後編

「今の問答で、貴方の〝ふちどり〟を奪いました。それによって、貴方という存在が薄れ始めているのです」

「仰っている意味が——」

「貴方も気付いている筈です。貴方を殺した御曹司の男、そいつだけではなく、貴方の許嫁だった青年将校の姿さえも、全く思い出せないということに」

「そんな莫迦ばかなこと——」

 女は、立ち上がろうとした。しかし、結局上手く立つことが出来ず、再びへたり込んでしまう。


「思い出せないのではありません。元からそのような人物たちはいないのです——貴方も含めてね」

「貴方、先刻さっきから何を仰っているのですか?これは、貴方の仕業ですか?」

「騙すような真似をして申し訳ありません。先程僕は、貴方の話を聞きに来たと申し上げましたが、実を言うと、此処に来た目的はそれだけではないのです」

「それだけではない、とは?」

「僕は、貴方という存在を〝解体〟しに来たのです」

「解体——私を?」

 ええ、と南雲が頷く。


「幽霊というものは一般的に、肉体が死に絶えた後、魂のみがそれを離れ、浮遊している、そんな風に考えられていますが——そんなものはファンタジイ、生きている人間がでっち上げられたまやかしだ。幽霊とは、誰かがそこにいると信じるから存在するのです」

「どういう意味でしょう?」

「貴方がこの館に現れるから、その様な噂が立ったのではない——この館に女の幽霊が現れるという噂そのものから、貴方という存在が生み出されたのです」

「つまり、私は元来存在しなかった、ということですか?」

 御明察——よく通る声が闇に響く。


「こんな街外れに廃墟の洋館が建っていれば、そりゃあ幽霊が出るなんて噂も立ちましょう。そういった〝場の力〟のようなもので噂が集まり、ぎされることで、如何にもそれらしい怪談話が紡ぎ出される。そして、それが人々に信じられることで、貴方はこの館に顕在化した。いわば貴方は、噂という情報の集合体に過ぎないのです」

 そんな南雲の言葉を受け——

「……ふ、ふふ」

 ——女は笑った。笑うしかなかった。

 決して、認めるわけにはいかなかった。


「やはり、怪談師の方というのは、面白いことをお考えになるのね。でも、そのような虚仮威こけおどしには惑わされませんわ。私は確かに此処で生まれ、此処に暮らし、そして此処で死んだのです」

