第29話
そうだ……。
「綺瀬……くん……」
涙声でその名を呼ぶ。すべて、思い出した。
あの日私は、最後まで綺瀬くんと一緒にいた。綺瀬くんは、怪我をした私を全力で助けようとしてくれて、実際私は、綺瀬くんのおかげで穂坂さんが来るまで生きていられたのだ。
足から力が抜け、その場にへたりこんだ。
「水波ちゃん! 君、顔色が……」
「……大丈夫です。すみません、ちょっと、力が抜けちゃって……」
穂坂さんの声を遠くに聞きながら、私は、どうしようもない悲しみに囚われていた。
……今さら思い出したって、なにも変わらない。
現実は、変わらない。……だって。
綺瀬くんはもう、ここにはいない。
あの日、あの事故で死んでしまった。
すっかり癒えたはずの頭の傷が、ガンガンと痛み始める。私は呻き声を上げ、その場にしゃがみ込む。
「水波ちゃん、ちょっと休もう。もう一度お店に……」
「いえ、大丈夫です……すみません」
視界が霞み、目をぎゅっと瞑ってこめかみを押さえたそのとき。
『――水波』
すぐ近くで綺瀬くんの声がした気がした。
ぼろぼろと涙を零しながら、私は思い出した真実に絶望する。
頭の中では、あの日のできごと記録された映写機が回り続けている。
病院で目が覚めてからずっと、なにかが足りないと感じていた。
来未がいなくなって、ひとりになって。
死んでしまうのではないかと思うほどの喪失感に襲われて。
来未の存在の大きさを思い知った。だけど、それでもまだなにか忘れているような気がしていた。
それを今、ようやく――……。
『……水波。ずっと守ってやれなくてごめん。でも、俺はずっと、死んでも水波のことが大好きだから』
半分失くした意識の向こうで、綺瀬くんはそう、私に言っていた。
部屋はどんどん海水に満たされていくなか、必死に私を空気のあるところに押し上げながら。
『だから、水波は生きて』
「あの事故で、綺瀬くんは……綺瀬くんだけフェリーの中に閉じ込められたまま、救出が間に合わず沈んだんですね」
「……うん。綺瀬くんは、足が瓦礫に挟まっていて……即時救出が困難だった。ただ、綺瀬くんの身体があったおかげで、水波ちゃんはわずかに残った空気中に顔を出したままで助かったんだけどね」
綺瀬くんは事故当時、じぶんの足が挟まれて溺れながらも、必死に私を守ろうとしてくれていたということだ。
「君を先に救出したあと、もう一度フェリーに戻る前に、上から撤退命令が出されたんだ」
穂坂さんの声が遠くなる。
そしてあの日、私が死のうとしたときも……。
再び私の前に現れたのも、きっと私を守るためだ。私がまた、死に近付いたから……。
息すら忘れて記憶の波に呑まれたあと、思い出したように嗚咽が漏れた。
それから、どうやってホテルに戻ったのかよく覚えていない。気付いたらホテルで、朝香たちと一緒にいた。
帰ってきてからも、私の気分は沈んだままだった。そんな私に朝香たちはなにも言わず、いつもどおりに接してくれる。
ホテルの部屋に入ったとき、事故のときの知り合いと話してきたということだけを軽く伝えたからだろう。
「水波、お菓子食べる?」
琴音ちゃんが聞いてくる。
「ううん。さっきケーキ食べちゃったから」
そう断ると、琴音ちゃんは、
「えっ、ずるっ!」
と、私に抱きついた。
「あは、ごめん」
「いいなぁ。なに食べたの?」
「……ティラミス」
「私も食べたかった」
言いながら、琴音ちゃんは私の頬を片手で掴み、ぷにぷにとしてくる。私はされるがままになりながらも、頭の中は綺瀬くんのことでいっぱいだった。
「あ、そだ。ここ、お土産コーナーのとなりにカフェあったよね! ショーケースのほかに焼き菓子も置いてあったし、なんかご当地お菓子とか売ってないかな?」
「どうだろう……」
「行ってみない?」
「いいね!」
「今日もお菓子パーティーしたいしね! ね、水波ちゃんも行こうよ!」
「……私は、いいや」
短く言って再び黙り込む。
「……そっか。じゃ、私たちが代表して行ってくるね! 水波は帰りを待つべし。朝香も行こ」
「あ……うん」
朝香は気が進まなそうにしながらも、琴音ちゃんと歩果ちゃんに連れられて出ていった。
ひとりきりになった部屋で、私は途方に暮れた。
ベッドに身を投げ出し、シーツの海に埋もれる。
無機質な天井やライトを見上げ、私は今まで、彼のなにを見ていたのだろうと考える。
思えば私は、彼のなにも知らなかった。住んでいる場所も、どこから来ているのかも。聞こうと思えば、タイミングはいくらでもあったはずなのに……。
たぶん、無意識のうちに避けてたのだ。恐ろしかったのだ。この現実を突きつけられるのが。
胸が苦しい。でも、綺瀬くんはきっと、もっと苦しい。
私は、命を懸けて助けてくれた人の前で、なにをした?
