第16話
「えっ……えっ? どうして? なんで綺瀬くんが私の学校にいるの!?」
驚く私に、綺瀬くんはしたり顔で言う。
「なにって、水波の文化祭を見に来たんだよ。学校での様子も見てみたかったし。あちこち探し回ってようやく見つけたと思ったら、クラスメイトの喧嘩の仲裁なんてしてるんだもん、びっくりしちゃった。かっこよかったよ、水波ちゃん」
「……もしかして、ずっと見てたの!?」
じわじわと恥ずかしさが込み上げる。
信じられない。見ていたなら声をかけてくれたって良かったのに。
「盗み見とか信じられない……」
「ごめんって。そんなに怒るなよ」
うなだれる私を見て、綺瀬くんはくすくすと笑っていた。
今日の綺瀬くんの格好は、黒のVネックティーシャツに、黒のパンツ。黒ずくめだ。
少し暑そうな気もするけれど、背の高い綺瀬くんに黒はよく似合う。
「でもすごいじゃん、水波。あの子たちは水波のおかげで大切な親友を失わずにすんだんだよ」
「……そう、かな?」
私は風になびく髪を整えながら、そわそわと落ち着かない心地になる。ちらりと綺瀬くんを見ると、にこにことして私を見ていた。
「そうだよ。えらいえらい」
不意に頭を撫でられ、どきりとする。
「……私はただ、綺瀬くんが教えてくれたことをあの子たちに言っただけ。素直になるって恥ずかしいし難しいけど、思いは口にしないと伝わらないって分かったから」
逆に、ちゃんと話せば分かってもらえるんだということも。
「それに……歩果ちゃんいい子だったし、私みたいに後悔してほしくなかったから」
綺瀬くんは「そっか」と微笑むと、なにやらバッグを漁り、不意になにかをずいっと差し出してきた。
「頑張った水波にはご褒美にこれをあげよう」
「……なにこれ」
「さっき買ったパウンドケーキ」
「一本まるごと!?」
「うん。だってそうやってしか売ってなかったんだもん」
「だもん、って……」
綺瀬くんが差し出してきたのは、マーブル模様のパウンドケーキだった。色味からして、チョコとプレーンだろうか。たぶん、調理科の屋台で売っているやつだ。
「がぶっとどうぞ」
「う……じゃあ、ひとくち」
綺瀬くんに促され、私は言われるままパウンドケーキにかじりついた。噛んだ瞬間、ふわりとバナナの甘い芳香が鼻に抜ける。
「……おいひい」
「でしょ?」
綺瀬くんは自分もパウンドケーキにかじりつく。綺瀬くんが食べたのは、私がかじったところだった。
「えっ」
思わず声が出てしまい、慌てて口を押さえる。
「ん?」
綺瀬くんはきょとんとした顔を私に向けた。
「……な、なんでもない」
私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、サッと顔を逸らす。
顔が熱い。
綺瀬くんは、呑気に空を見上げながらパウンドケーキを食べている。ぜんぜん、私のことなんて意識してないって顔をして。
べつに、こんなのどうってことない。間接キスだなんて、今どき付き合ってなくてもふつうにするんだし。
……でも。でもなぁ。
少しだけ悔しい、なんて思ってしまう。だってなんだか、私ばっかり意識してるみたいで。綺瀬くんだって、私のこと好きって言ったくせに。
……綺瀬くんは、このあとどうするのだろう。帰るのだろうか。もし、時間があるならもう少し一緒にいたいなぁ。
私は意を決して、綺瀬くんへ身体を向けた。
「あの……綺瀬くん」
「ん? どうした?」
綺瀬くんが首を傾げる。
「あのさ、綺瀬くん……このあと時間あるなら、良かったら一緒に……」
思い切って誘おうとしたときだった。
「水波ーっ!」
静かな中庭に朝香の声が響き、私は飛び上がって驚いた。振り向くと、渡り廊下から手を振る朝香の姿。
その顔を見た瞬間、ハッとする。
そういえば、今日は朝香と文化祭を回る約束をしていたのだった。すっかり忘れて綺瀬くんを誘うところだった。
「もうっ! どこにもいないから探したんだよっ!」
「ごめん、あの……今ちょっと知り合いと話してて……」
言いながら、綺瀬くんを振り返る。……が。
「えっ? あれ?」
ベンチには、綺瀬くんの姿はなかった。
慌てて、周囲を見る。けれど、いない。どこにもいない。