「残念ながら、それは偽りの記憶です。貴方は此処に——いえ、何処にも存在していなかったんだ」

「黙りなさい!」

 女の怒号が部屋に木霊する。 

 しかし、南雲は黙らない。

 眼鏡の位置を直しつつ、冷静に、残酷に——淡々と〝解体〟を続けていく。


「——この館に、名家の家族が住んでいたという事実はありませんでしたよ」

「……どういう、ことです?」

「戦前に建てられた古い建物だけに、街の人間で知っている者は少ないようでしたが——此処は、異人相手に建てられた娼館だったそうです」

「娼館ですって。貴方、一体全体何を——」


「奇妙だとは思ったんです。どうしてこんな街外れにわざわざ建てられているのかとね」

 そう言いながら——南雲はゆっくりと、右腕の包帯を解き始めた。

「しかし娼館であれば、人目をはばかってこのような場所に建てられているのも合点がいく」

 するする、するすると。

「戦争が始まったことで、外国人相手の商売が成り立たなくなり、廃墟となってしまったようですが」

 包帯が、地面に落ちていく。

「恐らく、肝試しにでも訪れた者が、打ち捨てられた娼婦の着物でも目にして、貴方の様な女の幽霊が現れたと思ったのでしょう」


「そ、そんな——」

 女が歯を食いしばり、必死に立ち上がる。

「此処が娼館だなんて——そんな——そんな訳が——」

 よろよろと南雲に近づき、掴みかかろうとしたその時だった。

 南雲が露わになった右腕を、勢いよく振った。


 ——ぶちいっ。


 厭な音と共に、南雲の右腕が女の右腕を根元からもぎ取った。

 女がギャアと叫び声をあげ、再び地面に倒れ伏す。

「貴方の〝かいな〟を奪いました」

 呟く南雲の右腕には、これもまた入れ墨であろうか、黒い文字列がびっしりと刻まれていた。

 漢字だ。経文きょうもんの類か、或いは全く別の何かか——頼りない灯に照らされた薄暗い室内では判然としない。

 しかし、手の甲に刻まれた、一際大きな文字だけははっきりと読み取ることができた。

 血の様なあかで一字だけ——『怪』。


「これで貴方は現世うつしよの人間に触れることが出来ない。また首を絞められては敵いませんからね」

 南雲が千切った腕を床に投げ捨てる。

 腕はごろごろと転がったかと思うと、端々から塵となり、あっという間に消滅してしまった。

「貴方——私に何をしたのですか?」

「言ったでしょう。僕は貴方を〝解体〟しに来たのです。貴方の正体は、貴方自身が語った〝怪談〟そのものだ。だから、その綻びを自覚させることで、情報の集合体である貴方を解体しているのです」


 嘘だ。

 女が再び立ち上がる。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ——嘘だ!

 奇声を発しながら南雲に飛び掛かるが——南雲は女を避けなかった。

 女の体が、南雲をむなしくすり抜ける。

 無様に倒れこんだ女を見下ろしながら、南雲は言った。

「無駄な足掻きはお止めなさい。触れることは出来ないと言った筈ですよ」


「何が、目的です……?」

 とある筋に頼まれましてねと南雲が答える。

「この館を再び、米兵相手の売春宿として使いたい、と。しかし、幽霊が出て人間に危害を加えるとあっちゃあ使い物にならない。そこで僕が幽霊退治に馳せ参じたという訳です。貴方が会話出来る程度に具現化していて助かりましたよ。話が出来ないと、解体するのが難儀でしたからね」

