そして海の見える町に至る

秋村 和霞

そして海の見える町に至る

「夕食できたけど、どうする?」


 僕が扉をノックしてから入ると、古い本の臭いが鼻を突く。部屋には床置きされた本が積み重なり、紙と文字で形成された山がいくつも出来ていた。今にも崩れそうなその山を、僕はバベルの塔と心の中で呼称している。きっとこの本の山が崩れ床に散らばる時には、中に書かれている言語はばらばらに分かたれているだろう。


「んー、置いておいて。後で食べるから」


 無数のバベルの塔に囲まれて、読書に耽る彼女はぶっきらぼうに言う。あまり根を詰め過ぎるのも体に毒だと言いたいが、集中するその姿に言葉を詰まらせる。


「……見つかりそう?」


「さあ。どちらにしろ、もう少しで終わるけど」


 彼女は本の表紙に付箋を貼って、次の本を山の頂上から取る。切りがいいのなら、食事にしたらどうかと思いつつ、僕は独りでリビングに戻る。


 一体何が彼女をここまで駆り立てるのだろう。曰わく、彼女はかつて読んだ本を探しているらしい。


 幼少期の頃、祖父母の家で読んだその本は、水平線を渡り歩く石で出来た巨人と、地上からその巨人を眺める人々の物語だったという。


 タイトルも作者も覚えていないそうだが、最近になって彼女はその本を再び読もうと探し始めたのだった。彼女の祖父母は既に他界し、家も取り壊され、遺品も売りに出されたと聞いていて、更に本に関する情報も粗筋だけ。そんな中、どうやって探す気なのかと思ったが、案外手はあるらしい。


 書店員や司書に探してもらったり、ネットの掲示板で質問をしたり、要は人間の集合知を活用しようというのだ。


 結果、候補となる本が集まった。問題は、その候補が百冊を超える数になってしまった事だ。


 似たような物語がこれほどあるのかと呆れるが、そこから先は力業しか方法は無い。彼女は一週間の夏休みを利用して、その全てに目を通そうというのだ。


 年間に数冊しか本を読まない僕からすると、狂気の沙汰に思える。朝も昼も夜も活字に向き合い、寝る間も惜しんでページを捲る彼女は、何か憑き物に憑かれたかの様だった。


 しかしそれも今日で終わる。なぜなら今日が夏休み最後の日なのだから。


 独りの夕食を終え、溜め息混じりに自分の食器を洗っていると、疲れた様子の彼女がリビングへとやってきた。


「お疲れ様。調子はどう?」


「だめ。全部の本に軽く目を通したけど無かったわ」


 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しながら、彼女は答える。


「そっか。残念だったね」


 僕は取り分けておいた唐揚げを電子レンジで温め、ご飯をよそってテーブルに用意する。


 あの量の本を、斜め読みとはいえ全て目を通したという話は、にわかに信じがたい。しかし、これで彼女の思い出の本探しは終わったのだ。


「まあ、そう気を落とさないでよ。昔読んだ本だから記憶も曖昧になってるんじゃない? 案外あの本の中に正解はあったのかもよ?」


「うん、そうかもしれない。なんだか、もの悲しいものね。思い出の本が、美化され過ぎて実在しないものに成っていたなんて」


 彼女は食事に箸を伸ばしながら、短いため息をつく。時間を掛けた捜索が徒労に終わったのだから、その心中は察することが出来る。


「だったら、自分で書いてみたら?」


 僕の言葉に彼女は食事の手を止め僕を見る。


「自分で書く?」


「そう。もう原型が分からないほど美化されたのなら、それは新しい物語になってると思うんだ。だから、自分で思いでの本を書いても、問題ないんじゃない?」


「無理だよ。実は私、あんまり海を見たことないんだ」


「それなら、海を見に行こう。なんなら引っ越してもいい」


 僕の提案に彼女は迷うように目を伏せる。仕事のこと、友人のとこ、将来のこと。きっと色々な事を考えているのだろう。


「……行ってみようか。引っ越すかどうかは別にしてもね」


 覚悟を決めたように顔を上げた彼女の瞳は、まだ見ぬ水平線の先に石の巨人を見据えていた。

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そして海の見える町に至る 秋村 和霞 @nodoka_akimura

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