其ノ十 香炉

「ああ、薫衣香くのえこうの良い香り……。これは高蔭たかげ様の新しい黒ののお着物にぴったりだわ」


 高蔭の父としゅうとめ良子よしこが朝食を取る広間ひろまの次の間では、高蔭が本日何処かへ出掛けると言うので、おりくはいつもの様に、ここだけは女中にやらせずに手づから、火取りの香炉こうろの中に小さな香炭こうたんを起こして、高蔭のその日の着物に似合う香を調合ちょうごうして焚き、その香炉を竹の伏籠ふせごで覆うと、高蔭が本日来て行く着物をそこに掛け、良い香りをくゆらせて移す仕事をして居りました。


 そこへ、高蔭が朝食を取りに入って来ましたのでお六は、

「近頃、御隠居様方ごいんきょさまがたの方が、何やら騒がしい様ですね」

 と尋ねました。


 高蔭は思いました。母はお六に何の説明も無く、一人でどんどんお玉を受け入れる準備を進めて居り、お六の事は自分に任せたと言い捨てた……。こうなったらもう自分でお六に全てを話すよりほか無いのか。


 しかし、今朝のお六は調子が良いのか、昔の様な穏やかで優しい笑みを浮かべてこちらを見つめて居る……。もし今、お夏とお玉を四ツ井よついで引き取ると言う事をお六に話しでもしたら、お六はまたあの夜の様に正気を失い、どんな激しい行動に出るか分からない。


 けれど……、と高蔭は考えました。


 この事をこのままずっとお六に話さ無ければ、お夏の容態ようだいは日に日に悪化するかも知れず、お玉にまで労咳ろうがいが感染してしまっては、これほど痛ましい事はない。今日これからお玉を引き取りに行こうとしている今、今しか話す時は無かろう。


 高蔭はそう腹をくくり、はるばる伊豆から取り寄せたのを香ばしくあぶった、飴色あめいろつやを放つ肉厚のあじの干物の並ぶぜんの前に座りました。



来週に続く

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