其ノ八 煙草

 高蔭たかかげは疲れた顔をして、寝所しんじょのぐるりを見渡して、剃刀かみそりの他に何か危険な物が無いかを確かめると、おりくがふだん寝物語ねものがたりに読んでいる草子そうしや、尖っては居ない化粧道具等が有っただけでした。


 高蔭は今の騒ぎで眠気もすっかり吹き飛んでしまったので、

「お六……。落ち着いたかい? ちょっと煙草たばこを吸って来る」

 と言って、部屋を後にしました。その背中からは、お六は何の表情も読み取れませんでした。


 あなた……、行かないで。


 この言葉が喉元のどもとまで出かかったお六でしたが、生来せいらいの誇り高さと、まだ冷めやらぬ男女の愛の現場に漂う、甘く生々しい、何かのうごめく動物の様な梔子くちなしの花の強い匂いに、お六自身の魂が吸い込まれてしまったかの様にむせ返り、言葉が喉に詰まって出ては来ませんでした。


 煙草盆たばこぼんならこの寝所しんじょにだって有るのに……。お六は去っていく夫の背中を見送りながら、その場にへたりと座り込み、自分と言う存在そのものが、浮世うきよに有る全てのものに見捨てられてしまったかの様な気持ちになり、その目からはさめざめと涙が流れ出たのでした。


 来週に続く

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