中編下 病

其ノ一 剃刀

 それから一年ほど経った頃でしょうか。 四ツ井よつい家での出来事に御座います。


 夫婦の営みが済んだ後、梔子色くちなしいろ有明ありあけ行燈あんどんの薄明かりの中、体の力が完全に抜け落ちて、至福から一転、気鬱きうつな気持ちに取りかれたおりくは、まるで母親の乳を十分に飲んで満ち足りて眠る赤子あかごの様に、無邪気むじゃきに寝息を立てて居る年下の夫、高蔭たかかげの愛おしい寝顔をぼんやりと眺めながら、鏡台きょうだいの隅に置かれた、青鈍色あおにびいろに研ぎ澄まされ、名工めいこうめいの入った一点物いってんもの眉剃まゆぞり用の剃刀かみそりの方に再び、目をりました。


 再び、と言うのもその刃物は、日がな一日食欲などまったく起こらず、ほとんど箸を付けられなかった夕餉ゆうげの後、寝所しんじょに一人戻ったお六が、夫の高蔭が湯から戻って来たなら、一思いに高蔭を刺して自分も死のうと思って、凝視ぎょうしして居た剃刀かみそりだっからでした。


明日に続く

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