第19話


 翌日の放課後、私は朝香たちに予定があるからと言って、早々に学校から帰った。そのまままっすぐ、綺瀬くんのところへ行く。


 山の上の神社の、そのさらに上を目指して石段を登っていく。


「綺瀬くん!」


 神社の奥、石段をさらに上がった先にある、空の下にぽっかりと空いた広場に出ると、そこには見慣れたシルエットの青年がいた。


「水波。来てくれたんだ」


 ベンチには、爽やかな笑顔をたたえた綺瀬くんがいた。小走りで駆け寄り、となりに腰を下ろす。


「今日はなんだか悩んでる顔してるね」


 顔を合わせるなり、綺瀬くんが言う。


「……そ、そうかな?」


 誤魔化しながらも、どきりとするじぶん。綺瀬くんの言う通りだった。

 先生に修学旅行のことを言われてから、あまりまともに眠れていない。

 しかし、いくらひとりで考えても答えを出せないからと、今日はその件を綺瀬くんに相談しようと思ってここへきたのだ。


「いいよ、話してごらん」


 優しく言われ、私は素直に頷く。


「私ね、十二月に修学旅行なの」

「おぉ。それは楽しみだね」

「…………うん」

「……って、あれ。もしかしてそうでもないのかな?」

「そんなことはないんだけど……ただ場所がね、沖縄なんだ。それがちょっとひっかかってて」


 行き先を告げると、綺瀬くんは息を呑んだ。


「先生は、無理しないでいやなら欠席していいって言ってくれたんだけど……友達はみんなすごく楽しみにしてる。一緒の班になろうって私のことも誘ってくれたの。みんなの楽しみの中にね、私と一緒にっていうのも入ってるんだ。だから、行くか行かないか、すごく迷ってて」


 夏休みが明けたばかりの頃の私は、ひとりぼっちだった。当時の私なら、行かないと即答しただろう。


 でも、今は。

 今はとなりに朝香がいる。ほかにも、歩果ちゃんや琴音ちゃんがいる。

 本心を言えば、行きたいと思っている……と思う。


「でも……私、あれから一度もあの場所に行ってない。海なんて絶対無理だし、それに……水族館とかも正直行ける気がしないんだ」

 そっか、と綺瀬くんは吐息混じりに言った。

「……ねぇ、水波はなにが怖い?」

「行くのはいいの。ただ……」


 行ってみて、案外なんともなかったな、と思うのがいちばん怖い。

 沖縄で、ふつうでいられるじぶんがいたら、私はたぶん、じぶんにどうしようもない嫌悪感を覚えるだろう。

 それが、怖い。

 そう言うと、綺瀬くんは目を伏せた。

「……そっか」

「先生に言われたときからずっと考えてるんだけど、ぜんぜん答えを出せなくて。……どうしたらいいかなって、悩めば悩むほど分かんなくなっちゃって」


 私は膝の上に置いた手元へ視線を落とした。握ったり開いたりをしながら、きっとどこかにあるじぶんの心を探ってみる。


「……ねぇ、水波があの事故の被害者だってことは、みんなは知ってるんだよね?」


 顔を上げ、頷く。


「それなら、自由行動で船に乗るアクティビティは避けてもらうよう頼んでみたらどうかな? あぁ、でもなぁ。沖縄の水族館は大きいし、大体定番だから、自由行動のときじゃなくて学校全体で行くことになりそうだよね。ただ、それなら先生も配慮してくれるんじゃないかな。みんなが水族館にいる間だけはバスの中で待っているとかね」

「でも、私だけそんな特別待遇は……」


 みんなに迷惑がかかってしまう。それに、そこまでして行く意味があるのだろうか。


 また俯きかけると、綺瀬くんが言う。


「バカだな、水波。これは特別じゃないよ。それぞれが一番楽しめる修学旅行にするためのただの努力だ」

「努力……?」

「そうだよ。水波が悩むことなんてない。水波が決めるのは、修学旅行に行きたいかどうか、みんなと思い出を作りたいか、それだけだよ」


 呆然と綺瀬くんを見る。

 行きたいかどうか……。


「……そっか……」


 暗闇の中に、すっと光が差したような気がした。

 私たちは、あの日に戻ることはできない。でも、進むことはできるのだ。いつだって、道は前に向かって続いているのだから。


 綺瀬くんは、どうしてこんなにも私のことを分かってくれるのだろう。この一週間、ご飯も喉を通らないくらいに悩んだのに、綺瀬くんに会ったら、ほんの一瞬で解決してしまった。


「水波はどうしたい?」


 綺瀬くんに問われ、私はおずおずと口を開く。


「行きたい……修学旅行。行きたい、朝香たちと」


 すると、綺瀬くんは穏やかな笑みを浮かべて、私を見た。


「なら、行くべきだよ。絶対」


 朝香や歩果ちゃんや琴音ちゃんたちクラスメイトと、三泊四日の修学旅行。


 高校のその先の進路はまだ決めていないけれど、もしかしたらこれが最後になるかもしれない学生旅行。高校生で、たった一度きりの旅行。


 行きたいに決まっているのだ。


 ――でも……。


 ふと、心に影が差す。


「本当に、いいのかな……」


 少なくとも、私が朝香たちと同じようにただ人生を楽しむのは、違うと思っている。


 だって私は、来未の死の上に立っているのだ。来未は、高校に行くことすらできなかった。私だけなにもかもを忘れて遊ぶというのは、神様が、来未のママが許さないのではないか。来未も、許さないのではないか。


