其ノ十五 心

「確かに、人は儒仏じゅぶつの道の説く教えに従い、正しくのみ生きられれば、それほど結構な事は有るまい。ただ人には、今のお前さんの様に、当人にも全く意のままにならない抑え難い心の動き、もののあはれと言うものが有り、時に人を狂わせることが有る。特に、人を激しく乞うる気持ちとはそう言うものだ。


 そうしたことは、何を隠そう若い頃、私自身にも身に覚えが有る。

 ……周囲の者、全てを傷付けて、ある人に恋をしてしまった事がな」


 まさか先生の様な高名な人格者が……。高蔭は初めて聞く話を耳にして、ずっとうつむいていた顔を初めて上げて、先生の方を見ました。


「ただ、お前さん自身にそうした手に負えぬ心の動きが存在するように、傷付けられた側、おりくさんにも同じ様に、ままならぬ心の動きが有る。


 誰かの心を傷付けると言う事は、それだけの重い代償を、生涯払い続けると言う事なのだ。

 ……お前さんにその覚悟は有るのかね?」


 先生はそれだけ言うと、手にして居た茶道具の柄杓ひしゃくを引いて、水こぼしの建水けんすいに立て掛けてお置きになりました。


次章に続く

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