其ノ十六 前帯

わちきだってねえ……。里に愛しい男くらい、居たさ。

 吉原よしわらに売られることになって、泣く泣く別れて来たけれどね。遠い、遠い昔の話さ」


 染太郎姐そめたろうねえさんは、その目尻に塗られたべにに掛かるくらいの、長い睫毛まつげを伏せて遠い目をすると、小指のない煙管きせるを持っている方の手を、そっとおまさの目の前にかざし、こうぽつりと呟きました。


「でも、もうこんな体になっちまっちゃあ、帰る場所もないのさ……」


 その時、

ねえさん、もうそろそろお戻りくださいな。本日はまた丹後屋たんごや様が宴を張られますので、御準備を」 


 染太郎姐そめたろうねえさん付きの仲居の富久春ふくはるが、張見世部屋はりみせべやふすま越しにこう言うと、染太郎姐そめたろうねえさんは気を取り直し、

「さあさ、仕事だ。こうしちゃあ居られない。あんたも、九平次くへいじが来る前に、とっととその不細工な化粧を直すんだね」

 とおまさに言うと、前帯まえおび花魁衣装おいらんいしょうは歩きにくいので、仲居の富久春ふくはるに手を取らせながら、しずしずと自分の控えの間に下がって行きました。 




明日に続く

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