怪談~あやかしかたりて~

阿炎快空

前編

 幽霊が出るらしい。

 ——街外れにある廃墟の洋館には、そんな噂があった。


 手入れをされていない為に鬱蒼うっそうと生い茂る庭の木々や、外壁を這い回る蔦によって、窓から入るはずの日光も遮断され、昼でも室内は夜の様にくらい。

 そして何より、館の中に立ち込める得も言われぬ瘴気のようなものが、その不気味さを助長していた。

 置かれた椅子や洋卓テーブルなどの調度品は、埃を被り、部屋の各所に蜘蛛の巣が張られている。


 そんな、常人ならまず足を踏み入れないであろう屋内を、一人の若い男が歩いていた。

 手には燭台しょくだいを持ち、そこには火を灯した蝋燭ろうそくが一本。

 薄茶色の着流しに紺の羽織。顔には眼鏡を掛けており、如何にも青瓢箪あおびょうたんと云った頼りの無い風体である。


 しかし、その首筋には——一羽の鳥。

 鶴だ。

 左の首筋に彫られた鶴の入れ墨が、男が単なる堅気ではないことを知らしめていた。

 燭台を持った右腕には、怪我でもしているのか、肘から掌にかけてびっしりと包帯が巻かれている。


 男は蜘蛛の巣を払いながら、僅かな灯を頼りに、広々とした一室を散策していた。

 ちょうどいい洋卓を見つけ、燭台を置いたその時である。


 ——ふふふ。


 背後に何者かの気配を感じ、男は素早く振り向いた。

 が、そこには誰もいない。

 鼠だろうか?

 安堵し、ふう、と息を吐いた次の瞬間——男は背後から何者かに、両手で首を掴まれた。

 ひんやりとした、死人の様な手。

 慌ててそれを払い除けた男は、振り向きざま、とうとう目にした——人々が噂する、〝館の主〟の姿を。


 白い着物を着た女だった。その肌も着物に負けぬほど白く反面、長い髪は薄暗闇の中でもはっきりわかるほどに黒い。美しくもあるが、生気というものが全く感じられない姿だった。

「——うわっ!?」

 男は思わず声を上げ、その場で腰を抜かした。

 その姿を見下ろしながら、ケラケラと耳障りな声を上げて女が嗤う。

 男は慌てて立ち上がうると、女から離れようと後退あとずさりりした。

 しかし、女は床を滑るようにして距離を詰めると、再び男の首を締め上げる。

 華奢な姿からは想像できない、とても女とは思えぬ膂力りょりょくだった。


 藻掻もがき苦しみながらも、男はなんとかその手を振りほどいた。

 女を押しのけた反動で床に倒れこみ、咳き込みながらもてのひらを前に突き出す。

「——待った——一寸待ってください——殺さないでくれ!」

 その必死の訴えを前に、女はわらうのやめると、冷たい瞳で男を見据えた。

「貴方、何をしに此処へ来たのですか?此処は私の棲む館です」

 抑揚の少ない、掴みどころのない声だった。雪のような肌の白さも相まって、どこか人形を思わせる無機質さがある。


「勝手に入った無礼は謝ります」

 呼吸を整えながら、男が立ちあがる。

「しかし僕は、この館の品々を拝借しに参った賊のたぐいではありません。信じてください」

「では、何故此処に?」

「貴方の話を聞きに来たのです」

「私の話?」

「貴方——この世の者ではありませんね?」


 ——一瞬の沈黙。そして。

「だとしたら、何だと云うのです?」

 遠回しな肯定に、男の目が僅かに見開かれた。

 男はごくりと唾を飲み込むと、着崩れを直しながら、緊張した面持ちで口を開いた。


「僕は、怪談師というものを生業なりわいとしております」

「怪談師?」

「夏の暑い時期に人を集めて、幽霊話や妖怪話といった、所謂いわゆる怪談というやつを話して聞かせるんです。それによって皆様に涼を取ってもらい、その報酬として木戸銭を頂く。そういった吝嗇けちな興行師をやらせてもらっております」

 色々なお仕事があるものですねと女が呟く。


「しかし、夏も終わって秋になると、当然ですが、涼を取りたい人間なんぞ居やしませんからね。仕事の無いこの時期は、全国各地を行脚あんぎゃしながら、次の夏に話す根多ねたを探して回っているんです」

