其ノ六 草の原

「あの、それで……。これはどなたからの文と、春庭様にお伝えしたら宜しいでしょうか?」

 と私が姫君にお尋ね申し上げますと、一瞬、姫君のほおが咲いたように紅潮こうちょうし、

「まあ、あの方のお名は、春庭様と仰るのね。春の、庭。何と素敵なお名前でしょう。まさしく、花のうたげ相応ふさわしいお名前だこと」

 とひとしきり感心されました。


 姫君は愛らしく少し首をかしげてお考えになってから、

「そうね、私の事は……。『草の原をば』とでも、春庭様にお伝え頂ければ」

 と仰って、意味ありげに睫毛まつげをお伏せになられると、長い単衣ひとえの袖をひらりとひるがえして、化粧の間に入って行かれました。


 私は、姫君の突然のお申し出に戸惑いながら、二の丸御殿の櫓門やぐらもんを出ますと、今朝ここを通った時には、あわただしさにまぎれて全く気が付きもしませんでしたが、門前もんぜん桜木さくらぎには、先ほど姫君から手渡され、自分の右手に握り締めたむすぶみされた小枝と同じように、ぽつりぽつりと、咲き染めの花が開いて居た事に、初めて気が付いたので御座います。



明日に続く

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