『私の命、どうしようが私の勝手でしょ』
そう吐き捨てたのだ。私のせいで命を落とした綺瀬くんの前で。
どうして忘れていたのだろう。どうして忘れられたのだろう。
たったひとりの好きな人を……命の恩人を。
「有り得ない……」
私はどれだけ綺瀬くんを失望させたら気が済むのだろう。
『俺さ、大好きな人がいるんだ』
初めて会った日、綺瀬くんは言っていた。
『でもね、その人はもうどうやったって俺の手が届かないところにいる』
悲しいくらい綺麗な顔で、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめていた。
あの顔は……ぜんぶ、私に向けてくれていた言葉だったのだ。
『生きててよかったよ』
綺瀬くんの笑顔が蘇る。息ができないくらいに胸が締め付けられた。
綺瀬くんはずっと、私に会いに来てくれていたのだ。また死のうとした私を、助けるために。生きろと伝えに。
じぶんは、遺体すら引きあげてもらえていないのに……。
『本当は、ひとりが寂しかったんだ』
綺瀬くんはいつも寂しそうにしていた。当たり前だ。広くて深い海の底に、ひとりぼっちなのだから。
『俺が水波を助けたのは、俺のため。ちょっとでいいから、そばにいてほしいって思ったんだ。……寂しくて、死にそうだったから』
震えが止まらない。
私はなんて愚かなのだろう。どれだけ綺瀬くんの気持ちを踏みにじれば気が済むのだろう。
最後に告白までして……あれじゃ、綺瀬くんにただ縋っただけだ。助けて、と、みっともなく縋っただけだ。
「私……バカだ……」
ベッドの上で小さくなって泣いていると、部屋の扉が開く音がした。ハッとして、両手のひらで乱雑に涙を拭う。
「……水波」
戻ってきたのは、朝香だった。
「あ、朝香……なんで? お土産は……」
朝香は少し怒ったような顔をしてベッドに座る私に近付くと、おもむろに抱きついてきた。
驚いて固まる私に、朝香は「もう……やっぱり泣いてた」と呟く。
「……朝香?」
「……ごめん。水波、私……カフェの話聞いちゃったの」
朝香は私と目が合うと、泣きそうな顔を俯けた。
「勝手なことしてごめん。でもなんか……水波が思い詰めた顔してたから心配で……」
着いていっちゃったんだ、と言いながら、朝香の瞳からはぼろぼろと涙が零れていた。
「でも、ダメだった。すごくショックだった。水波が抱えてるものは知ってたのに、いざ話を聞いたら……私が理解してると思ってた水波の苦しみは、本当にふんわりした、なんとなくな悲しみだったんだなって思って……私、水波の辛さとかぜんぜん分かってなかった」
「……仕方ないよ」
彼女に、させなくていい悲しみを与えてしまったのだと思うと、さらに心が重くなる。
「……ごめんね。せっかくの修学旅行なのに、気分の悪い話を聞かせちゃって」
「違うよ! 私が勝手に聞いたんだから! ……私こそ、ごめん。プライベートな話なのに……気を悪くしたよね」
首を振る。少しの間を開けて、私は朝香にならいいかと話し始める。
「私ね、あの事故のとき、大好きな人に命を救ってもらったの。それなのに私、その人のこと今まで忘れてたんだ」
自嘲気味な笑みが漏れた。
「信じられないよね。事故のあと、今まで一度も思い出すことなく、忘れて生きてたんだよ……」
震える声で呟くと、朝香が強い口調で「それは違う」と否定した。
「……仕方なかったんだよ。その人を忘れることは、水波の心を守るために必要なことだったんだと思う」
それでなくても怖い思いしたんだから、と朝香が慰めてくれる。
それだけだったらまだ、私も仕方ないと思えたかもしれない。けれど、今の私はそれを素直に受け取ることはできない。
「……でも、綺瀬くんは命と引き換えにしてまで私を助けてくれたのに、私はまた死のうとした」
朝香の目が泳ぐ。
「それは……そうかもしれないけど、覚えてなかったんだから仕方ないよ」
違う。仕方ない、では許されないのだ。
「簡単に言わないでよ。これは、そんなひとことで片付けていいことじゃないんだよ! 綺瀬くんは死んじゃったんだよ! 死んだ人はもう二度と戻ってこないの。残された家族の気持ち考えたことある!? その人の命と引き換えに生き残った人間の気持ちが、朝香には分かるの!? 綺瀬くんは私を助けたせいで、今もたったひとりで海の底に沈んでるんだよ!」
激高した私に、朝香が静かに息を呑んだ。
「……ごめん」
しょぼんとした朝香を見てハッとする。
朝香はなにも悪くない。ただ落ち込んだ私を元気づけるために気を遣ってくれていただけなのに。
「はぁ……」
学習しないなぁ、私は……。
また、朝香を傷付けた。
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