其ノ九 藪医者

 それからひと月ほど経ち、成香屋なりきょうやの前に植わっている鬼灯ほおずきも、真っ赤に色付いて来た葉月はづきの暑い日の夕方、私お優と木居宣長もくおりのりなが先生は、往診の為、東の遊里いろざと中室なかむろの近くまで来て居りました。


 小路こうじ沿いの成香屋なりきょうや張見世はりみせ格子こうしの隙間からは、夜のお客の訪問までの束の間に体を休めて居るのか、遊女達が端唄はうたなどを口ずさみながら寛いで居る気配が感じられました。


〽 かずならぬ ふせやにおふる なのうさに

〽︎ あるにもあらず きゆる ははきぎ


 三味線の音と共に、ある遊女ゆうじょがこの様な端唄はうたを口ずさんで居るのを耳にした先生は、

「ああ、源氏の帚木ははきぎか。空蝉うつせみきみの歌から取った端唄はうただね。近頃の遊里いろざとも、粋なうた流行はやって居るものだな。」

 そんなことを呟くと、

「しかしまあ、遊里いろざとの医術は酷いものだな。病が流行はやっていたとしても、それを隠そうとするばかりで、まともな医者は立ち入れない。置屋おきや大見世おおみせならまだしも、中見世なかみせ小見世こみせともなると、あるじ御抱おかかえの藪医者やぶいしゃばかり。近頃は梅毒ばいどく流行はやって手も付けられないと聞く。」

 と仰いました。私は額の汗を拭いながら、先生の話に相槌を打って居りました。


 その時突然、成香屋なりきょうやの玄関から大きな物音がして、老婆の怒鳴る様な声が聞こえて参りました。


「此処はね、あんたの様な貧乏な行商人が来る様な所じゃあ無いんだよ? とっとと帰るんだね!」



 明日に続く

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