いてる。輝きながら・・・っていう曲なんだって」

(歌声にピッタリの曲名だなあ)と小百合はうっとりした。

 それから二ヶ月が経った頃に、マリコの一家は遠くへ引っ越してしまった。

 突然、親友を失った小百合は、残りの幼稚園生活を寂しく過ごしたが、小学校に入学してからは、新しい友達にも恵まれ、マリコとの文通も徐々に途絶えてしまった。 


 マリコの兄、濱田海斗に再会したのは、偶然の出来事だった。

 九月の残暑が厳しい昼下がりに彼は、小百合が働くカフェ「リリー」にやってきた。

 小百合は、無精髭を生やし、全身黒のファッションに身を包んだ中年の男性客が座るテーブルに、冷えた水を一つ運んだ。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 男は入店時からつけていた高級そうなヘッドフォンを、ゆっくりとした動作で耳から外すと「アイスコーヒーを一つ、お願いします」といった。

 彼の口から発せられた周波数が、小百合の耳の鼓膜を揺らしたその瞬間、小百合のメモリーは六歳の頃に舞い戻り、大好きだったマリコとその兄、海斗のことが鮮明に蘇った。当時中学二年生で、声変わりを既に終えていた彼の声を、小百合の耳は確かに覚えていた。

「海斗くん!」小百合は、思わず彼の名前を呼んだ。

 唐突に自分の名前を呼ばれた海斗はギクリとし、

「えっと、どこかでお会いしましたっけ?」と、怪訝な顔を浮かべた。

「すみません。あの私、マリコの幼馴染で……」

「ああ、マリコの……懐かしいなあ。マリコとは、もうかれこれ二十年近くは会ってないかなあ……父が離婚してしまってね」

「そうだったんですね。なんだかゴメンなさい」

「いやいや。ええっと、もしかして、近所に住んでた小百合ちゃん?」

「そうです!覚えててくださってたなんて……」

「ほら、あの頃って俺、学校にも行かず家に居たじゃない?いつも楽しそうに二人でキャッキャ言って遊んでるのがちょっと羨ましくてね。でも小百合ちゃん、よく俺のこと分かったね。そんなに昔の面影あるかなあ?」と、海斗は不思議そうに首を傾げている。

「実は声を覚えていて、海斗くんの声を聴いて思い出したんです」

「え?俺の声だって?」

「はい、あのう、私って一度聴いた声は絶対忘れないので」

「へえ、マジかあ。それは凄過ぎるね!」と、感心した様子で海斗がいうと、小百合は少し照れたようにその長い睫毛を伏せている。そして、ふと思い出したかのように顔を上げて「アイスコーヒーお持ちしますね」と、海斗にいうと、足早にカウンターへ戻った。

 慣れた手つきでアイス用のコーヒーをハンドドリップで淹れながら、小百合はノスタルジックな気持ちに浸っていた。天然水で作られた自家製氷を入れたロンググラスに、急冷させたコーヒーを丁寧に満たしていく。


「お待たせしました」

 ソファに深く腰掛けた海斗は、再びヘッドフォンをつけて目を閉じたままでいる。彼の側に立つと静かなカフェの中では、ほんの微かに彼のヘッドフォンから音楽が聴こえてきた。海斗がまだ目を閉じているのをいい事に、小百合はその微かな音に全集中を注ぎ、その類まれない聴力で音を拾ってみた。

 そして、そこから聴こえてきたのは、紛れもない「初恋の声」だった。

 海斗はふと鼻腔にコーヒーの香りを感じて目を開くと、アイスコーヒーをシルバートレーに載せて、静かに涙を流しながら立っている、小百合の姿があった。

「お待たせしました、アイスコーヒーです。ごゆっくりどうぞ」といいながら、グラスをテーブルに乗せた。

「ありがとう。っていうか小百合ちゃん、なんで泣いてるの?」

「あ、ゴメンなさい、さっき海斗くんのヘッドフォンから少し音楽が聴こえてきて・・・昔も海斗くんこの曲聴いてて……私初めてこの曲が聴こえてきた時、ものすごく感動して。もうなんて美しい歌声なんだろうって……」

