怪談~あやかしかたりて~
阿炎快空
前編
幽霊が出るらしい。
——街外れにある廃墟の洋館には、そんな噂があった。
手入れをされていない為に
そして何より、館の中に立ち込める得も言われぬ瘴気のようなものが、その不気味さを助長していた。
置かれた椅子や
そんな、常人ならまず足を踏み入れないであろう屋内を、一人の若い男が歩いていた。
手には
薄茶色の着流しに紺の羽織。顔には眼鏡を掛けており、如何にも
しかし、その首筋には——一羽の鳥。
鶴だ。
左の首筋に彫られた鶴の入れ墨が、男が単なる堅気ではないことを知らしめていた。
燭台を持った右腕には、怪我でもしているのか、肘から掌にかけてびっしりと包帯が巻かれている。
男は蜘蛛の巣を払いながら、僅かな灯を頼りに、広々とした一室を散策していた。
ちょうどいい洋卓を見つけ、燭台を置いたその時である。
——ふふふ。
背後に何者かの気配を感じ、男は素早く振り向いた。
が、そこには誰もいない。
鼠だろうか?
安堵し、ふう、と息を吐いた次の瞬間——男は背後から何者かに、両手で首を掴まれた。
ひんやりとした、死人の様な手。
慌ててそれを払い除けた男は、振り向きざま、とうとう目にした——人々が噂する、〝館の主〟の姿を。
白い着物を着た女だった。その肌も着物に負けぬほど白く反面、長い髪は薄暗闇の中でもはっきりわかるほどに黒い。美しくもあるが、生気というものが全く感じられない姿だった。
「——うわっ!?」
男は思わず声を上げ、その場で腰を抜かした。
その姿を見下ろしながら、ケラケラと耳障りな声を上げて女が嗤う。
男は慌てて立ち上がうると、女から離れようと
しかし、女は床を滑るようにして距離を詰めると、再び男の首を締め上げる。
華奢な姿からは想像できない、とても女とは思えぬ
女を押しのけた反動で床に倒れこみ、咳き込みながらも
「——待った——一寸待ってください——殺さないでくれ!」
その必死の訴えを前に、女は
「貴方、何をしに此処へ来たのですか?此処は私の棲む館です」
抑揚の少ない、掴みどころのない声だった。雪のような肌の白さも相まって、どこか人形を思わせる無機質さがある。
「勝手に入った無礼は謝ります」
呼吸を整えながら、男が立ちあがる。
「しかし僕は、この館の品々を拝借しに参った賊の
「では、何故此処に?」
「貴方の話を聞きに来たのです」
「私の話?」
「貴方——この世の者ではありませんね?」
——一瞬の沈黙。そして。
「だとしたら、何だと云うのです?」
遠回しな肯定に、男の目が僅かに見開かれた。
男はごくりと唾を飲み込むと、着崩れを直しながら、緊張した面持ちで口を開いた。
「僕は、怪談師というものを
「怪談師?」
「夏の暑い時期に人を集めて、幽霊話や妖怪話といった、
色々なお仕事があるものですねと女が呟く。
「しかし、夏も終わって秋になると、当然ですが、涼を取りたい人間なんぞ居やしませんからね。仕事の無いこの時期は、全国各地を
「それで、私の話を聞きに?」
「ええ。この街の外れの、今は廃墟となった洋館に、女の幽霊が現れるという噂を耳にしましてね。それならば、本人に会って話を聞くのが早いかと」
「貴方、私が恐ろしくないのですか?」
恐ろしいですよ、勿論——男は口ではそう言いながらも、洋卓の椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。
帰る気はないという、明確な意思表示だった。
「しかし、恐ろしいからこそ人に話す価値がある。それに、他人から又聞きした話より、自分で聞いた、しかも幽霊本人から聞いた話の方が、レアリテ、というものが有りますからね」
「レアリテ?」
「本物らしさ、という意味です」
成程と呟き、女は
「幽霊から話を聞く怪談師、ですか——面白い方だわ。貴方、お名前は何て
「
「ツルミナグモ。変わったお名前ね」
芸名ですよと男——南雲も微笑う。ようやく緊張が解けてきたようだ。
「鶴の泉に、南の雲——
分かりました。鶴泉さん——女はそう言うと、南雲から視線を外し、遠くを見つめた。
「貴方にお話しして差し上げましょう——」
蝋燭の火が、不意にボウ、と強くなる。
「——私が此の館に現れる、その訳を」
嘗て私は、この地に代々続く名家の一人娘として生まれ、両親と共にこの館で暮らしておりました。私は両親からの寵愛を一身に受け、何不自由なく育ちました。
私には、
彼は帝国海軍の青年将校でした。家同士が決めた間柄ではありましたが、私達は互いに愛し合っておりました。
しかし、戦火が激しくなるにつれ、彼もまた、御国の為に戦地へ赴くことになりました。彼は私に言いました。
——僕は、この国を守る為、そして、君を守る為に戦いに行く。しかし、僕は必ず戻ってくる。だから、僕を信じて待っていてほしい。
私は、彼の言葉に頷くと、彼は私を抱き寄せ、そして私の唇に、自分の唇を重ねました。
私は、彼の帰りを待ちました。
やがて我が国は敗れ——戦争が終わっても、彼は帰ってくることはありませんでした。
風の噂では、彼の乗った戦艦はミッドウェーの海戦で
ところが、彼がもう生きてはいないことを悟った両親は、私に新たな縁談を持ちかけました。
