其ノ二十一 後ろ髪

「さ、姫様。ここに長居は無用でしょう。僭越せんえつながら私の背中にお乗り下さい」

 と小姓の弥之助やのすけが御自分の背中を差し出しますと、有明の姫君は毅然きぜんとした態度で、

「結構です。私は一人で歩けます」

 と仰り、猫のさと姫を弥之助の手にお預けになりました。


 姫君は引き戸からお出になる時、今生こんじょうではもう二度とお会いする事の無いかも知れない思い人、春庭様の働く姿を、後ろ髪引かれながら一目だけ振り返ってご覧になると、少し足を引き摺りながらも、歩いて学問所の講堂を後にしました。


 二人の小姓に守られながらおもてへ出ますと、下弦かげんの月はすでに高く昇り、朧状おぼろじょうの雲が、照りもせず、曇りも果てぬ、と言ったも言われぬ弱い光を放ち、姫君を見下ろしておりました。


朧月夜おぼろづきよに似るものぞなき」


 姫君は、誰に聞かせるでもなく、一人ぽつりとこう呟いたのでした。



次章へ続く

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