其ノ四 陰陽

 確かに、好きな男に抱かれるその刹那せつな、それは限りなく幸せな事で、はしたない程のよろこびが、声と共に自分の体の中を駆け抜けて行った事も事実、ただ……。とおりくは遠のきそうな、それでいて眠りに落ちる事も出来ない朦朧もうろうとした意識の中で考えました。


 夫婦の行為が落ち着き、すやすやと子供の様に眠りに就く、夫高陰たかかげの若く美しい横顔を眺めながら、何かに取りかれた様な歓喜の時間から急に、現実という闇に再び突き落とされたお六は、生来の気質としていんようとを激しく行き来するきらいが有り、この時は喜びから一転、朝から終日感じて居たのと同じ、孤独の闇のふちに再び一人置き去りにされた様な気持ちになって居りました。


 そんな時にまた、吐き気のする様な甘い梔子くちなしの花の匂いが鼻を突いて来ましたので、お六は夕方鏡台きょうだいの脇の屑籠くずかごにばらばらにして捨てて置いた、白い梔子くちなしの花びらの入った紙を強い力で取り掴むと、鏡に写し出された、寝不足のため目元にはくまが出来、見苦しい小皺こじわの有る若くは無い女の顔に向かって、それを激しく投げつけました。


 そしてお六は、絞り出す様な嗚咽おえつと共に、鏡台の上に有った例の青鈍色あおにびいろに光る剃刀かみそりを再び手に取ると、今度はお六自身の喉元のどもとに、自分でそれを突き付けたのでした。



 来週火曜日に続く

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