第26話


 来未が死んだのは私のせい。こんなことならあのとき死んでしまえばよかった。

 そう嘆く私を、綺瀬くんはバカだなぁと笑って受け入れてくれた。


「食べなきゃ死んじゃうこと、想いは口にしなきゃ伝わらないこと。それから……死んじゃった人との思い出はもう、増えないこと……」


 もし私が来未のことを忘れたいと思ってしまったら、来未は私の心からも消えてしまう。


 綺瀬くんが教えてくれたのは、すべてごくごくふつうのこと。だけど、日常に慣れてしまうと見落としてしまいがちなことでもあった。


「……正直、来未のことを思い出すのは今でもすごく辛いです。でも、忘れるのはもっといやだから……前を向くことにしたんです」


 私はまっすぐに穂坂さんを見つめて、言った。


「彼に言われてようやく気付きました。私は生き残ってしまったんじゃなくて、助けてもらったから今こうして生きてるんだって」


 穂坂さんは、驚いた顔をして私を見つめている。

「私は、穂坂さんに助けられました。だから生きています。本当にありが……」

 礼を言おうとしたときだった。


「……ごめん」


 穂坂さんに静止され、私は言葉を止める。穂坂さんの瞳は、どこか寂しげに揺らいでいた。


「話してくれてありがとう。君の本心が聞けて、すごく嬉しい。……でも、ごめん。やっぱり俺は、君に礼を言われるような資格はない」

「え……?」


 戸惑いがちに穂坂さんを見る。穂坂さんは今にも泣きそうに顔を歪めて、私から目を逸らして俯いた。


「水波ちゃんにお礼を言うのは……本当は、俺のほうなんだよ」

「え……いや、穂坂さんがいなかったら私は確実にあのフェリーの中で死んでましたし……」

「違うんだよ」

 穂坂さんの語気が不意に強くなり、びくりと肩を震わせる。すると穂坂さんが慌てて顔を上げた。

「……あ、ごめんね。大丈夫、怒ってるわけじゃないんだ」

「……はい」

「でもね、お礼を言いたかったのは、俺のほう。だから今日も、時間を作って君に会いに来た」

「……穂坂さんが、私に?」


 意味が分からない。呆然としていると、今度は穂坂さんが話し始めた。


「……さっきはあんな偉そうなことを言ったくせにって思うかもしれないけど……俺は、一回君を諦めたんだ」

「え……あの、どういうことですか?」


 穂坂さんは、まるで喉になにかを詰まらせてしまったかのように、苦しげに言葉を吐く。


「……ごめん。被害者である君に、こんなこと言うべきじゃないのは分かってる。これから話すことは、君をさらに苦しめるかもしれない」

 首を振り、穂坂さんを見る。

「聞きたいです。お願いします」


 そう言うと、穂坂さんは一度深く息を吐いてから話し出した。


「俺は潜水士としてはまだ未熟で、あの事故は三度目の救助の現場だった。それまでは潜水士としてあそこまで大きな事故に出動したことはなかったから、その……現場の惨状が想像以上で……恥ずかしい話だけど、絶望したんだ」


 そう話す穂坂さんの表情はひどく沈んでいた。


 ほとんどが海水に沈んだ船内には、微動だにしない要救助者たちが浮いていたという。


 沈みゆく船の中で、穂坂さんたち潜水士はまず息のある救助者を探して奥に進んだ。そして僅かに空気が残った空間に浮かぶ私を見つけたという。


 私は瓦礫に押し上げられていて、奇跡的に顎から上だけが空気に触れていた状態で見つかったらしい。


「俺たちが到着した頃には、フェリーは既に炎上していて、かなり危険な状態だった。もし、このまま火の手が回ってエンジンルームの燃料タンクに火がつけば、爆発する。君たちの救助は文字通り命懸けで、俺は正直、いつフェリーが爆発するのかって怖くてたまらなくて、救助に身が入ってなかった。先輩が船頭近くの部屋に君を見つけて、瓦礫の撤去を手伝えと指示をくれたけど、俺は動けなくて、一刻も早くフェリーから出たくてたまらなかった」


 私は、言葉を返せなかった。


「それで、俺が君を抱き上げている間、先輩が瓦礫を撤去してくれていたんだけど」


 でも、と、穂坂さんはまた声を沈ませた。


「直後、フェリーがバランスを崩して急速に沈み始めた。俺たちは急いで船内から脱出することになったけど、君はまだ挟まれたままで、とうとう先輩が諦める判断をしたんだ。俺はそれに従った。……だから俺は、一度は君を助けることを諦めたんだ」


 どくどくと心臓が鳴る。握り込んだ手は、汗でべっとりと湿っていた。


「そ……う、だったんですか」


 冷や汗が背中をつたい落ちる。


 ゾッとした。私は、それほど死に迫っていたのだ。もし、穂坂さんがそのまま私を諦めていたら……。


 考えて、疑問が生まれる。

 私を助けることを諦めたのなら、どうして私は今生きているのだろう。


「それならどうして……?」

 訊ねると、穂坂さんは私を見て言った。

「君が、生きたいって言ったから」

「え……?」


 目を瞠る。


「君から手を離そうとしたとき、君が俺の手を掴んだんだ。その手が、助けてって言っているように思えて……俺は独断で、君の救助を優先した。たぶんあの瞬間、俺は本当の意味で潜水士になれたんだと思う」


