第3話

※ ※ ※



「大分、体が透けてきたなぁ……」


 粉々に砕けた、石の依代すら掴めないくらいに。

 儂の腕は透過していた。

 依代がなければ、田の神として儂はもう何もできなくなる。氏神は、土地に帰るだけだ。


 儂は、砕けた石碑の横にうずくまった。


 もう時間がない。もう儂のことなど、里の皆は忘れてしまうだろう。

 ならば……。


 儂は目を閉じて、できる沢山の楽しい記憶を呼び起こしたのだ。


 春は田んぼ一面に、桃色のレンゲ草が揺れてたなぁ。

 そうそう! 

 毎日毎日子どもが来て、楽しそうにレンゲ草を摘んでたなぁ。

 そして、にっこり笑って、儂に花飾りをくれたっけ。

 嬉しかったなぁ。

 レンゲ草の時期が終わると、清水を仕切る板が抜かれるんだ。

 綺麗な山水がゆっくりと田んぼに入る。

 田植えが終わると、緑の小さな新芽がどこまでも続いて、大地を彩る緑は本当に綺麗だった。

 儂も、ただただ。美しい風景を見てるわけではない。

 害虫が寄らないように。

 台風で稲が折れないように。

 毎日祈祷して、皆が美味しい米をたくさん食べられるように。田の神としての仕事もして。

 金色の稲穂が頭を垂れる頃は、ようやく一仕事終えて、安心したものだ。

 新米を頬張る里の皆の笑顔に、儂もついつい笑顔になって。儂は本当に幸せだった。


 皆が幸せなら、儂はそれでいい。


 儂の役目が終わっても、皆が儂を忘れても。

 皆が幸せなら……それでいいんだ。


 だから、儂は。

 最後まで幸せ者だ。


「おや? 田の神ではないか?」


 目を閉じ、大地に帰ろうと。

 体も殆ど透けてしまっている儂の頭の上から、穏やかで暖かな声が落ちてきた。

 儂は驚いて顔を上げた。


「に……瓊瓊杵命ニニギノミコト!?」


 五穀豊穣・商売繁盛の神様である瓊瓊杵命が、儂の目の前に立っている! 


 儂は、慌てて立ち上がった。

 にっこりと笑う瓊瓊杵命から、日の光のように暖かな光が発せられて、最も簡単に儂の体を透過する。

 儂は自分が、異様に眩しく感じた。


「どうして、こんなところに!?」


 神様の格好から程遠い。

 そう、里の者が〝デパート〟とか言うところに着ていくような。

 人の小洒落た服を身に纏った瓊瓊杵命は、照れながら頭を掻いた。


「あぁ、今ちょうどというものを満喫しておってな」

「バカンス?」

「まぁ、休耕田みたいなもんだ」

「休耕田……ですか。だから、そのような恰好を?」

「人間に紛れる時は、便利な格好での」


 なんか……自由な性格なんだな。

 でも、確かに。

 いかにも神様らしい恰好をしていたら、万が一バレた時に大変そうだ。


 儂は小さく笑った。

 そんな儂を見て、瓊瓊杵命は再びにっこり笑うと小高い山を指差す。


「この先に剣平神社がある事を思い出しての。たまたま通りかかったら、田の神が役目を奪われて、大地に帰りかけてるではないか」

「……」

「まだ若いのに……。難儀であったな」

「いえ、難儀ではありません」

「ほう、難儀でないと?」

「はい。儂はこの地の者達に大変よくしていただいた。難儀だなんて、思いもしません」

「依代を壊されたのだぞ? 荒神あらがみになって祟りでも起こせばよかろうに」

「瓊瓊杵命、儂は田の神です。田の神はいつも笑ってる神様なので、荒神になるなんて……。そんな事をしたら、里の者達を悲しませることになる。だから儂は、荒神にはなりたくないのです」