「それで、私の話を聞きに?」

「ええ。この街の外れの、今は廃墟となった洋館に、女の幽霊が現れるという噂を耳にしましてね。それならば、本人に会って話を聞くのが早いかと」

「貴方、私が恐ろしくないのですか?」

 恐ろしいですよ、勿論——男は口ではそう言いながらも、洋卓の椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。

 帰る気はないという、明確な意思表示だった。


「しかし、恐ろしいからこそ人に話す価値がある。それに、他人から又聞きした話より、自分で聞いた、しかも幽霊本人から聞いた話の方が、レアリテ、というものが有りますからね」

「レアリテ?」

「本物らしさ、という意味です」

 成程と呟き、女は微笑わらった。


「幽霊から話を聞く怪談師、ですか——面白い方だわ。貴方、お名前は何ておっしゃるの?」

鶴泉つるみ南雲なぐもと申します」

「ツルミナグモ。変わったお名前ね」

 芸名ですよと男——南雲も微笑う。ようやく緊張が解けてきたようだ。

「鶴の泉に、南の雲——鶴屋つるや南北なんぼく小泉こいずみ八雲やくもあやかって、それぞれの姓と名から一文字ずつ頂戴ちょうだいしているんです」

 分かりました。鶴泉さん——女はそう言うと、南雲から視線を外し、遠くを見つめた。

「貴方にお話しして差し上げましょう——」

 蝋燭の火が、不意にボウ、と強くなる。

「——私が此の館に現れる、その訳を」




 嘗て私は、この地に代々続く名家の一人娘として生まれ、両親と共にこの館で暮らしておりました。私は両親からの寵愛を一身に受け、何不自由なく育ちました。

 私には、許嫁いいなずけがおりました。

 彼は帝国海軍の青年将校でした。家同士が決めた間柄ではありましたが、私達は互いに愛し合っておりました。


 しかし、戦火が激しくなるにつれ、彼もまた、御国の為に戦地へ赴くことになりました。彼は私に言いました。

——僕は、この国を守る為、そして、君を守る為に戦いに行く。しかし、僕は必ず戻ってくる。だから、僕を信じて待っていてほしい。

 私は、彼の言葉に頷くと、彼は私を抱き寄せ、そして私の唇に、自分の唇を重ねました。

 私は、彼の帰りを待ちました。


 やがて我が国は敗れ——戦争が終わっても、彼は帰ってくることはありませんでした。

 風の噂では、彼の乗った戦艦はミッドウェーの海戦で轟沈ごうちんしたと聞きました。ですが、戦死報告が無い以上、私はそれを信じることが出来ませんでした。必ず戻って来る。彼の言葉を信じて、私は待ち続けました。

 ところが、彼がもう生きてはいないことを悟った両親は、私に新たな縁談を持ちかけました。

 相手は朝鮮戦争の特需で財を成した新興企業の御曹司でした。家を守るために、私はその縁談を受ける他ありませんでした。


 しかし、その男は好色で、私に隠れ、館の女中の一人と恋仲になっておりました。

 やがて両親が亡くなり、この家の財産が私に相続されると、それに目が眩んだ男は、女中と共謀し、私の食事に毎食、気付かれない程度の毒を忍ばせました。

 毒は徐々に私の体をむしばみ、私はとこせるようになりました。

 はらわたかれるような苦しみの中、私は思いました。

 嗚呼、今一度、彼に会いたい。でなければ、死んでも死にきれない。

 そのような無念の中、私は息を引き取りました。


 気付くと私は床を出て、この部屋に立っておりました。

 苦しみは既に在りませんでした。

 ふと横に目をやると、あの男と女中が、酒を飲みながら談笑しておりました。二人には私の姿が見えていないようでした。私は、二人の会話に耳を傾け、そして、事の真相を知りました。