 まあ、それならそれでやり方はあるのですがと言いながら——死刑執行人と化した怪談師は、女の正面へと回り込む。


「この館は渡さない——此処は、私とあの人の——」

 南雲は皆まで言わせずに、女の顔前に右の掌を拡げた。

「さあ、これで仕上げです」

 掌には『怪』の字と同じ紅で、大きく眼が描かれていた。

 女の瞳と入れ墨の瞳——二つの視線が重なる。

 途端、抗えぬ力に絡めとられ、女は体の自由を喪失した。

 正に、蛇に睨まれた蛙。

 自分は最初から〝狩られる側〟であったことを、女はようやく理解した。

「今から貴方の〝おもて〟を奪います。僕の問いに答えてください」

「嫌——止めて——」


「貴方、名前は何といいますか?」


「私は——私の名は——」

 女は答えない。

 答えられない。

 当然だ。

 そんなものはない。

 女は単なる〝洋館の幽霊〟。

 人々にとって、それ以上でも以下でもないのだ。

 かくして——〝解体〟の準備は整った。

 南雲は拡げた掌をそのまま反し、捲り上げるような仕種をした。


 ——べりべりべりっ。


 引きはがされた顔面が宙に舞い、塵となって消えていく。

 女は耳をつんざくような叫び声を上げ、顔を押さえてうずくまった。

 もはやそこに居るのは、顔のない哀れなのっぺらぼうに過ぎない。

 南雲は女にくるりと背を向けると、出口へ向かって歩き出した。

「これで貴方は、貴方という〝かたち〟を維持することが出来ない。放って置いても勝手に瓦解がかいするでしょう」


 嗚呼——嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ——

「嫌だ……消えたくない……」

 存在しない口から漏れ出た言葉に、南雲が足を止めた。その表情は、女の位置からは伺うことができない。

「私という存在は、何の為に生み出されたのでしょう……勝手に生み出しておいて、それで消えろと言うのですか……?」

「可哀相ですが、仕様の無いことです。貴方は元来存在しなかったんだ。存在しなかったものには、消えてもらうのが道理というものです」


「私がまやかしであるというのなら」

 女が思いの丈を絞り出す。

 自らの言葉を楔とし、消えゆく我が身を何とかこの世に留めようとでもするかのように。

 そこには先ほどまでのような、人形めいた無機質さは微塵も残っていなかった。

「あの人を未だに恋い慕う、この胸の想いは何なのでしょうか……名前も判らぬあの人の、思い出すことも出来ないあの声で、己も知らぬ我が名を又呼んでほしい……そう願うこの感情は、一体何だというのでしょうか……それは確かに、質量と云うものを持って私のこの胸に存在しているのです……それなのに……それすらも、まやかしだというのでしょうか……!」




 ——外の木々が、風で揺れる音が聴こえた。

 それほどに静かだった。

 南雲は振り返ると、女につかつかと歩み寄った。

 屈み込むと、眼鏡の位置を直し、女をじいっと眺め——

「そいつが欲しかった」

 ——そう言って、にこりと微笑んだ。


「……え?」

「言ったでしょう。僕が欲しいのはレアリテ、本物らしさです。確かに貴方は虚構の存在ですが、嘘から出たまこと——その想いにはレアリテがある」

 貴方のお話、一寸だけ付け加えさせてもらいますよ——そう言いながら、南雲は洋卓へと近づいた。

 燭台を掴み、そっと倒す。

 女がアアッと声をあげる中、蝋燭の火は洋卓へと燃え移った。

「貴方、何をするのです。そんなことをすれば、この館が——」


「ある日——」

 南雲が言葉で女を制する。

 有無を言わさぬ、力強い——しかし同時に、優雅さも兼ね備えた声。

「——幽霊を恐れた一人の男が、この館に火を放ちました。火は瞬く間に燃え拡がり、館全体を包んでいきました」

 朗々と謳いあげるようなその語りの通り、火は既に床へと移り、部屋を侵食し始めていた。

「嗚呼、燃えていく、私の館が、あの人の帰って来る場所が——」

「——しかし女の幽霊は、この館という場所に囚われ、何処にも行けずにいたのです」

「え?」

 女の背後へと目線を移しながら、南雲が続ける。

「館が燃え落ちることで、ようやく女の魂は解放され、ずっと逢いたいと願っていた、彼の元へと行くことができたのです」


 南雲につられ、女が背後を振り返る。

 そこにはすらりとした体躯たいくの青年将校の人影が、炎に照らされ、壁面に映し出されていた。

「貴方……そこに居るのは、貴方なのですか……?」

 女はいつの間にか、右腕と、そして自らの顔とを取り戻していた。

 歓喜の涙を流しながら、立ち上がり、影へと近づいていく。

 一方の南雲は、やれやれと頭を掻きながら、天井を舐める炎を見上げた。

「相手方との約束では、館は其の儘にしておくことになっていましたが——まあ、場の力に噂が集まる以上、又具現化しないとも限りませんからね。それに——」

 女を見て、南雲が笑う。

「——館自体が無くなれば、貴方の怪談も語り放題という訳だ」


「私達はその中で、何時いつまでも共に居られるのですね」

 女はうっとりとした表情で、壁の影へ——恋焦がれた許嫁の影へ語り掛けた。

「嗚呼、ずっとお会いしとうございました——もう二度と、私の元から離れないでくださいませ——」

「それでは、お幸せに」

 南雲は二人に深々と一礼すると、羽織を翻して部屋を後にした。

 果たして、その言葉が女の耳に届いていたかどうか。

「ふふ——ははは——あはははは——」

 幸せそうな笑い声が、館に響き渡る。




 なんと素晴らしいことだろう。

 存在の定義など、もはやどうでもいい。

 私は今、確かにここに居る。

 ここに居るのだ。

 降り注ぐ火の粉に祝福されつつ、女は笑った。

 やがてその姿も、炎に包まれて——……

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怪談~あやかしかたりて~ 阿炎快空 @aja915

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