第28話
事故後のニュースでは、ライフジャケット着用の指示をしていなかったフェリー運営会社が責任問題を問われ、世間からの集中砲火を浴びていた。
緊迫し始めた空気の中、だれかが沈没する、と呟いた。
それから、あっという間に海水が入り込んできて、だれかが叫んだのを皮切りにあちこちから悲鳴が飛び交う。
『いやだ、死にたくない』
『だれか助けて』
『どうして避難誘導がないんだよ!』
『怖いよ、お母さん』
『助けはまだなの?』
『どうしてこんなことに私が……』
私は突然のことに怖くて動けなかった。
『水波。大丈夫だよ。もう通報は済んでるみたいだし、すぐ助けが来るからね』
ガタガタ震える私を、綺瀬くんが優しく抱き寄せて落ち着かせてくれる。
深呼吸をするなかで、私は大事なことを思い出した。トイレから、来未がまだ戻っていない。
『……ねぇ、来未は?』
顔面から熱が消えていくような心地になる。
『来未がいない。私、探してくる』
『ダメだよ。俺が行くから水波はここに……』
『いい! 私が行く!』
来未は私が告白するタイミングを掴めるように出ていったのだ。私が連れ戻さなくては。きっと、デッキのほうにいるはずだ。
『おい、水波!』
綺瀬くんの静止を振り切って、私は急いで来未を探しに向かった。来未は船首近くの通路にうずくまっていた。揺れがひどく、身動きが取れないようだった。
『来未!』
『水波!』
私に気付いた来未が、ホッとした顔をする。
『来未! 危ないから、早くこっち!』
『うんっ……!』
すぐに綺瀬くんもやってきた。手にはライフジャケットを持っている。
『来未、とりあえずライフジャケット持ってきた! これを着て……うわっ!』
直後、さっきより大きな爆発音とともに、ものすごい揺れが船体を襲った。
『きゃあっ!』
衝撃で派手に転び、私はデッキを滑り落ちる。
『水波っ!』
間一髪で綺瀬くんが滑りながらも私を抱き寄せ、デッキの手すりに掴まる。一秒もなかったように思う。
バクバクする心臓を押さえながら、視界に青色がはためいた。それが来未のワンピースだと分かるまで、時間を要した。
『来未っ!』
綺瀬くんが叫んだ。
その瞬間。来未の姿が消えていく。目の前の光景が、私の目には世界中の時計が止まったんじゃないかと思うくらいスローモーションに映った。
『来未!』
叫びながら、私は綺瀬くんの手を振りほどいて来未に手を伸ばす。
『水波っ』
来未が伸ばしたその手を掴むと、私は来未の体重に引っ張られるようにデッキを滑った。全身が勢いよく手すりにぶつかり、痛みにうめき声が漏れる。
そして、手の力が緩んだ一瞬。海水で、手が滑った。
来未の手の感触がなくなった。
『くるっ……』
ライフジャケットを着ていなかった来未は、瞬く間に白い波の中に消えた。
消えた来未のゆくえを探そうと、手すりに乗り出す。水の中から、手だけが見えたような気がした。
『来未っ! 来未!!』
『水波! 危ないっ!』
呆然とする私を、綺瀬くんが無理やり手すりから引き剥がし、船首の近くの部屋に連れ込んだ。
心臓が口から飛び出すんじゃないかというくらい、どくどくと高鳴っている。
『どうしよう……どうしよう、綺瀬くん。来未が……』
『大丈夫だから、とにかく落ち着こう』
綺瀬くんはパニックになる私を優しく抱き締めて、何度も『大丈夫』だと言い続けた。
到底、落ち着くことなんてできなかった。
来未が流されていく光景が頭から離れない。海面から伸びた手が、こちらに向かって広げられた手のひらが、こびりついて離れなかった。
来未が落ちた。来未は、まだライフジャケットを着ていなかった。このまま流されたら、溺れてしまう。
『どうしよう、私のせいだ……来未……どうしよう』
『水波。来未は大丈夫だから、じっとして。頭切れちゃってるから止血しないと』
『そんなことより、急いで来未を探さないと! このままじゃ、来未が』
再びデッキに向かおうとする私を、綺瀬くんが強く引いて制した。
『ダメだよ! 水波も怪我してるんだ! 水波まで海に落ちたら大変だ! ……大丈夫。すぐに助けが来るから、来未のことはレスキューに任せよう』
『そんなこと言ってたら来未が死んじゃうよ!』
『落ち着けって、水波!!』
初めて、綺瀬くんが声を荒らげた。いつも穏やかな綺瀬くんに怒鳴られ、私は息を呑む。驚きと恐怖で、余計に涙が込み上げた。
泣き始めた私に気付いた綺瀬くんが、ハッとした顔をする。