 あとから先輩にはすっごく怒られたけど、と穂坂さんはおどけて言った。


「ごめんね。こんな話、辛いでしょ?」


 ぶんぶんと首を振る。


「さて」と、穂坂さんはティラミスをじぶんのほうに引き寄せてフォークで小さく割ると、お皿を私へ戻した。


「とりあえず、食べよう?」


 声を出さずに頷いた。いや、出せなかった。なにかを口にしたら、違うなにかが溢れてしまいそうで。

 お互い涙でぐしょぐしょのひどい顔をしながら、ケーキを食べた。


 鼻が詰まっているせいで、味も香りもぜんぜん分からないけれど、舌に乗ったマスカルポーネのムースはふわっととろけて、甘い余韻を残して消えていく。


「よく、思うんだ」

 レアチーズケーキを食べながら、穂坂さんは口を開いた。


「もしあの日君を見捨てていたら、俺はたぶん潜水士を続けられていなかったと思うんだ」


 目の縁に涙を光らせ、穂坂さんは笑う。


「だからね、君が俺を救ってくれたんだ。君が生きたいって俺の手を握ってくれたから、俺は今も潜水士を続けていられる。海に潜るたびにいつも思い出すんだよ、君が俺の手を握った感触を」


 きっと、一生忘れない。俺たちは要救助者が生きていようが生きていまいが、家族の元へ連れていくのが仕事だ。死んでしまった人を前にすると、遺族の泣き崩れる姿を見ると、どうしたって無力感に絶望する。だけどそういうとき、君の手を思い出すんだ。ここでやめちゃダメだ。ここでやめたら、この先助けられるはずの何人もの人を見捨てることになる。そう思って、毎日踏ん張ってるんだよ。


 そう、穂坂さんは言った。


 その言葉に、私はやっぱり堪えきれずに涙をぼろぼろと溢れ出す。


 私は、どうしてこんな大切なことに気付かなかったのだろう。


 あの日、フェリーの事故で死にかけていた私が今ここにいるということは、死にかけた私を死ぬ気で助けてくれた人がいたからなのに。


 綺瀬くんに言われるまで気付かないどころか、今こうして葛藤する穂坂さんを見るまで、その現実を本当の意味では受け止められていなかった。


「私……穂坂さんが命をかけて助けてくれたのに、それなのに、命を捨てようとして……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 穂坂さんは首を横に振って笑った。


「ほら、涙を拭いて。そんなに泣いたら目が腫れちゃうよ。可愛い顔が台無しだ」


 ティッシュを差し出され、受け取る。


「……すみません」

「俺にはまだ子供がいないから、君を責めた来未ちゃんのお母さんの気持ちは想像することしかでしない。だから、彼女を責めることはできない」


 ごめん、と穂坂さんは目を伏せる。

 私はそんな穂坂さんに首を振る。


「……いえ。そのとおりだと思います」


 私もそうだ。

 親友を亡くした人の気持ちなら理解できる。でも、娘を亡くした親の気持ちは私には分からない。


 今でも来未のことを思い出すと胸が潰れそうになる。家族なら、もっとだろう。


「だけどね、心ってひとつじゃないと思うんだ」

「え?」

「来未ちゃんのお母さんもね、きっと娘の親友である君が助かってよかったと、心から思っていると思うんだ。だけどその反面、娘と一緒にいたはずの水波ちゃんは助かったのに、なんでうちの子は無事に帰って来れなかったのだろうと思ってしまったんだと思う」


 言葉が出なかった。


 そうか。そうだ。少し考えれば分かることだった。

 来未のお母さんは、事故に遭った私を、泣きながら抱き締めてくれたことがあった。その顔は心からよかったと、私の無事を喜んでくれていたように思える。


 どうして忘れていたんだろう……。


「どちらもたしかに彼女の本心なんだよ。人の心っていうのは、複雑だよね」


 黙り込んだ私に、穂坂さんが微笑む。


「そう……ですよね。私、なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう……」

「仕方ないよ。他人に関心を持つ余裕なんてなかったでしょ」

 と、穂坂さんは苦笑した。


「……だからね、君が生きることに罪悪感を持ってしまうのは分かる。だけど、これだけは忘れないで。もし君に罪があるというなら、その罪は君を助けた俺にもある」

「……そんなことは……」


 否定しようとするけれど、声はあまり出なかった。

 きっと私も、心のどこかで穂坂さんが来未を助けてくれていたら、と思ってしまったのだ。

 穂坂さんは一生懸命仕事をしただけで、落ち度なんて少しもないのに。これこそ裏腹だ、と思った。


 アイスコーヒーを飲み、喉を潤した穂坂さんは私を見つめて静かな声で言った。


「背負うなと言っても無理だろうから、さ」

「……はい」

「だから俺も、その罪を半分もらうよ。君の両親もきっとそう思ってる。ほかにもきっと、君を想う人はたくさんいる」


 その言葉に、脳裏に朝香や綺瀬くんの顔が浮かんだ。


「……だからね、水波ちゃんはひとりだなんて思わなくていいんだ。顔をあげれば、君の荷物を持ってくれる人たちが周りにたくさんいるんだから。大丈夫。君は、みんなに愛されてるよ」


「…………」

 ぐっと奥歯を噛む。


 穂坂さんの優しい微笑みに、私は、

「はい」

 気づけばそう、笑顔で答えていた。

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