其ノ十 したがひのつま

 おりくは地をう様な低い声でこうひとりごちると、寝間着ねまき襦袢じゅばん褄下つましたを乱して立ち上がりました。


 誰か、誰か私の燃え盛る感情の炎を消し止めて、私を昔の様な悩み無き、ほがらかな娘時代に戻して下さい。嫉妬しっとに燃え狂い、あの女の所へあくがれ出て行ってしまいそうなこの私のたましいを、ここに結びとどめて下さい、誰かどうか。


 お六は頭ではその様に思っていても、感情の波に呑み込まれた自分の肉体をどうする事も出来ず、手元に有ったありとあらゆる物、むせ返る様な匂いを放ちながら床に散らばる梔子くちなし花弁かべん白粉おしろい用の舶来はくらい硝子皿がらすざら、赤い爪紅つまべにの入った九谷焼くたにやき紅猪口べにちょこ、孤独な夜を慰める為の寝物語ねものがたりに置いてある草子そうしなどを、金箔きんぱくを練り込んだ豪奢ごうしゃ寝所しんじょ砂壁すなかべに向かって、手当たり次第に投げつけました。


 嘆きわび空に乱るるわがたまを 結びとどめよ したがひのつま


 床に散らばった源氏物語のあおいじょうの草子は、六条御息所ろくじょうのみやすどころ身重みおもの葵の上にものとなって取りいた時にんだ、この和歌の頁を上にして開いたまま、割れた硝子がらすや陶器の破片と共に、無惨に落ちて居たのでした。



 明日に続く



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