其ノ十八 医学書

「あ、いけない! 九ツ半ここのつはんにはお城の方に出仕しなくてはならないのでした。 私はこの辺で失礼させて頂きます。 あの……、これ、どうぞお使い下さい」


 私お優は、持って来た膏薬こうやくさらし木綿を春庭様の手に渡すと、自分の単衣ひとえすそが風にあおられて居る事にすら気付かぬほどに、ただ夢中で丸御殿まるごてんに向かう急勾配きゅうこうばいの石段を駆け登って行きました。


 嗚呼ああ、私は何と言う余計な事をして、春庭様に恥をかせてしまったのだろう。殿方には殿方の世界が有ると言うのに……。


 それにしても春庭様は、家では普段、大変にこやかで飄々ひょうひょうとされていらっしゃるのに、学問所ではあれほどまでに、皆に一目置かれるほど医学書や漢籍に通じ、努力を惜しまない抜きん出たお方で有ったとは……。


 私も医者を目指す者のはしくれ、もちろん、京できちんと修行された木居宣長もくおりのりなが先生の臨床に日々付き添わせて頂き、学ぶ所は数多あまた有るけれども、先ほど藤堂平三郎とうどうへいざぶろう殿が口にされて居た様々な医学書など、私も学ばねばならぬ事が、まだまだ御座いましょう。


 そうだ、今度春庭様に医学書をお借りして、写させて頂け無いものだろうか。


 私はお城に向かって走りながら、そんな事を考えて居りました。




明日に続く



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