其ノ六 喉元

 甘く、それでいて重苦しい香りを放ちながら、畳の上に散らばる梔子くちなしの花びらを静かにひざで引きりながら、高蔭たかかげはそっとおりくに近付き、手を背後の方に回して、その刃物を妻の手から引き離そう考えましたが、覚悟を決め、固く把手とってを握りしめたお六の右手は、とても女の力とは思えぬ強さで抵抗し、剃刀かみそりの刃は先程より深く、喉元のどもと近くに添えられました。


「お……お六。大丈夫だ、大丈夫だよ」

 と静かな声で、恐怖心におびえる自分自身にも言い聞かせる様に語りかけながら、高蔭は、ようやっとその手でお六の右の手を包む様につかみました。しかしお六は肩から大きくかぶりを振って、


「離して! どうか、どうか死なせて下さい!

 女中達に聞きました。あなたは町の小路こうじのあばらに、女を囲って居るのだと。

 だから、私の様な形ばかりの妻など、生きて居たって邪魔になるだけ。だから、どうか、どうか!」

 と、自分で自分が何をして居るかも分からず、正体しょうたいなく泣きじゃくりながら、高蔭に訴えたのでした。



明日に続く

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