「……綺瀬くん?」
トイレにでも行ったのだろうか……。
首を傾げていると、朝香が「今すぐ行くから、そこで待ってて!」と言って校舎の中へ入っていった。
すぐに中庭にいる私のもとへやってくると、朝香は駆けてきた勢いのまま、私に抱きついた。
「もうっ! 時間になっても教室に戻って来ないから探したんだよ! 歩果と琴音が事情を教えてくれたから良かったけど……連絡くらいしてよ! 心配したんだからねっ!」
「ごめん」
朝香との約束をすっかり忘れていた私は、口を尖らせる朝香に謝りながらも、私は綺瀬くんのことを気にする。
「まぁいいわ。で、あんなところでなにしてたの?」
「あ……うん。今ね、たまたま知り合いと会って話してたんだ」
「知り合い?」
朝香が怪訝そうに私の後ろを見る。
「うん。でも、もう帰っちゃったみたい」
周囲を見たけど見当たらなかったし、きっと帰ったのだろう。そもそも今日は約束もしてなかったのだ。会えただけでもラッキーだった。
でもまさか、綺瀬くんが学校にまで来てくれるなんて思わなかった。できればもう少し一緒にいたかったけれど……。
「……そかそか。ってか、それよりさぁ」
「ん?」
朝香はなぜかにやにやしている。首を傾げ、「なに?」と聞き返すと、腕を小突かれた。
「水波ったら、歩果と琴音の間取り持ったらしいじゃん! さっき教室に戻ってきたふたりがすごく感謝して私に言ってきたんだよ。歩果も琴音も、水波ともっと話したいって言ってたぞ。お礼を言おうと思ったら、いつの間にかいなくなってたって」
朝香は呆れ顔をして、まったく水波の神出鬼没具合ってぜんぜん治らないよね〜と言う。
「……べ、べつに、私はなにもしてないよ。ただ、思ったことを言っただけで」
「照れちゃって、もう」
「まぁまぁ、それよりさ」と、朝香の手を取る。
「お店回ろーよ。今からでも、急げば少しは回れるでしょ?」
「おっ、そうだね。さて、なに食べるーっ?」
「あっ、農業科の牛串美味しかったよ」
「えっ!? もう食べたの!? あんた宣伝してたはずじゃ」
「宣伝してるとき、歩果ちゃんが奢ってくれたんだ」
その瞬間、朝香の目が三角になった。
「なにぃ!? ちゃっかり仲良くなってるんじゃないよ! まったく、親友の私を差し置いてー!」
「ごめんって。あ、調理科のパティスリー行かない? さっきパウンドケーキもらったんだけど、美味しかったから違う味も食べてみたい」
「パウンドケーキも食べたんかい!」
「えへへ。ほらほら、むくれてないで早く行こ!」
「なんかおごれ!」
「えぇー!」
わちゃわちゃとじゃれ合いながら歩き出す。
調理科特製のけんちんうどんにたこ焼き、クレープに牛串。
朝香とふたりで分け合いながら、片っ端から屋台を制覇した。最後にお土産用のパウンドケーキを買ったところで、ちょうど終業のチャイムが鳴った。
「……う、食べ過ぎた」
「だね。ヤバい、しばらく体重計乗れない」
私たちは、お互いにふくれたお腹を押さえながらよろよろと教室に戻った。
「あっ、榛名さん!」
琴音ちゃんが駆け寄ってくる。私はそれを手で制して、もう片方の手で口元を押さえる。
「間違っても抱きついてこないで……吐きそう」
「え!? なにそれなんで!? ここではやめてよ!?」
琴音ちゃんが顔を引き攣らせて後退る。
すると歩果ちゃんが、
「大丈夫? 水波ちゃんも朝香ちゃんも顔色すごく悪いよ?」
「大丈夫、すぐ飲み込むから」と、朝香が答える。
「汚っ!!」
琴音ちゃんがはっきりと言った。
「残念だなぁ。これから後夜祭一緒に行こうとしてたのに」
「体育館でライブあるんだって! ダンス部と演劇部の発表も!」
「絶対見たい!」
歩果ちゃんと琴音ちゃんがはしゃぐ。楽しそうだ。
「うわぁ、見たい! けど気持ち悪いぃ」
「ならほら、行くよ!」
「うわ、ストップ! ちょっとだけ待って〜」
そのあと、私と朝香はなんとか胃の内容物を消化し、歩果ちゃんと琴音ちゃんを交えた四人で後夜祭に出席した。
高校二年の夏の終わり。
私は、はじめての文化祭をめいっぱい楽しんだ。
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