其ノ九 若者

 先生は、今を盛りに咲き誇る山野村やまのむらの山桜に向かって、ふしをつけて朗々ろうろうと和歌を詠じられましたので、私は聞き漏らしのないよう、細筆で懸命に日記帳に書き付けました。

 先生は歌い終わると私の書いた文字を見て、

「きょうびこの若さで、女子おなごで文字が書けるのは感心な事だが、筆跡はまだまだだな。」

 と毎回このように一通り文句を言ってから、

「まあよい。屋敷に戻ったら春庭はるにわ大平おおひらに清書させよう。」


 私とて、もう親はおりませぬが、これでも医者の娘のはしくれ、読み書きの作法程度は一通り習得しておりますけれども、孤児みなしごとなった私を、親戚の伝手つてで先生の所に御奉公させていただけて居るだけで、木居家もくおりけには感謝をしてもしきれないので御座います。


 さて、依頼された二、三件の稚児ちごをご診察された後、自宅に戻ろうと山野村やまのむら畦道あぜみちを歩いておりますと、農作業で日に焼けた顔の、質素な身なりの一人の村の若者が、大きく手を振りながら、先生と私を呼び止めたので御座います。



 連休明けに続く

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