 ぐっと胃のあたりが重くなったように感じて、奥歯を噛む。


「……水波? どうした?」

 綺瀬くんの心配そうな眼差しに、私はハッとして顔を上げた。

「……あ、ううん。大丈夫。ただ、ちょっと思い出しただけ」

「……思い出したって、事故のこと?」


 こくりと頷く。


「どうしてもね、前向きになろうとすると、いつも来未の顔がよぎるんだ」


 お前は人殺しだ。人と同じように生きるなんて許さない。

 そう、耳元で囁かれている気がする。


「……ねぇ、綺瀬くんはだれかに恨まれたことある?」


 綺瀬くんは一瞬目を瞠って、黙り込む。そして、「いや……」と小さく首を振った。


「前にね、朝香に言われたんだ。私が生きていてくれてよかった。出会えてよかったって。……そう言われたとき、すごく嬉しかった」


 こんな私にもそんなことを言ってくれる人がまだいるのかと、涙が出た。


「……でも、来未のお母さんはきっと、私と来未が出会わなければよかったって思ってる」


 二年前、沖縄に旅行に行こうと言ったのは私だった。

 夏休みだから、どこかに行こうよって。

 私がそんなことを言わなければ、来未はきっと今も笑って生きていた。私に出会っていなければ、来未はきっと、今も元気に生きていたのだ。


「……私ね、あの事故の遺族からすごく恨まれてるんだ。私だけ生き残っちゃって、ほかの人はみんな死んじゃったから」


 来未のママだけじゃない。私に詰め寄ってきた人はほかにもいた。


「事故のときのことは、今もまだ記憶が曖昧でよく覚えてないんだけど……このままじゃ、いけない気がするの」


 その瞬間、いつも穏やかな綺瀬くんの顔に、ピリッと緊張が走ったような気がした。


「あの事故のことを思い出そうとすると、どうしても頭にもやがかかったようになるんだけど、それでも思い出さなきゃって気持ちになる。それはきっと、私が忘れてることがすごく大事なことだからだと思うんだ」


 きっと、思い出すと辛い記憶。だけど、それでも思い出すべき記憶なのだと本能が言っている気がする。


「だからね、私……」


 ――と、そのときだった。

「!」

 突如ぶわっと凄まじい突風が吹いて、私は咄嗟に目を瞑った。

 ざわざわと木々が鳴る。遠くでクラクションの音が響いた。

 少し風が落ち着いて、私はかすかに目を開けた。綺瀬くんは私を見たまま、悲しげに笑っていた。


「え……」


 目を瞠る。

 綺瀬くんの姿が、背景に溶け込むようにかすかに滲んでいる。まるで、涙を溜めた瞳で見ているかのような錯覚を覚えて、私は思わず目元をごしごしと拭った。


「綺瀬、くん……?」


 風が止んだ。瞬きをしてあらためて見ると、いつもどおりの綺瀬くんがそこにいた。

 困惑していると、綺瀬くんが青白い顔をしてぽつりと呟く。


「……いいんじゃないかな」

「え?」


 綺瀬くんの瞳が悲しげに揺れた。

 かと思えば、綺瀬くんが手を伸ばし、私の目を隠すように手で覆い、抱き締める。あまりにも優しいぬくもりに、きゅっと喉が絞られるように息ができなくなる。


「綺瀬く……」

「思い出すのが水波の苦しみになるなら、思い出さないほうがいい。それで心が守れるなら、思い出すな。そんな記憶、君の人生になくていい記憶だから」


 綺瀬くんの、私を抱き締める力が強くなった。


「で……でも……それじゃ前に進めないし……」

「いいんだよ。それでいい。水波はなにも悪くないのに、どうして生きていることに負い目を感じなくちゃいけないの? それこそバカげてるよ。これからは、水波は楽しいことだけを考えて、前を見て生きるんだよ。過去なんてどうだっていいんだよ」


 珍しく、感情的な言い方だった。


「……綺瀬くん?」

「さて。この話はおしまい。それより水波、最近いろいろあって寝不足なんでしょ? 手を繋いでてあげるから、休もう。俺もちょっと眠いんだ」


 綺瀬くんは話は終わりだとばかりにそう言って、私の手を握ったまま横で目を瞑った。

 私はそれ以上なにも言えず、となりで目を閉じた綺瀬くんを見る。


 綺瀬くんのぬくもりがあると、とても落ち着く。だけど、最近は胸が痛くなることがある。

 それはまるで事故のことを思い出すときの痛みに似ているようで、ざわざわと胸が騒いだ。


 ……どうしてだろう。綺瀬くんのとなりはこんなにもあたたかいのに、握られた手は悲しいくらいに冷え切っている。


 私は、小さく寝息を立てる綺瀬くんの横顔を盗み見ながら、妙な焦燥に駆られた。

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