其ノ五 嗚咽

「ううう……」


 と言う、人間の女が発するものとはとても思えぬ、けものの様な低い嗚咽おえつの間に、時々ひっくとしゃくり上げる様なおりくの涙声を耳にして、就寝前に性の欲望を満たされた為いつもより深く、すやすやと寝息を立てて居た夫の高蔭たかかげが、眠い目をこすりながら、ようやっと体を起こしました。


「ん……なに? お六、どうした?」


 と高蔭が尋ねながら鏡台きょうだいの方に目をると、そこには何と、何か言葉にならぬ太い声を発し、泣きじゃくりながら、刃渡はわた二寸にすんは有る鋭利な剃刀かみそりを、震える手で自らの喉元のどもとに突き付けて居る、妻のおりくの姿が有ったのです。


 穏やかな周囲の人々に囲まれて、何者にもおびえる事無く育った高蔭は、初めて目にしたこの様な女の恐ろしい形相ぎょうそうに、膝を諤々がくがくと震わせながら腰を上げ、相手の気を荒げないように、静かに、静かに鏡台の方までひざでにじり寄って行きました。



 明日に続く

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