君がくれた灯火を胸に

第27話


 それから、ケーキを食べ終えると私たちは店を出た。


 別れ際、穂坂さんが思い出したように振り向く。

「あぁ、そうだ」


 振り向いた穂坂さんを見上げ、私は首を傾げる。


「これだけは伝えないとって思ってたんだ」

「なんですか?」

「綺瀬くんのことだ」

「……え?」


 その瞬間、世界中の音が一瞬にして鳴り止んだような気がした。


「フェリーから救出したのはたしかに俺たちだけど、船内でずっと君を守っていたのは綺瀬くんだよ。彼がいなかったら、君はきっと今ここにはいない」


 足が地面に根を張ったように、動けなくなる。


「瓦礫が人為的な感じで山になっていたから、ずっと考えてたんだ。これはあくまで俺の想像だけど……綺瀬くんは、取り残された船内で気を失った君をどうやったら助けられるか、必死に考えていたんだと思う。それで、瓦礫を集めて空気が残っている空間への足場にしたんだ。もしじぶんが支えていられなくなったとしても、君に意識がなくても、最後まで沈まないように。あの極限の状況でそんなことができるなんて、ふつうじゃ考えられない。でも、それほどまでに綺瀬くんは君を守りたかったんだと思うよ」


 ……だから、せめて彼の遺体だけは引きあげて、あたたかい場所に弔ってあげたかった。


 そう言って、穂坂さんはやるせなさげに目を伏せた。

 私は、穂坂さんの話を呆然と聞いていた。


 ――今、この人はなんて言った? 綺瀬くん……? 穂坂さんがなんで綺瀬くんを知ってるの?


 話の中で、名前は言ってないはずだ。それなのに、なんで……。


 信じられないものを見るように、穂坂さんを見上げる。穂坂さんはひっそりとした声で告げる。


「綺瀬くんを帰してあげられなくて、ごめん」


 穂坂さんの声は金属が擦れるような耳鳴りの音のように、耳の奥で響き続ける。


「親友三人で、中学最後の旅行だったのにな」


 私はその場に立ち尽くしたまま、考える。


 ずっと、疑問に思っていた。ずっと、違和感を感じていた。でも、知るのが怖くて目を背けていた。


 綺瀬くんに会うたび、ずっと感じていた違和感の正体に。


 自殺しようとした日、初めて出会った不思議な男の子。まるで運命の糸を手繰り寄せたかのように出会った男の子。


『落ちてたら、死んでたんだよ!』

 死のうとした私を全力で引き止めてくれた。


『俺が君を助けた理由はね、俺の手が届くところにいたからだよ』

 今思えば、私はあの日恋に落ちたのだと思う。


 綺瀬くんは、私の話を最後まで静かに聞いてくれて、そして、『助けられたから生きているのだ』と、ごくごく当たり前のことを教えてくれた。


 いつだって会うのはあの広場で、綺瀬くんはいつも寒い寒いと言っていて。手を握ってあげると、ひどく安心した顔をして眠る。私も、綺瀬くんと手を握ると、悪夢を見ずに眠れる。


 どうしてだろうって、ずっと思ってた。


 私は息を吐きながら、穂坂さんに訊く。

「綺瀬くんって、あの……紫咲……綺瀬ですか」

 すると穂坂さんは、戸惑いながら頷いた。


「ごめん、俺……なにかまずいこと言った?」


 綺瀬くんが、沖縄にいた? 一緒に旅行に、あのフェリーに乗っていた……?


「写真とか……ありませんか。綺瀬くんの」

「あぁ……うん」


 穂坂さんはポケットからスマホを取り出し、画像を見せてくれた。


「これ……綺瀬くんのお母さんにもらったものだけど」


 かすかに息が漏れた。


 そこに写っていたのは、海岸で撮ったと思しき写真。四角い枠の中で三人の少年少女が笑っている。それは紛れもなく、私と来未と――そして、綺瀬くんだった。


 決定的な写真を前に、脳内でビジョンが爆発した。


 紫咲綺瀬。


 来未と同じく中学生のときに知り合った私たちは、三人でいつも一緒にいた。


 綺瀬くんはもともと来未の幼なじみで、私と来未が仲良くなったことで知り合った。優しくて、爽やかで、スポーツも運動もできる男の子。


 綺瀬くんは内気な私にもすごく良くしてくれて、私は川の水が上流から下流、そして海へ流れ着くのと同じくらい当たり前のように、綺瀬くんのことを好きになった。


 中三の春、私は親友の来未に綺瀬くんが好きだと告白した。そうしたら来未はとても喜んで、卒業前に三人で旅行に行こうと言ったのだ。そこで告白すればいいと。


 そして中学最後の夏休み、私たちは三人で計画を立てて沖縄へ旅行に行ったのだ。


 そこで……あの事故が起こった。


 呼び覚まされた記憶に、愕然とする。


 沖縄に来た私たちは、受験生であるということも忘れてはしゃいだ。海でバナナボートに乗って、シュノーケリングをしたり。水族館で見たことのない魚をたくさん見て、地元で有名なアイスを食べて、食べ歩きも散々した。


 そして、三日目の朝、あのフェリーに乗ったのだ。


 綺瀬くんへの告白は、フェリーでする予定だった。来未が席を外して、ふたりきりになったとき。


『トイレに言ってくるね』


 来未のその言葉が合図だった。


 だけど、いざその日になったら怖くなってしまって、フェリーに乗る直前、私は来未にやっぱり告白するのはやめると言ったのだ。


 ……そうだ。それで、喧嘩になった。


 来未は、私が綺瀬くんに告白するのをやめると言ったら、怒ったのだ。


「なんのためにここまできたの。志望校違うんだから、卒業したら離ればなれになっちゃうんだよ。今言わなきゃ絶対後悔するんだからね!」


 それから来未はずっとぷんすかしていて、告白しないならもう口を聞いてあげないからと、なにを話しかけてもぜんぜん反応してくれなくなった。

 そんなものだから私も悲しくなって、寂しくて……それで、無視し返したのだ。


 綺瀬くんは喧嘩してしまった私たちを取り持つように、間に入って場を盛り上げてくれていた。

 フェリーが出航し、そのうち朝香がトイレに行くと言って席を立った。来未は最後に、ちらりと私を見た。たぶん、合図をしたのだと思う。それからしばらく、来未が帰ってくる気配はなかったから。


 ふたりきりになると、綺瀬くんは私にどうして喧嘩なんてしたのかと訊ねられた。けれど、私が綺瀬くんへの告白を諦めたから来未が怒ってしまったなんてとても言えないので、なんでもないのだと笑って誤魔化した。


 そうこうするうち、あの事故が起こった。


 突然、ものすごい音がした。と思ったら、一気に船体が傾き、あちこちから悲鳴が上がった。私は衝撃に驚いて動けず、声すら出せなかった。

 振動で椅子から転がりかけた私を、綺瀬くんが咄嗟に支えてくれる。


『なにごとだよ!?』

『フェリーが座礁したらしい! このままだと……』


 乗客たちは、フェリーが座礁したのだと知ると、我先にとライフジャケットを着用し始めた。


 当時、私たちはライフジャケットを着ていなかったのだ。

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