 私は、病に見せかけてこの二人に殺されたのだと。

 ——私の中に沸々と、怒りと殺意が沸き上がりました。


 私は女中に近づき、その首を絞め上げました。

 女中は、グゲッ、とくぐもった声を上げ、手足をバタつかせました。

 何が起きたか分からず驚く男を尻目に、私は女中の首を更に強く絞めました。やがて、女中は藻掻くのを止め、動かなくなりました。

 ヒイ、と声を上げ、その場から逃げ出そうとする男の首を、私は後ろから掴みました。男は抵抗しましたが、私は首を絞めたまま、男の体を軽々と持ち上げました。  

 それはまるで、稚児ちごの相手でもしているような手応えの無さでした。男はダラリと宙吊りになり、そのまま、私の手の中で息絶えました。


 此処は、あの人の帰ってくる場所だ。だから、この館は誰にも渡さない。

 そうして私は、今でもこの館で、彼の帰りを待ち続けているのです——




 女の語りが終わると。

 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち——……

 薄暗闇の中、南雲の拍手が反響した。

「お聞かせいただき、ありがとうございます」


 礼を言う南雲に、女が問うた。

「お気に召しましたか?」

「いやはや、大変素晴らしかったです——」

 うんうんと頷きつつ、南雲が満足げな表情で続ける。

「——実に俗っぽく、類型的なお話だ」

「……何を仰りたいのでしょうか?」

「いえ、やはり怪談というのは、ある程度下世話で分かりやすくないと、大衆の皆々様には喜んでいただけませんからね」

「貴方——私を侮辱しているのですか?」

 女の瞳が、剣呑けんのんな光を帯びる。


「滅相もない」

 南雲は驚いた様子で首を横に振りつつも、しかし、しかしですよ——と、思案顔で続けた。

「注文を付けるのであれば、貴方のお話には足りないものがある」

「足りないもの?」

「ディテイル——すなわち細部の描写です。細部に神が宿る、などとは良く言ったもので、ディテイルが充実してこそ、話に実感、つまりはレアリテが生まれるのです」

 南雲の言葉に、女は微かに眉根を寄せた。

「では、私にどうしろと?」

「そうですね——例えば」

 南雲は立ち上がると、顎をさすりながら、部屋をうろうろと歩き始めた。


「やはりこの話は、貴方と、その海軍将校の殿方との恋物語が柱となる——しかららば、その彼の人物像を掘り下げたいところですね。彼は、一体どんな人物だったのですか?」

「彼は——それは素敵な方でした」

「それはどのように?」

「どのようにと聞かれましても——そのようなことを言葉にするのは中々難しいですわ」

「では、彼はどのような顔立ちで、どのような背恰好をしていたのでしょう?」

「そうですね、彼は——」

 と、そこで女は押し黙った。

 何故だか、言葉が出てこなかった。


「どうかしましたか?」

「いえ——止めにしましょう、このようなお話は。何だか面映おもはゆいですわ」

「でしたら、掘り下げる人物を変えましょう」

 いつの間にか、会話の主導権を握っているのは、女から南雲へと移り変わっていた。


「貴方を殺した御曹司の男。そいつはどんな奴だったんですか?」

「どんな奴って——下品で、いやらしい男でしたわ」

「もう少し具体的にお聞かせ願えますか?」

 まるで尋問の様に、南雲が矢継ぎ早に質問を浴びせかける。

「瘦せていたのか、太っていたのか。背丈は高かったのか低かったのか、醜男ぶおとこだったのか、はたまた色男だったのか——聞き手の脳内に、男のイメイジが像を結ぶようなディテイルが欲しいのです」

「——あんな男、憎たらしくて思い出したくもありませんわ!」


「思い出せない、ではなくてですか?」


 ——室内に、しんと静寂が訪れた。

 それは一瞬ながら、永遠にも似た、恐ろしい間だった。

「……何を言っているのです?」

 口元を無理やり歪ませ、女が笑う。

「そんなはずはないでしょう。自分を殺した男です。忘れたくても忘れられませんわ」

 しかし。

「でしたら話せる筈でしょう。さあ、教えてください。貴方を殺した男が、どの様な男だったかを」

「それは——」


 と——女の体が、突如ぐらりと揺られた。

 体勢を崩し、地面に倒れる。

 おや、と南雲が怪訝そうな声をあげた。

「どうかしましたか?」

「いえ——一体どうしたというのでしょう——急に、体が——」

「思うように動かせなくなったんじゃありませんか?」

「——え?」

 女は南雲を見上げた。

 もはやそこには、当初のおどおどとした頼りない男は居らず。

 眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を宿して女を観察していた。

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