「ほう」


 思いの丈を吐き出したら、なんだか急に悲しなって、寂しくなって。

 儂は透けた拳を固く握りしめた。


「でも本当は、まだ……消えたくない。消えたくないけど、幸せなまま消えるなら……」


 そこまで言ったら、何故か涙がポロポロと落ちてきた。


 なんでだろう。

 さっきまで凄く幸せだったはずなのに。

 消えてなくなることに、こんなにも執着していたなんて……。


 思わず下を向いたら、止まらない涙は、次から次へと地面を丸く濡らしていく。


「なるほど。お主は大事にされてきたんだなぁ」


 瓊瓊杵命は、儂の頭にそっと手を添えた。


 あたたかい……。


 瓊瓊杵命の手の温かさが、じんわりと儂を覆って。

 不思議なことに。悲しさとか寂しさが、一瞬にして小さくなった。

 同時に、大地に帰ろうとしていた体が、はっきりと色味と形を成していく。


「え!? なんで!?」

「依代を元に戻すことはできぬが、剣平神社の祭神代行を命ずることはできるぞ?」

「祭神……代行!? なんと!? なんと、畏れ多いことを」


 瓊瓊杵命の驚くべき言葉に、儂の涙が一気に引いた。


 いや、待って! 

 瓊瓊杵命は何を言いだすのだ! 

 御祭神代行なんて! 

 いくらなんでも、無理すぎる!


「我を祀る神社も、結構多いのだ。なかなかじっくり回れなくて、どうしたものかと困っておったところだ」

「だからと言って」

「お主のような田の神が祭神代行をしてくれたら、我も一安心なんだが。どうだ? やってみてはくれないだろうか?」


 正直戸惑った。

 本当に良いのか? 

 儂は大地に帰った方がいいのではないか? 


 でも、そんな理屈より。

 ただ単純に嬉しかった。またここに居させてくれることが、里の皆を見守っていけることが。


 本当に、本当に嬉しかったんだ。


「はい、仰せのままに」


 儂は、深く頭を下げた。

 消えかけていた儂の存在が、瓊瓊杵命によってまた生まれ変わるみたいで。


 儂は本当に……本当に、嬉しかったんだ。



※ ※ ※



「……」

「何を固まっているのだ、ミワ」


 いや、だって。

 固まるだろ、普通。

 だって、タミーの言ってることは、まるっきり神話だろ!?

 つか、ジャンル的にはファンタジーだろ!? 

 そりゃ絶句するほど固まるだろ。


「ということで。儂は瓊瓊杵命に勅命を受けて、祭神代行をしている身。敬いたまえ」

「……おい」

「なんだ、ミワ」

「さっきの話に出て来た、健気な田の神はどこに行ったんだ?」

「目の前にいるではないか」

「俺にはそんな田の神は、どこを探しても見えないんだが」

「はぁ!? 目の前の健気な田の神に向かって、なんだその口の聞き方は!!」

「どっからどうみても、生意気なガキにしか見えないって」

「本当、ミワはミチに似てないな! ミチは、儂に凄く優しかったぞ!!」

「!?」

「レンゲ草の花冠を作ってくれたり、正月や彼岸には餅もくれたり!」

「あぁ、俺と違ってよくできた神主だからな。犬猫がイタズラしても怒らねぇよ!」

「ッ!! 儂は腐っても田の神だぞ!? 犬猫と一緒にするなッ!!」

「そもそも……!」


 反論しようとして、俺は口をつぐんだ。

 そうだよ、コイツは曲がりなりにも神様だった。

 今更ながら親父の偉大さ、というか。掴みどころなさに閉口してしまった。


 親父、すげぇのと関わってやがった……。

 そう思った瞬間、ここにきて本来のビビりが急に鎌首をもたげるように。変な畏敬の念が胸を圧迫する。


 いや、俺。

 ひょっとして、ヤバいヤツと仲良くなっちゃった? 

 っていうか、俺。バチ当たりじゃね?? 

 さらに言ったら、この状況って結構極秘だったりしないか?? 

 気は小さくても、嘘はかなり下手な俺だ。

 ちゃんと神主として、剣平神社をタミーを。

 守れるのか、急に不安になってきた。

 大丈夫か、俺? 色んな意味で大丈夫か、俺ェッ!!


「どうした、ミワ。急に静かになって」


 おむすびが入っていた包みを几帳面に畳みながら、タミーが俺の顔を覗き込んだ。

 今更ながら畏れ多い、なんて。俺はまっすぐなタミーの視線を見ることができなかった。


「いや、なんでもない」

「なんだか顔色も悪いぞ?」

「気にすんな。俺が……俺の肝が小さいだけだ」

「だろうな」

「ッ!」


 反論したいけど、反論できない!

 今思えば、面妖なガキという認識だった方が良かった気がする、なんて。

 俺は、体内で湧き上がる不安定さを抑えるように。冷たい水筒の中身を一気に喉に流し込んだ。



※祭神→ 神社にまつってある神。祭祀(さいし)の対象である神。

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