「そうだったんだね……」そういって海斗は優しく微笑んだ。

「今お客さん居ないようだし、良かったらヘッドフォンでちゃんと聴いてみなよ」と、小型オーディオプレイヤーとヘッドフォンを小百合に差し出した。

「わあ、ありがとう!」小百合は嬉しそうに受け取ると、カウンターの椅子に腰かけてヘッドフォンを着けた。

 小百合は、あの飛びきりの透明感と繊細さを併せ持った歌声に全身が包まれて、これ以上ない至福感に酔いしれた。曲が終わっても、小百合の耳の中では癒しの周波数がこだまし続けた。三十二年間、小百合の耳の中に貯蓄されてきた、ありとあらゆる雑音、騒音がまるで全て一掃されてしまったかのような、爽快感を覚えた。

 何度もお礼を言う小百合に「なんかさあ、この曲を聴くと思春期の頃の自分を思い出して、心が洗われるんだよね」と、海斗は恥ずかしそうにいう。

「新しい職場がすぐ近くだから、コーヒーも美味しかったし、また遊びに来るよ」

 彼はそういい残し、店を出て行った。

 懐かしい人にふたたび会えた歓びと、思いがけない「初恋の声」との再会を果たして、気分はすっかり高揚し、小百合の色白な頬は見事なバラ色に染まっていた。

 

 しばらくすると「リリー」の店主、マサトが買い出しから戻ってきた。マサトとは中学生時代からの古い付き合いで、小百合にとって初めての恋人だった。大学時代に遠距離となり自然消滅してしまってからは、お互い別の相手と結婚していたが、その結婚生活はどちらもそう長くは続かず、気付くと二人とも再び独身に戻っていた。

 二年前にマサトがここ日暮里でカフェの開業準備をしていた頃、前の夫と別れたばかりの小百合は、丁度仕事を探していた。そんなある日、人手を探していたマサトから連絡を受け、今に至る。

「小百合、さっきから一人で何ニヤけてるんだよ?」とマサトが不思議がる。

「実はね、さっき、私の初恋の声に再会したのよ」

「初恋の声?なんだそれ……まあ、小百合は昔から声フェチだもんな。てか、小百合の初恋は僕じゃなかったのかい?」とマサトは半ば苦笑いをしながらいう。

「ふふふ」

 ミステリアスに笑い誤魔化した小百合は、金髪の少年から、すっかり大人の男になっていた海斗のことを、ぼんやりと考えた。

(海斗くん、新しい職場が近くにあると言っていたけど、どんな仕事をしているのかしら?あの雰囲気から言って、なんかこうアート系かしら)

「で、その初恋の声っていうのは一体、誰なんだ?」

 マサトは先ほど合羽橋で購入してきた備品をせっせと棚にしまい込みながら、小百合に問いかける。

「それがねえ、知らないのよ……でも今度教えてもらうわ、海斗くんに」

「海斗くんって?」

「幼馴染のお兄さんなの。今日、偶然お店にコーヒーを飲みに来てくれてね、そりゃもう懐かしくてビックリしたわ」

「ふーん、幼馴染ねえ。また店に来てくれるといいね。僕にも紹介してよ」

「もちろん。海斗くんは昔から根っからの音楽好きでね、マサトと気が合うかも」

「そっかあ、そりゃあ楽しみだね」

 二人はそれから明日のランチの仕込みを終えて、コーヒー豆の焙煎をし始めた。

 いつも穏やかで心地のよい静寂が流れているこのカフェには、BGMなど必要ないと考えていた小百合と、聴覚過敏な彼女に理解のあるマサトだったが、耳の中全体がまるで断捨離された後のようにスッキリした小百合は、ふとある事を思いついた。

「ねえマサト、たまにはこのお店で音楽を流しても良いんじゃないかな?」

 ポツリと突然、意外な提案をいう小百合にマサトは内心驚きつつ、いつになく明るい顔色の彼女の横顔をじっと見つめる。

「音楽を流すのは大賛成だよ、リトルリリー」

 (リトルリリー……)

 恋人時代の懐かしい愛称で自分を呼ぶマサトの声が、彼女の鼓膜をふたたび心地よく震わし始めるのを、小百合は感じていた。

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