『……大きい声出してごめん。でも、今はとにかく、俺たちも助かることを考えるんだ。ね?』
『……うん』
こめかみをあたたかいなにかがつたっていく感触に、そっと手を持っていく。
ぬめりと生あたたかい液体が指先に触れる。見ると、私の手は赤黒く染まっていた。そういえば、デッキにぶつかったときに頭を打ったのだった。
思い出したように頭がズキズキとして、意識がゆっくりと遠くなっていく。
その間にもフェリーはどんどん沈んでいるようだった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
綺瀬くんは爆発で壊れた瓦礫やなんかを集めてきては、なにかをしていた。お互い喋らなくなって、私は痛みで意識がぼんやりとし出して。
次第に頭痛がひどくなり、視界が白く霞み始めた。
『ねぇ……綺瀬くん』
私はぼんやりした意識の中で綺瀬くんに声をかける。
『私たち……ここで死ぬのかな……』
『なに言ってるの。もうすぐ助けが来るから、諦めちゃダメだよ。大丈夫。もう頭の血も止まったよ。ゆっくり深呼吸してみて』
『うん……』
あのときの私は、もう生きることを諦めていた。だから、どうせ死ぬならばと思って、言ったのだ。
『綺瀬くん……私ね、ずっと綺瀬くんに言いたいことがあったんだ』
『なに?』
綺瀬くんは、優しく私の手を握ってくれた。
『私……今日告白しようとしてたんだよ』
白くぼやける視界の中で、綺瀬くんの喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。
『……綺瀬くんにね、好きって言おうとしてたんだ』
人生で初めての告白なのに、私はそのときぜんぜん緊張なんてしてなくて、言えてよかったという安心すら覚えていた。
『……そっか。ありがとう。水波、俺も好きだよ。水波のことが好き』
『本当……?』
綺瀬くんは今にも泣きそうな顔をして、私の顔を覗き込んでいた。
『……うん、うん。だからもう少し……』
『ありがとう……。私、死ぬ前に告白できてよかった』
今度こそ、綺瀬くんが潤んだ声で叫んだ。
『死なないよ! 生きて帰ろう。絶対、生きて帰るんだよ』
『……うん……』
目を閉じる。
『水波!』
遠くで綺瀬くんの声がする。
何度目か分からない爆発の音が響いて、とうとう私たちがいる部屋にも海水が浸水してきた。
じゃばじゃばと荒い水の音を聞きながら、ぼんやりと考える。ほかの人はどうしているだろう。もう救助の人は来ただろうか。
来未も、助け出されただろうか。
私たちがここにいることをだれか知っているのだっけと思い、すぐにどうでもいいか、どうせもう死ぬんだし、と考え直して目を閉じた。
このフェリーはじきに沈む。助けなんてこない。私たちはきっとこのまま死ぬんだ、そして、海の底に沈む……。
それなのに、綺瀬くんはまだなにかをやっていた。目を開くと、真剣な横顔が見える。
こんなにも絶望的な状況を前にしても、綺瀬くんはぜんぜん諦めている様子はなかった。それどころか、私の気が抜けるのをなんとか阻止しようと必死に声をかけてくれていた。
『水波、なにか楽しい話をしよう。助けが来るまでもう少しだから』
こんな状況で楽しい話なんて浮かぶわけないのに、それでも綺瀬くんは本気で考えているようだった。
そんな綺瀬くんの横顔を見つめて、やっぱり好きだなぁ、と改めて思った。
……こんなときなのに。もう死ぬのに。
『……私……綺瀬くんともっと一緒にいたかったなぁ』
綺瀬くんがハッとしたように私を見た。
『いるよ。今も、明日もこの先もずっと。明日はどこに行こうね? もう一日くらい遊びたいよね』
『……来未とも喧嘩したままだし……私、なんで喧嘩なんかしちゃったんだろう……来未に会いたい……』
『……大丈夫。絶対仲直りできるよ。来未、さっきぜんぜん怒ってなかったじゃん』
『……来未、大丈夫かな……』
声が震える。頭の痛みが嘘のように消えて、いよいよ死ぬんだと思い始めた。それでも綺瀬くんは取り乱すことなく、私に『大丈夫』だと言い続けた。
『来未は大丈夫だよ。きっと先に救助されて、俺たちを待ってる。だから、最後まで諦めちゃダメだよ』
あたたかい手のぬくもりを思い出す。
『仲直りするんだろ?』
綺瀬くんは、優しい声でそう言った。
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