相手は朝鮮戦争の特需で財を成した新興企業の御曹司でした。家を守るために、私はその縁談を受ける他ありませんでした。
しかし、その男は好色で、私に隠れ、館の女中の一人と恋仲になっておりました。
やがて両親が亡くなり、この家の財産が私に相続されると、それに目が眩んだ男は、女中と共謀し、私の食事に毎食、気付かれない程度の毒を忍ばせました。
毒は徐々に私の体を
嗚呼、今一度、彼に会いたい。でなければ、死んでも死にきれない。
そのような無念の中、私は息を引き取りました。
気付くと私は床を出て、この部屋に立っておりました。
苦しみは既に在りませんでした。
ふと横に目をやると、あの男と女中が、酒を飲みながら談笑しておりました。二人には私の姿が見えていないようでした。私は、二人の会話に耳を傾け、そして、事の真相を知りました。
私は、病に見せかけてこの二人に殺されたのだと。
——私の中に沸々と、怒りと殺意が沸き上がりました。
私は女中に近づき、その首を絞め上げました。
女中は、グゲッ、とくぐもった声を上げ、手足をバタつかせました。
何が起きたか分からず驚く男を尻目に、私は女中の首を更に強く絞めました。やがて、女中は藻掻くのを止め、動かなくなりました。
ヒイ、と声を上げ、その場から逃げ出そうとする男の首を、私は後ろから掴みました。男は抵抗しましたが、私は首を絞めたまま、男の体を軽々と持ち上げました。
それはまるで、
此処は、あの人の帰ってくる場所だ。だから、この館は誰にも渡さない。
そうして私は、今でもこの館で、彼の帰りを待ち続けているのです——
女の語りが終わると。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち——……
薄暗闇の中、南雲の拍手が反響した。
「お聞かせいただき、ありがとうございます」
礼を言う南雲に、女が問うた。
「お気に召しましたか?」
「いやはや、大変素晴らしかったです——」
うんうんと頷きつつ、南雲が満足げな表情で続ける。
「——実に俗っぽく、類型的なお話だ」
「……何を仰りたいのでしょうか?」
「いえ、やはり怪談というのは、ある程度下世話で分かりやすくないと、大衆の皆々様には喜んでいただけませんからね」
「貴方——私を侮辱しているのですか?」
女の瞳が、
「滅相もない」
南雲は驚いた様子で首を横に振りつつも、しかし、しかしですよ——と、思案顔で続けた。
「注文を付けるのであれば、貴方のお話には足りないものがある」
「足りないもの?」
「ディテイル——すなわち細部の描写です。細部に神が宿る、などとは良く言ったもので、ディテイルが充実してこそ、話に実感、つまりはレアリテが生まれるのです」
南雲の言葉に、女は微かに眉根を寄せた。
「では、私にどうしろと?」
「そうですね——例えば」
南雲は立ち上がると、顎をさすりながら、部屋をうろうろと歩き始めた。
「やはりこの話は、貴方と、その海軍将校の殿方との恋物語が柱となる——
「彼は——それは素敵な方でした」
「それはどのように?」
「どのようにと聞かれましても——そのようなことを言葉にするのは中々難しいですわ」
「では、彼はどのような顔立ちで、どのような背恰好をしていたのでしょう?」
「そうですね、彼は——」
と、そこで女は押し黙った。
何故だか、言葉が出てこなかった。
「どうかしましたか?」
「いえ——止めにしましょう、このようなお話は。何だか
「でしたら、掘り下げる人物を変えましょう」
いつの間にか、会話の主導権を握っているのは、女から南雲へと移り変わっていた。
「貴方を殺した御曹司の男。そいつはどんな奴だったんですか?」
「どんな奴って——下品で、いやらしい男でしたわ」
「もう少し具体的にお聞かせ願えますか?」
まるで尋問の様に、南雲が矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
「瘦せていたのか、太っていたのか。背丈は高かったのか低かったのか、
「——あんな男、憎たらしくて思い出したくもありませんわ!」
「思い出せない、ではなくてですか?」
——室内に、しんと静寂が訪れた。
それは一瞬ながら、永遠にも似た、恐ろしい間だった。
「……何を言っているのです?」
口元を無理やり歪ませ、女が笑う。
「そんなはずはないでしょう。自分を殺した男です。忘れたくても忘れられませんわ」
しかし。
「でしたら話せる筈でしょう。さあ、教えてください。貴方を殺した男が、どの様な男だったかを」
「それは——」
と——女の体が、突如ぐらりと揺られた。
体勢を崩し、地面に倒れる。
おや、と南雲が怪訝そうな声をあげた。
「どうかしましたか?」
「いえ——一体どうしたというのでしょう——急に、体が——」
「思うように動かせなくなったんじゃありませんか?」
「——え?」
女は南雲を見上げた。
もはやそこには、当初のおどおどとした頼りない男は居らず。
眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を宿して女を観察していた。
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